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リンクリングトラウム  作者: 田川 竜
第四章 ヤマアラシのジレンマ
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ヤマアラシのジレンマ(2)

資料室でみんなと別れた後、そのまま真っ直ぐ家に帰る気にもなれず、陽千香は一人校舎内を歩き回っていた。放課後もこの時間になると、部活などの用事がない生徒はほとんど姿が見えなくなってしまう。部室と化した教室を通り過ぎ、ぐるりと廊下を迂回して階段の方へと向かう。

歩きながら考えるのは、先ほど貴則が言っていた言葉。本人はきっと冗談のつもりで言ったのだろうが、言われてみれば可能性は大いにあるのだ。今のままでは見つけられないというのなら、覚悟を決めてそこへ踏み込んでいく必要があるのではないか。

階段を目の前にして、陽千香はやはり少し躊躇った。ここは三階。生徒が通常行き来する範囲では、最上階とされる場所だ。だが実際にはこの先に、まだ階段は続いている。

深呼吸を一つ。ただ階段を上るだけなのに、何だかとても悪いことをしているような気分になる。これこそが自分と彼らとを隔てる境目なのかもしれない。思わず苦笑を漏らしつつ、陽千香は屋上への階段を上り始めた。

金属製の扉には"無用の立ち入り禁止"と貼り紙が貼られていたが、鍵は掛かっていないようだった。ほんの僅か、罪悪感を覚えながらも、陽千香はドアノブに手をかける。

――ギィ……

そっと開いたつもりだったが、()び付いた音は思いのほか大きく響いた。恐る恐る外を覗き込み、人の姿が見えないことに安堵しながら屋上に踏み出す。くすんだ緑色の床に立つと、(すず)やかな風が髪を揺らしながら吹きすぎて行った。遮るもののない空は僅かに暖色を帯びてきており、もう暫くすればきれいな夕焼けが見られそうだった。

頬を撫でる風の感触を充分堪能(たんのう)した一方で、期待していたものが見つからなかったことに少しだけ肩を落とす。もう戻ろうと(きびす)を返し、金属扉のノブに手を伸ばそうとした。

その視界の端に、人影が映ったような気がした。伸ばしかけた手を止めて視線をそちらに向けた陽千香は、人影が置かれた状況に愕然と目を見開いた。

転落防止のフェンスの向こう。人一人がやっと立てる程度の幅しかない、屋上の端の(がけ)っぷちに、一人の少年が座っていた。目を引かれたのは、遠目にも目立つ白に近い色合いの金髪。ぼんやりと上空を(あお)いでいる彼は、ぷらぷらと空中に足を投げ出した格好でそこに座っているのだった。

少年の姿を認識すると同時、陽千香は大慌てで彼の元に駆け寄ると、フェンスの内側から悲鳴に近い声を上げた。

「早まっちゃダメっ!!」

走って来た勢いのまま掴んだフェンスが、ガチャガチャと小刻みに揺れている。陽千香の動揺に比例するかのようなその振動が収まった頃になって、ようやく少年がこちらを振り向いた。刃物を思わせるような精悍(せいかん)な横顔。不審と不信で満たされた鋭い目に射抜かれ、思わずたじろいだ陽千香だったが、ここで退いてはいけないと自分を(ふる)い立たせて言った。

「と、飛び降りなんてダメ! 何があったって死ぬより辛いことなんてないんだから、そんな早まった真似なんて……したら……?」

言いながら、陽千香の目は少年の足元に釘付けになっていた。上履き。上履きだ。彼は両足とも、ちゃんと上履きを履いているのだった。

「あ、れ……?」

もしかして、自分はとんだ早とちりをしてしまったのではないだろうか。こちらを睨み付けている少年と目が合った陽千香は、眉を下げて困ったように笑いかけた。

「ええと……もしかして私、すごい勘違いしちゃった……?」

少年は答えなかった。陽千香から目を逸らし再び上空に視線を向けた彼は、鬱陶(うっとう)しそうに息をついて、それきりちらともこちらを見なくなった。気まずさに頬を掻いていた陽千香は、気を取り直して少年に声をかけた。

