第4章 光の回廊 5
「ねえ、シャルディン」
マーシィが、話しかける。
「ひいおじいさま、眠りながら笑ってるみたいだったね。大人の人たち、みんな、いいお顔してるって、同じこと言ってたよね」
「…そうだね」
シャルディンが、穏やかに呟いた。
「だって、ひいおじいさま、いつもしかめっ面をしていたんだもん。機嫌も悪かったしね。でも、シャルディンが帰ってきてからは、にこにこしてたよ。ずうっと」
「……そう」
シャルディンは、うつむいた。
(シャルディン……。お父さまが亡くなったの……?)
彼の頬を涙が透明な線となって伝っていく。
涙は彼の顎のところでしばし止まり、それから、ぽたぽたと白い花の上に落ちた。
「もう少し、早く帰って来られれば……」
シャルディンは言葉を飲み込んで、唇を噛む。
「早く帰れなかったんでしょ? 仕方ないよ」
マーシィが言った。
「おばあさまが言ってたよ。子供の頃に魔神族にさらわれて、自由になって帰って来られるアヌヴィムって、ほとんどいないって」
「ああ、たぶん、そうだね」
シャルディンが頷いた。
「自分から望んでアヌヴィムになった者たちとは違う。たいがい過酷な運命をたどる。子供の頃の記憶をなくしてしまう者も多い」
「だから、魔の領域から戻れたのはすごいよ、シャルディン。しかも、ひいおじいさまの最後に間に合ったんだもの」
「そうだね。素直にそう思えればいいのだけどね……」
シャルディンの赤い眼から流れ落ちる涙は、とぎれることもなく、白い花を塗らした。
(シャルディン、あなたが泣くなんて……)
七都は、初めて見る彼のその表情を少し戸惑いながらも、じっと見つめた。
七都をおちょくり、いたずら小僧のように、にやにやと笑っていた、憎たらしいシャルディン。
初対面も最悪。一触即発で、魔法がらみの大喧嘩になるところだったのだ。
その彼が泣くなんて、想像もしないことだった。
(わたしの魔法使いさん。せっかくのきれいな顔が、ぐしゃぐしゃだよ)
七都は、彼に近づいた。
そして彼のそばにかがみこみ、小さな少年のように泣き続ける彼の顔を至近距離から眺める。
(シャルディン。あなたを抱きしめてあげられればいいのに。カーラジルトにしてあげたように。わたしはあなたよりずっとずっと年下だけど。あなたから見れば、ほんの子供で、わたしが抱きしめたって、あなたの悲しみが癒されるわけじゃないだろうし、何の慰めにもならないかもしれないんだけれど……。一応、わたしはあなたの主人なんだものね。少しは安らいでくれるかな、なんて思う……。でも、どっちにしろ、今は無理なんだけどね……)
七都は、シャルディンに手を伸ばした。突き抜けてしまうのはわかってはいたが。
彼に腕を回し、抱きしめるために。
そして、彼にキスを。この前のように。
だけど、この前のように、唇ではなく、頬に。唇のすぐそばのあたりにしよう。
そんなこと、もちろん今のわたしには出来ないんだけど、そういう仕草だけはしてあげるね。
でもやっぱり、自己満足になっちゃうかな。あなたにはわからないんだものね……。
そのとき、マーシィが、突然七都とシャルディンの間に入り込んできた。
マーシィもまた心を動かされ、彼女なりにシャルディンを抱きしめようと思ったのかもしれない。
(シャルディン、泣かないで……)
「シャルディン、泣かないで……」
七都が心の中で思ったそっくりそのままの言葉を、マーシィが声に出した。
そして、マーシィは、シャルディンに抱きつこうとする。
いや、シャルディンの首に回そうとした七都の腕に、マーシィの腕がくっついてきたのだ。
シャルディンに近づいたマーシィが、そこにいた七都に重なってしまい、そのまま彼女は、七都に引きずられる格好になってしまった。
七都は、マーシィの体の中に入っていた。
そのことを把握しないまま、シャルディンの唇の横に口づけをする。
彼の頬は、温かかった。涙のあとは冷えていた。
七都は、マーシィが感じるシャルディンの体温を、自分のものとして感じた。
「マーシィ?」
シャルディンが、赤い眼を見開いて、マーシィの目を覗き込む。
あ。もしかして、とてもまずい状況!?
わたし、マーシィの中に入ってる!?
