第4章 光の回廊 4
七都の周りには、白い花畑が広がっていた。
ジエルフォートの研究室の窓から出た後、そのまま光の都を上昇した――はずだったのだが……。
都を覆うラベンダーのドームを突き抜けて、もっと上へ――。
魔の領域をはるかな天の高みから見下ろしてみようと思ったのだ。
セレウスが描いてくれた、そして猫の目ナビが映し出した六つの都。花のような外観の、魔の領域の全体像。
本当にあんな感じなのか、確かめたかった。
だが、気が付いてみると、なぜか地上にいたのだ。
何かにそのまま上昇することを拒絶されたのか、途中で迷って地上に戻ってしまったのか……。
七都は、白い花が咲いているどこかの丘に、ふわふわと浮かんでいた。
(この花……。ピアナだ)
巨大な絨毯のように丘を覆い尽くしている白い花を、七都は眺めた。
シャルディンが妹のために摘もうとして、魔神族に捕えられ、連れ去られた……その原因となった花。
そしてユードが、七都とメーベルルのために摘んで遺跡まで持ってきた、花嫁が持つ花。
(そういえば、この景色……。見たことがある)
七都は改めて、じっくりとあたりを見渡した。
そこは明らかに魔の領域ではないようだった。
どこかの静かな田舎の風景。晴れた空。流れる雲。
山々が遠くにかすみ、畑らしい整ったストライプ模様の緑の重なりも見える。
風がピアナを掻き分け、空気の道を作って通り抜けて行く。
人間が住んでいる、太陽の光に溢れる世界――。
今の七都は生身ではなく、意識だけの状態なので、もちろん暑くも眩しくもない。
(ここ……。そうだ。夢で見た。シャルディンが送ってくれた映像……。あの場所と一緒だ)
七都は、思い出す。
(すると、ここは、シャルディンの実家の近く? じゃあ、もしかして、シャルディンがいる?)
丘の向こうに、一軒のこじんまりとした古い館が見える。
古いとはいえ、そこに住んでいる人々の趣味の良さや心の豊かさが、雰囲気としてかもし出されているような、あたたかい館。
その館も、七都にとっては見知った建物だった。
(シャルディンの家だ! やっぱり!!)
七都は意識を移動させた。その館の近くへ。
生身の体を瞬間移動させるよりも簡単だった。しかも疲れない。
だが、七都が移動した途端――降り立ったちょうどその場所に、同じタイミングで誰かが歩いてきた。
よける暇もなかった。
両手に抱えている大判の白い花束、そしてマントを留めている胸のブローチの細部の装飾までがはっきりと見えるくらい、その人物は七都の至近距離に迫っていた。
(ぶつかる!)
七都は、ぎゅっと目をつぶった。
けれども――何も起こらなかった。
目を開けて振り返ると、それまでと同じように足早に歩いて行く、その人物の後ろ姿が見えた。
その人物は、七都を通り抜けて行ったのだ。
しっかりとした歩調の、細身の若者。
背中まで伸ばした白銀の髪が、太陽の光を反射して、きらきらと輝いている。
七都がよく知っている人物だった。
(シャルディン!)
七都は、再び移動する。
そして、歩いて行くシャルディンの少し前に浮かんでみた。
「シャルディン!!」
声をかけてみる。
だが、シャルディンは、自分の進行方向の真正面にいる七都を見てはいなかった。
彼の赤い目は七都を突き抜けて、もっと前方に注がれている。
(シャルディン……。見えないんだ、わたしが……)
七都は、言い知れぬ寂しさを感じた。
(だって、あなたは、わたしのアヌヴィムなのに……)
もちろん、見えないのは彼のせいではないだろう。
ジエルフォートが言ったことも、冗談に決まっている。
七都が慕っている者にしか、七都は見えないということ。
見える者と見えない者の差が何なのかは、わからなかった。
アーデリーズには七都が見える。会ったばかりのジエルフォートにも見える。でも、キディアスには見えない。
……だけど、シャルディンには見えてほしかったな。
ちょっとショックかも……。
でもそれは、わたしの希望というか、わがままになっちゃうかな……。
七都は、シャルディンにくっついて、移動した。
そして久しぶりに会った、映像ではない生身の彼をしげしげと観察する。
(シャルディン、いつもと様子が違う。泣いてるの?)