「お、お騒がせしちゃったみたいでごめんなさい……でも、そんなところにいたら危ないんじゃない……?」

風がそれほど強くないとはいえ、少しでもバランスを崩せば事故に繋がりかねない。わざわざそんな危険なところに座って、この少年はいったい何をしているのだろう。

とりあえず自殺志願でないことは分かったが、だからといって捨て置けるものでもない。振り返ろうともしない少年の背を見つめながら、陽千香はどうしたものかと頭を捻った。

錆び付いた金属音が背後から響いて来たのはその時だった。これだけ気持ちの良い場所なのだ、案外人の出入りがあるのかもしれない。こんなことなら変に身構えず、もっと早く覗きに来れば良かった。そう呑気に考えながら振り向いた瞬間、陽千香は全身を強張(こわば)らせてその場に立ち竦んだ。

「あっれ~? 誰かいる~」

「へー、オンナノコじゃん。かっわいー」

軽薄な台詞を吐きながら屋上に踏み込んできたのは三人の男子生徒。制服のズボンを腰より下げた位置に引っ掛け、上履きの踵を踏み潰しただらしない()で立ちの彼らは、無遠慮な好奇の視線を陽千香に向けていた。上履きの色を見る限りではいずれも三年生なのだろうが、良一や貴則とはまるで別の生き物のように見える。すぐにでもこの場を立ち去りたかったが、あいにく屋上の出入口は一つだ。彼らが扉の前を塞いでいる以上、無視して通り過ぎることはできそうになかった。

「アンタさぁ、そいつと知り合い?」

茶髪にパーマをかけた男子が、にやにやと下卑(げび)た笑いを浮かべながらこちらに声をかけてきた。そいつ、というのはこの少年のことだろうか。一瞬そちらに目を向けて、答えられずに立ち尽くしていると、前髪をカチューシャで上げたやや小柄な男子が小指を立てて見せながら言った。

「まさかまさかの彼女だったりして~?」

「マジ? 傑作なんだけど」

彼らは自己完結するように顔を見合わせ、声を上げて笑い始める。完全な誤解だったが、彼らの間に割り込んで否定する度胸は陽千香にはなかった。

「ちょうど良い。アンタにもちょっとツラ貸してもらうぞ」

そう言って近付いて来たのは、オレンジにも見える派手な色の髪を短く刈り上げた男子。三人の中では一番体格が良く、ただ立っているだけで相当な圧迫感がある。彼は後ずさる陽千香の肩を乱暴に掴むと、後ろに控える二人に向けて力任せに押し出した。

「ひゃっ……!?」

「オーライオーライ♪」

たたらを踏んだ陽千香を、カチューシャが受け止める。押さえ付けるように肩に手を置かれ、陽千香は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。

仲間が陽千香を押さえたのを見届けると、刈り上げがフェンスの向こうの少年に向かって吠えた。

「よぉ、彼女のピンチにシカト決め込んでんじゃねぇよ。こっち来て俺らと遊べ、なぁ?」

ドスを利かせた声で言うと、刈り上げは少年のすぐ背後のフェンスを蹴り飛ばした。金網が揺れて唸る音が、穏やかだった空の下に響く。首を竦める陽千香の横で、茶髪とカチューシャの笑う声がした。

フェンスの揺れが収まる頃、ふっとため息をつく音が聞こえた。黙って崖っぷちに座っているだけだった少年が、狭い足場で億劫(おっくう)そうに立ち上がった。彼は振り返って手足の先をフェンスの網目にかけ、軽々とそれを乗り越えてみせる。屋上の床に足が着こうかという瞬間、まだ体勢も整っていない少年に向かって、刈り上げが蹴りを繰り出した。

