第4章 光の回廊 6
「帰る……つもりだったんだけどな。光の都のジエルフォートさまのお城に」
七都は、呟いた。
七都の意識は、魔の領域ではない場所にいた。相変わらず、体から抜け出したまま。
周囲には、あの水槽の透明な壁もなく、そこに満たされた不思議な水もなく、窓から見える光の都市の機械とガラスで出来た景色もなかった。
背の高い草が丘らしき斜面に生え、やわらかい動きで風に揺れている。猫の背中の毛が風に吹かれるように。
空は、シャルディンの実家の近くの空と全く同じだ。多少雲の形と量が違っているくらいだった。
「また変なところに来ちゃった。だけど、ここもやっぱり、見覚えのある場所だ」
七都は、草の斜面を上昇した。
途端に、そこが七都にとって大切な場所であることがはっきりとする。
見覚えがあるどころではない。
石畳の庭。折れた柱。地下に避難所があるドーム。うずくまった猫の石像。七都が姿を映した、花の形の水盤。
そこは、リビングの緑の扉の向こうに広がる光景。
七都がこの世界に来て、初めて降り立った場所――。あの遺跡だったのだ。
(ああ、ここに来てしまったんだ……)
七都は、懐かしげにあたりを見渡した。
誰もいない静かな遺跡には、けだるげな、だが、眩しいくらいの太陽の光が満ちている。
月のやさしい光とは対照的な、明るくきつい光。
月の銀の光は穏やかに景色を包み込むが、太陽の金の光はすべてのものを照らし尽くし、ことごとく正体を明らかにしてしまう。全く容赦がなかった。
七都は、石畳の上をふわふわと移動する。
(ここにはやっぱり、何か引き寄せられるものがあるのかも。魔神族もよく来てるみたいだし。何せ、元魔王さまの神殿だものね)
七都は、思った。
ん。でも、ちょっと待って。
ここがあの遺跡なら、もちろん……。
七都は、振り返る。
探していたものが、ちゃんとそこにあった。
黒い招き猫だ。
果林さんがネット通販で衝動買いした、ドアストッパー。不必要に大きな、しかも重い招き猫。
黒い招き猫は石畳の上で、ぽつんと一匹だけ佇み、片方の前足を上げていた。まるでこの遺跡の番人であるかのように。
「あそこに招き猫があるってことは、あのドアもあそこにあるってことだ」
七都は目を凝らして、招き猫がいるあたりの空間を眺めた。
アイスグリーンのリビングの扉が招き猫のすぐ後ろに、背後霊のように透き通って立っている。
目を細めて見据えると、それが次第にはっきりとしてくる。
生身のときは、全然見えなかったのに。
あの扉を抜けたら、元の世界に戻れるかもしれない……。
七都は、ぼんやりと考えた。
もう明らかに忘れそうになっている、わたしが来た世界。わたしが生まれて育った世界。
今は夏休み。わたしは帰らなきゃならない。夏休みが終わるまでに。
そうだ。まだ宿題もやってないんだ。ほとんどまるごと残ってる。
家庭科は何か作品を一点縫わなきゃならないし、美術の写生もやってない。
帰らなくちゃ。
あのドアの向こう。白緑色の板一枚隔てたほんの向こう側に、わたしが本来属している日常の世界があるんだ……。
片手を上げて、おいでおいでをする招き猫――。
招き猫とドアがセットになって、誘惑を仕掛けてくる。元の世界への、甘くせつない思い――。
七都の心は、しばし揺れた。
だけど、だめだ。戻ってはいけない。
今、この状態で戻って、どうしようというのだ?