そう自覚した途端、マーシィの感覚や頭の中の記憶が、雪崩のように押し寄せてきた。
七都は雪崩に飲み込まれる前に、あわててマーシィの体から脱出する。
「わ、私じゃないっ! 私じゃないよっ!!」
マーシィが、泣きそうになって叫んだ。
「誰かが私の中に入ったのっ!!」
(マーシィ、ごめん……)
七都は、シャルディンの父親の墓から少し離れた位置まで移動し、それから二人を振り返る。
罪悪感が、雨雲のように七都を押し包んだ。
マーシィ、変なトラウマになったらどうしよう。
なっちゃうよね。魔神族の生霊に、一瞬とはいえ体を乗っ取られたんだもの。
悪夢に悩まされ続けるかもしれない。
だけど、幽体離脱したら、こういうことも出来ちゃうんだ。
カーラジルトが剣を教えてくれたとき、彼は魔力を使ってわたしの体の中に入ったけど、あれと同じことが、簡単に出来てしまえるんだ。
「今、マーシィの目の中に、別の色が見えたような気がした。マーシィの目の薄い青色じゃなく、別の色が……」
シャルディンが呟いた。
マーシィは、シャルディンにしがみついた。すっかりおびえきっている。
七都は、ますます罪悪感を覚えた。
「それに、今の口づけの仕方……」
シャルディンは、ルビーのような赤い眼をあたりに漂わせる。
(気づかれたかな、わたしだってこと)
七都は、少しあせった。
だが、シャルディンの視線は、何もない空間をさまようだけだった。
マーシィの中に瞬間的に見えたのが七都かもしれないという確信も、定まったものとしては持てないようだ。
(だけど、シャルディン、そういうことでわかっちゃうんだ。キスの仕方で。鋭いというか、さすがというか……)
七都は妙なことで感心し、シャルディンを見つめた。
銀の髪に、透明な赤い宝石のような目。
太陽の光を受け止めて額に輝いているのは、髪と一体になったような、アヌヴィムの銀の輪。
やつれていても、相変わらず素敵なシャルディン。
そして、泣いている彼もまた、案外かわいいかもしれない。
シャルディン、わたし、もう帰るね。
これ以上いると、わたしがここにいるってことがばれそうだもの。
そしたら、またあなたに、いらない心配をさせてしまう。
シャルディン…。お父さまが亡くなったのでしょう?
だったら、お母さまのそばにずっといてあげてね。
お父さまの分まで、やさしくしてあげて。ね。
わたし、あなたを引き止めなくて、よかったと思う。
あなたをお供として、魔の領域に連れて来なくて、本当によかった。
そんなことしていたら、お父さまの臨終に間に合っていないものね。
僅かな間だったかもしれないけれど、あなたはお父さまと一緒に過ごすことが出来た。
あなたを帰したのは、間違いじゃなかったでしょう?
シャルディン。また会おうね。
今度会うときは、わたし、もっと元気で、きれいな体になってると思うよ。
七都は、笑う。
(……もちろん、わたしのヌードは、あなたにはもう絶対に見せないけどね)
「消えた……」
マーシィが呟いた。
「行っちゃったよ、おねえちゃま」
「おねえちゃま?」
シャルディンは、マーシィの顔を再び覗き込んだ。
「どんな人だった、その、おねえちゃまは? 説明してくれるかい?」
彼は、やさしく訊ねる。
「うん。きれいな人だと思う。でも、ケガをしてた」
「ケガ?」
「ひどいケガだよ。体が裂けてた。壊れたお人形みたいに。ここから……ここまで」
マーシィは顔をしかめながら、自分の胸から腰にかけて、長い線を描いてみせる。
シャルディンの全身が、氷のように固まった。それは、彼が知っている七都の傷よりも、はるかにひどい状況のものだった。
「それでね、水の中に浮かんでるの。ゆらゆらって」
「水の中……?」
「でも、苦しそうじゃなかった。ケガも、痛そうじゃなかったよ。それからね、おねえちゃま、シャルディンのこと、大切に思ってた。抱きしめてあげたいって思ってた」
マーシィは、大きく手を広げ、勢いよくシャルディンに抱きつく。
「マーシィ?」
「おねえちゃまが出来なかったから、わたしが代わりに抱きしめてあげるよ、シャルディン」
シャルディンは、マーシィの背中にしっかりと手を回し、頭を撫でた。
「シャルディンの知ってる人なんだね、あのおねえちゃま?」
マーシィは、シャルディンの胸に顔をうずめて、訊ねる。
「ああ。知っているとも。死にかけていた私を助けて、自由にしてくれた人だ。私のとても大切な方だよ……」
シャルディンはマーシィを抱きしめたまま、天を仰いだ。そして、七都の名を何度も呼ぶ。
だが、その声は風の中に漂って、ただ緑の丘の上をむなしく廻るだけ――。
アヌヴィムの魔法使いとはいえ、魔の領域の七都の体にも、地上をさまよう七都の意識にも、その声が届くことは決してなかったのだった。