陽千香は思わず口元を覆った。だが、その卑怯な不意打ちは少年には届かず、再びフェンスを揺らしただけだった。少年は着地の衝撃を横に逃がして転がると、そのまま刈り上げの懐に入り込んでいた。隙を突いたと思って完全に油断したのだろう、目を剥いた刈り上げの鳩尾(みぞおち)に、少年の拳が突き刺さる。陽千香の目にはすれ違い様に当てる程度の動作に見えたが、刈り上げは息を詰まらせて身体をくの字に折った。倒れこそしなかったものの、すぐに動き出せるほど軽い一撃でもなかったのだろう。憎々しげな視線を向けながらも、横を通り過ぎていく少年に何もできずに突っ立っている。

「テメェ……!」

低い声を上げながら、茶髪が陽千香の傍を離れた。無表情に近付いて来る少年目掛けて勢いよく拳を振るが、少年が僅かに身体の軸を動かしただけで、そのいずれもが(むな)しく空を切っていく。次に繰り出された右の拳を、顔の側面すれすれでかわすと、少年はその場でくるりと回転し、茶髪の側頭部にきれいな蹴りの一撃をくれた。悲鳴も上げずに昏倒(こんとう)する仲間を見て、カチューシャが情けない声を出す。

「こ、ここここっち来たら彼女が痛い目見るかんな! 来んなよ、絶対来んなよっ!」

カチューシャは言いながら、陽千香の肩に置いた手に力を込めてくる。指が食い込む痛みに顔をしかめながら少年の方を見れば、彼は冷めた目をこちらに向けながらじっとその場に佇んでいた。陽千香が邪魔で攻めあぐねているのだろうか。見境なく殴りかかって来ないでくれたのは助かったが、盾にされている今の自分の状況に、陽千香は背筋が寒くなった。

不意に肩を掴んでいた手の力が緩んだ。怪訝に思って横目に見ると、カチューシャの口元に僅かに笑みが浮かんでいた。恐らく三人の中で一番小心者であろう彼が、この状況で笑っていることを不審に思っていると、少年の背後にゆらりと人影が立つのが見えた。鳩尾に食らったダメージから復帰したのだろう、怒りの形相を(たた)えた刈り上げが、拳を振り上げながら少年に迫っている。少年は、今もまだこちらを向いたままだ。

「危な――」

声を上げようとした刹那、少年の身体がぐらりと(かし)いだ。突き出された刈り上げの拳は少年から大きく逸れて空中を打つに(とど)まり、代わりに、振り返りながら放った少年の強烈な打撃が刈り上げの顔面中央を捉えた。白目を()いた刈り上げが今度こそ倒れるのを見届けると、少年は再びこちらの方に向き直った。間に立つ陽千香には構わず、視界にカチューシャを()えながら歩いて来る。

「ひっ……!?」

完全に一人になったカチューシャは、(たま)らず陽千香から手を離した。一瞬、地に伏したままの仲間二人に目をやると、顔を引き()らせながら大慌てで扉の方へ逃げて行く。

忙しない足音が遠ざかるのを聞きながら、陽千香はその場にしゃがみ込んでしまった。まるで貧血でも起こしたように力が抜けて、目の前がぐらぐら揺れていた。爆発しそうな心臓を(しず)めようと必死に深呼吸を繰り返していると、ふと見た先に少年の姿が映った。

不良三人組に向けていたのと何ら変わらない冷たい眼が、静かに陽千香を見下ろしている。彼の足元には、刈り上げと茶髪がまだ転がったままでいる。その光景が何だかとても恐ろしく感じられて、陽千香は地を這うように少年から距離をとった。少年から目を離さないまま立ち上がり、一気に背を向けて校舎の中に飛び込んで行く。

階段を駆け下り、廊下を走り抜け、職員室の前までやって来ると、ようやく人心地付いて足を止めた。振り返って廊下の先を見る。当たり前だが、そこにはもう少年の姿は見えなかった。陽千香は胸元を押さえて、恐怖と一緒に肺の中にある全ての空気を吐き出した。

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