ここにいるのは、自分の意識。生霊で幽体。
体は遠く魔の領域の、光の都の中。光の魔王が持つ水槽の中を漂っている。
とてもひどい怪我をしていて、治療中なのだ。
自分の体から、あまり離れてしまってはならない。
ジエルフォートさまにも注意された。異世界に行って迷ったりなんかしたら、もう帰れなくなる。本当の幽霊になってしまうって。
七都は思い直し、招き猫と緑のドアの亡霊にくるりと背を向ける。
あの扉を通って帰るのは、全部終わってから。
グリアモスに付けられた傷をきれいに直して、風の都に行って、ナチグロ=ロビンとリュシフィンに会ってから。それからだ。
(そうだ、ここにせっかく来たのだから、セレウスとゼフィーアに会いに行こう。あの二人にわたしの姿が見えるかどうかわかんないけど。あまり期待できないなあ。でも、見えなくてもいいや。久しぶりだから、ちょっと覗いて行こう)
七都は遺跡から高く浮き上がり、チーズケーキをたくさん並べたような町、アルティノエにある、アヌヴィムの魔法使い姉弟の館を目指した。
セレウスたちの館は、すぐに見つけることが出来た。あっけないくらい簡単に。
見つけたというより、軽く念じると、もうそこの屋根の上に浮かんでいたのだ。
あまりにもあっさりと到着できたことに、七都は躊躇する。
この間、闇の魔王のUFOを追いかけたときは、館は他の建物に紛れ込み、どこにあるのか全くわからなくなったというのに。
何て便利なのだろう。やはり、重い体から解き放たれた、意識だけの状態だからなのか。
それほど苦労しなくても、セレウスたちの意識も、自然に探知できてしまうのかもしれない。
生身のときに七都が魔力を最大限に使ったとしても、たぶんこんなふうにはいかない。
七都は、中庭に降り立った。
見慣れた庭の景色が、七都の視界いっぱいに広がる。
手入れの行き届いた木々、太陽の光にきらめいて涼しげな音をたてている噴水。
そして、等間隔に並び立つ、あかぬけたデザインの回廊の柱。
ああ、あの館だ。帰ってきたんだ。
七都は、なんとなく嬉しくなる。
ここに来ると、ほっとする。ここは、いつも変わらない。
館を包み込む、穏やかでけだるい空気も。噴水の途切れることのない、きらきらした透明な水も。館全体に流れる、ゆったりとした時間も。
そして、セレウスとゼフィーア……。
回廊の向こうから、アヌヴィムの姉弟が歩いてくるのが見えた。
七都は庭から回廊に入って、その落ち着いた色合いのモザイクの床に立ってみる。
果たして彼らに、自分が見えるのだろうか。
ちょっとだけ期待してみようかな。
七都は、近づいてくるセレウスとゼフィーアの真正面に、黙って突っ立った。
二人は、楽しげに話をしながら歩いている。
鮮やかな緋色の髪と、明るい緑の目。
セレウスは白を基調にした服を、ゼフィーアは黒のドレスを身にまとっていた。
(ほんとにこの二人、よく似てる。もちろん、雰囲気は全然違うけれど)
七都は、彼らを眺めた。
ゼフィーアは、魔法で少女の姿をしているので、一見、兄と妹のように見える。
年の離れた姉弟らしいんだけど、いったいどれくらい離れているんだろう。親子くらい離れているのかな。
彼らの目は前方の七都に何度か向けられたが、その視線は明らかに七都の姿を追ってはいなかった。
彼らの目に映るのは、いつもと全く同じ状態のこの館の光景。その光景からはみ出た異質なものは、捉えてはいない。見えないのだ、やはり。
二人は、七都に近づいても立ち止まることもなく、そのまま七都を通り過ぎた。
七都は、そのいやな気分を我慢した。
シャルディンに通り抜けられたときにも感じた、言いようのない寂しさと不快感。
存在を無視されて、通り抜けられてしまうむなしさ。
ここにいるのに。わたしは、ここにいるんだよ。
それが伝えられないもどかしさ、悔しさが集まって、息も出来そうにないくらいの悲しみに変化してしまう。
もし生身なら、きっと涙がこぼれるだろう。
本物の幽霊とか透明人間になってしまったら、こんな気分なんだろうな。
七都は、思った。
セレウスとゼフィーアの楽しそうな声が遠ざかっていく。
七都は、溜め息をついた。
見えないってことは、覚悟してたけど。
でもやっぱり、へこんじゃう。
シャルディンに引き続いて、こんなに露骨なくらいに見えないことを示され、無視なんかされたりしたら……。
でも、しょうがないよね。とにかくアヌヴィムの魔法使い三人には、わたしは見えないんだ。それは、はっきりわかった。
それにやっぱり、見えなくてよかったんだよ。
わたしが見えたら、二人はもちろん心配する。
ゼフィーアは、変わっていくわたしを見るのが楽しみだなんて言ってたけれど、別の意味で変わりすぎだよね、この状態。