シャルディンの目は、充血していた。
その睫毛は涙で湿り、目の下にはクマが出来ている。
肌のつやもあまりよくないし、髪は長い間梳かされていないのか、ぼさぼさだ。
(瞳がもともと赤いから、なんか、すごいことになっちゃってるよ)
七都は、彼の目を見上げた。
黒目が赤く、白目も充血しているので、初めて彼を見る者はきっと引いてしまうに違いないくらい、凄みのある目になっている。
彼が抱えているのは、白い花の束だった。周囲に咲いている、可憐なピアナとは対照的な大判の白い花。カサブランカをもう少し豪華にしたような感じだった。
(だけど……。うん。シャルディン、多少やつれていても、やっぱりお花がよく似合う。ユードが持つよりも、絵になってる)
七都は、自分のアヌヴィムが相変わらず素敵なことに満足し、嬉しくもあったが、彼の様子はとても気になった。
「シャルディン、何があったの?」
七都は彼に訊ねてみたが、もちろん彼には聞こえてはいなかった。
花束を揺らしながら、穏やかな風景の中を彼は進んでいく。
「シャルディン!」
そのとき、かわいらしい声がした。
小さな影が草むらから現れて、シャルディンに寄り添う。
金色のやわらい髪をおさげにした、薄い空色の目の少女。
(この子、マーシィだ。シャルディンの妹のリュディの孫……)
シャルディンは片手を伸ばし、さりげなくマーシィの手を取る。
二人は手を繋いで、歩き始めた。
(いいなあ、マーシィ。シャルディン、私も手を繋いでほしいな……)
七都は、うらやましく思う。
シャルディンと手を繋ごうとしても、七都の手は、むなしく彼の手を通り抜けてしまう。それは間違いのないことだ。
今は指をくわえて、彼らを眺めるしかない状況……。
だけど、シャルディンにわたしが見えなくて、かえってよかったかもしれない。
七都は、思った。
もし見えていたら……。
当然彼は、心配するだろう。
七都の身に何があったのか。なぜ幽霊みたいになっているのか。詳しく説明しなければならなくなる。
怒るだろうな、シャルディン。烈火のごとくって感じで、怒っちゃうかもしれない。
七都は、彼に怒られている様子を想像して、ふっと笑った。
怒るだけならまだしも、きっと彼のことだから、今から魔の領域に行きます、なんて言い出しかねない。
彼にはまだここで、家族と過ごしてもらわなきゃ。やっと会えたんだものね。
突然、マーシィが立ち止まる。
シャルディンは、彼女を見下ろした。
「どうした?」
「何か……。誰かついてきてるよ」
マーシィが、か細い不安げな声で呟く。
「え?」
シャルディンは、振り返った。
七都は、どきっとして、その場に浮かんだまま、移動するのをやめる。
シャルディンの赤い眼は、七都がいる空間のあたりを何度も往復した。
だがその目には、やはり七都の姿を捉えることは出来ないようだった。
「私には、何も見えぬが……」
マーシィも、シャルディンの手を固く握りしめたまま、顔を後ろに向ける。
「私にも、何も見えない。けれど、誰かいる……」
シャルディンは、もう一度注意深く視線を背後にさまよわせ、それからあきらめたように前方に向き直った。
二人は再び歩き始める。
七都もしばらく佇んだ後、彼らを追いかける。かなり暗い気分に陥ったまま。
悲しい……。なんて悲しいんだろう。
ここにいるのに。すぐ後ろに浮かんでいるのに。
シャルディンに、存在を認識してもらえない。
シャルディン、わたし、ここにいるんだよ。
見えなくてよかったかもしれないんだけど。
でも、やっぱり、寂しいよ……。
マーシィが七都を感知したのは、やはり子供だからなのだろう。
小さな子供は、スピリチュアルなものに対して敏感だというのを七都は聞いたことがある。
この世界でも、そうなのかもしれない。
シャルディンとマーシィは手を繋いだまま、しばらく歩いた。
幾つもの畑を通り過ぎ、小さな丘に上っていく。
七都は、彼らから一定の距離を保ちながら、ゆっくりと滑るようについて行った。
時々マーシィは、不安げに後ろを振り返る。
七都が自分たちについてきているのを、鋭く感じているのだろう。
いくら大おじさまがアヌヴィムの魔法使いをやってたって、やっぱり魔神族の幽霊なんて、怖いよね。正確には、『幽霊』じゃなくて『生霊』とはいえ。
ごめんね、マーシィ。
しばらくしたら、消えるから。
でも、もう少しだけ、一緒にいさせてね。
七都は心の中で、そっと彼女に頼んでみる。
二人は、やがて丘の上の、きれいに整地された一画に入った。
そこには、いくつもの低い塚があった。
どれも同じような、滑らかな石を重ね合わせたような外観だ。
ただ、それぞれ造られた年代は違うらしく、石の表面には、時間の経過がそのまま刻まれている。新しいもの。古いもの。さまざまな様相の塚が、そこにはあった。
その塚の一つは、色とりどりの花々で囲まれていた。
花たちはそこに咲いているのではなく、どこかから持って来られたらしい。その塚を特別に飾る目的のために。
塚は、まだ造られてそんなに時間は経っていないようだ。
二人は、その新しい塚の前に佇んだ。
七都は彼らに少し近寄って、彼らの背後から右横の位置に移動した。そして、地面に降り立つ。
とはいえ、やはり地面から数センチくらいのところで、七都の体は浮かんでいた。あまり地面に近づきすぎると、足が地中にめりこんでしまうのだ。自分で見下ろして、あまりいい光景ではない。
シャルディンはひざまずき、白い花を塚の前に静かに置いた。
(これ……。お墓だ……)
そう悟った七都は、思わずシャルディンの横顔を見つめた。