見えてなくて、本当によかったかもしれない。
七都の後ろで、猫が鳴いた。七都は振り返る。
そこには銀色の大きな猫がいた。窓にいたカディナに真っ先に飛びつき、そしてユードにも飛びかかってくれた、あの猫だった。
猫は透明な瞳で、真っ直ぐに七都を見上げていた。その二つの目は、確実に七都に焦点を合わせている。
「きみ……。わたしが見えるんだね?」
七都が訊ねると、猫が再び返事をするように、力強く鳴いた。
思わず七都は銀猫を抱きしめようとしたが、その手はもちろん、猫を通り抜けた。
いつの間にか、ほかの猫たちも七都の周りに集まっていた。
猫たちは一匹残らず、そのたくさんのカボションカットの宝石のような目で、七都を見つめている。
みんな、わたしがわかるんだ。猫は幽霊が見えるっていうけど……。
気配ってことじゃなく、ちゃんとわたしの姿が見えている。
(照れるなあ、そんなにじっと見つめられたら。でも嬉しい)
七都の姿が見えることを証明するように、猫たちの何匹かが七都に向かって前足を伸ばし、触れようとした。
前足はむろん何もない宙をかき、猫たちは不満そうに、にゃーにゃー鳴く。
ゼフィーアが、振り返った。
怪訝そうな顔を回廊の猫たちに向ける。
「どうかしましたか?」
セレウスも、振り向いた。
「猫たちが集まっている」
ゼフィーアが呟いた。
「そうですね。まるでそこに何かがいるかのように、一点を見ている」
と、セレウス。
「何かじゃなくて、誰かなのでは?」
ゼフィーアは、美しい眉を寄せる。
「……そこに誰かいるのですか?」
彼女は、七都が立っている位置に視線をさまよわせ、声をかけてきた。
「うん。いるんだけどね。あなたたちには見えないんだよね」
七都は言ったが、七都の言葉も二人には聞こえないようだった。
「猫たちは、そんなにおびえてはいないようですね。どちらかというと、嬉しそうな感じが……」
「家族や召使い以外で、この館の猫たちがなついているといえば、たった二人しかいません」
ゼフィーアが言った。
「それは、カディナと……」
「ナナトさま!?」
セレウスが顔をこわばらせて、ゼフィーアを見た。
それから彼は、猫たちが作っている半円の中心――何もないその空間を眺める。
「では、あそこにはナナトさまがおられて、猫たちはナナトさまを見ていると?」
「そうかもしれません。私たちには見えませんが、猫たちには見えるのかもしれませんよ」
セレウスが数歩、七都に近づく。
彼は猫たちの視線を追って、七都が佇んでいるあたりを眺めた。
(うん、そう。そのあたり。いい線いってる、セレウス)
セレウスは、おそるおそるという感じで、七都のほうに手を伸ばした。
だが、いきなり胸に手を突っ込まれそうな形になったので、七都は慌てて後ろに下がる。
猫たちが敏感に反応して毛を逆立て、セレウスに向かって唸り声をあげた。
「セレウス。もしそこにナナトさまがおられるのなら、あなたがしていることは、かなり失礼なことですよ」
ゼフィーアが、諌めるように言った。
セレウスは、手を引っ込める。
(そうだよ。かなり失礼なことだよ)
七都は、セレウスを睨んだ。
毛を逆立てた猫たちは、セレウスから七都を守るように、わさわさと二人の間に割り込んで並び立った。
「ナナトさま。そこにおられます?」
戸惑いながらも、セレウスが声をかけてきた。
「いるよ、セレウス」
七都は答えたが、その声はもちろん、彼には聞こえない。
セレウスはしばらく耳をそばだてたが、あきらめたような顔をし、それからゼフィーアを振り返った。
「どういうことなのですか、姉上? もしそこにナナトさまがおられるのなら、まさか……」
「ナナトさまは、既に亡くなられていて、その魂だけが、今、ここに来ている……」
ゼフィーアが言った。
「な、なんですって!?」
セレウスが両手で耳のあたりを押さえた。
あ、そのポーズ。美術の教科書に載ってた。
えーと。ムンクの『叫び』。
七都は、幾分のんきにセレウスを眺める。
「……と解釈したいところですが、魔神族は、肉体の死と魂の死が同時だと言われていますからね。ですから、人間のように、決して化けて出てきたりはしないと」
ゼフィーアが言った。
「しかし、ナナトさまは、父上が人間でしょう? 魂は死なないのでは。もしかして、やはり亡くなられていて、その霊魂がここに来ているのかも……」
セレウスが、悲観的に言う。
「セレウス。ナナトさまの髪を持っていますか?」
ゼフィーアが訊ねた。
「ええ。いつも、ここに……」
セレウスが、胸を押さえる。
えー。わたしの髪、いつも持ち歩いてるの?
七都は、少しあきれ気味に、セレウスを見上げた。
確かに髪は、あなたに持っていてほしいって言ったけど。
まさか、常に携帯して持ち歩くとは……。
七都は、溜め息をつきたくなる。
だって、わたしはあなたの恋人でもご主人でもないんだからね。
なんか、重すぎるよお、セレウス。
どこか引き出しにしまっとくとか、棚の奥に置いとくとかしてくれたほうがいいんだけど……。
「それを見てごらんなさい」
ゼフィーアが言った。
セレウスは上着の内側を探り、小さな箱を取り出した。
ユードに切り取られた七都の髪を収めた、あの箱だった。
だがセレウスは、箱を手に握りしめたまま、固まったように動きを止めている。
「もしこの箱の中が空だったら……?」
セレウスが、思いつめたように呟いた。
「ナナトさまは、もうこの世にはおられない。そういうことになりますね。魔神族から切り離された髪や爪などの体の一部だったものは、その主が死ぬと、ほどなく消えてしまうといいますから」
あくまでも冷静にゼフィーアは言う。
「そんな……。ああ。やはり、あの怪我が……」
セレウスは、呻いた。
「開けなさい、セレウス。確かめなければなりませんよ」
ゼフィーアが言う。
「もし……。もしこの中が空なら……。私は魔の領域に行きます。ナナトさまの消息を追って……」
セレウスが呟いた。
「あの方が亡くなられているのなら、あなたが魔の領域に行くことは、意味のないことです。ただ、あなたの悲しみを紛らわせるということ以外には……」
ゼフィーアが言った。
セレウスを見つめる緑色の目は、静かな炎のように揺れている。
「開けてごらんなさい、セレウス」
ゼフィーアがもう一度、セレウスを促した。
うん。だいじょうぶだよ、セレウス。
わたし、死んでないもの。
髪だって、きっと、ちゃんと箱の中に入ってる。
確かめて、安心したらいいよ。
七都は、箱を握りしめたまま突っ立っているセレウスに頷いてみせる。もちろん、彼には自分が見えないことは、十分わかってはいたが。
セレウスは、ゆっくりと箱を開けた。
そして、「あっ」と、声をあげる。
彼は呆然として、箱の中を見つめた。
(え? 何? 髪が消えちゃってるの? ええっ!?)
七都は、あせった。
だって、わたし、生きてるよ。
そりゃあ、今は幽霊みたいかもしれないけど。
もうすぐ自分の体に戻るし、怪我も治るんだから。
「亡くなってはおられないようですね。ほっとしました。だが、何かあったようです。それは確かだ」
セレウスが、落ち着いた声で呟いた。
そして彼は、七都がいるあたり――猫たちに守られたその何もない空間に視線を定める。
「魔の領域には行かないことにします。私は待ちますよ。ナナトさまに、ここで待つように言われたのですから。きっとご無事で……必ずここに帰って来られると、私は信じます」
ゼフィーアは、セレウスに近づいた。
そして、彼の手のひらに大切そうに包まれている箱の中を覗き込む。
そこには、ユードに切り取られた七都の髪が入っていた。
だがその髪は、深い緑がかった黒髪ではなく、月の光のような銀色の髪だった。
髪は、たった今その持ち主から切り取られたばかりであるかのように、艶やかに輝いていた。




