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最終章:強い兵隊になったらな

ブナの夜の帳は、昼間の凄惨な硝煙を嘘のように覆い隠していった。湿地帯のぬるい夜風がジャングルの葉を揺らす中、ひかりは地下壕の入り口近くに腰掛け、夜空を見上げていた。その指先には、あの原住民の子供から貰った米軍のラッキーストライクが挟まれている。100円ライターのオレンジ色の炎で火を点け、紫煙を深く吸い込んで、ふう、と吐き出した。令和の横須賀で吸っていたセブンスターとは違う、アメリカのタバコ特有のどこか甘く濃厚な葉の香りが、火薬の臭いの残る鼻腔を満たしていく。

見上げる空には、遮るもののない圧倒的な星々がまたたいていた。

「……何これ、マジでありえない。天然のプラネタリウムじゃん。あれが歴史の教科書で見た南十字星ってやつかな」

横須賀のどぶ板通りのネオンよりも遥かに眩しく、冷ややかに輝く南洋の星空。ひかりがそう呟いてタバコをふかしていると、背後から泥を踏みしめる静かな足音が近づいてきた。

「光看護婦殿、夜風が冷えます。どうぞ」

振り返ると、九〇式鉄帽を脱いだ佐藤一等兵が、軍に支給された薄汚れて擦り切れたウールの毛布を、ひかりの肩に優しくかけた。

「サンキュー、佐藤。気が利くじゃん」

ひかりは毛布の端を掴み、国防色の白衣の上から身体を丸めた。ちゃんこ鍋とCレーションのおかげで、佐藤の頬にはいくらか赤みが戻り、その瞳にはかつてような死相は消え失せていた。

佐藤一等兵はひかりの隣にのそのそと腰を下ろすと、遠い目をして夜空を眺めた。

「……実は自分、川崎市の出身なんです。実家は工場をやっていまして」

「え、ガチで? ウチは横須賀。なんだ、同じ神奈川県民じゃん。ウチの地元と結構近いね」

「もし、この戦争が終わって無事に日本へ帰ることができたら……今度、茅ヶ崎の海にでも一緒に行きませんか。烏帽子岩が綺麗に見えるんです」

佐藤はそこまで言うと、じっと自分の泥だらけの手を見つめ、それから意を決したように、真っ直ぐにひかりの金髪ウェーブの横顔を見つめた。

「看護婦殿。自分と、結婚してください」

あまりにも不器用で、あまりにも直球すぎる昭和の青年兵からのプロポーズだった。

ひかりは咥えていたラッキーストライクを落としそうになりながら、一瞬目を丸くした。だが、すぐに腹を抱えて大爆笑した。

「わはははは! 何それ、マジ受けるんだけど! 浦島太郎かよ!」

「う、浦島太郎……? 未来のお伽話ですか?」

佐藤一等兵は、自分の決死の告白がどうして「浦島太郎」に繋がるのか分からず、ポカンと口を開けて唖然としていた。ひかりにとっては、時空を超えて過去の男にプロポーズされるという状況そのものが、まるで昔話の世界に迷い込んだかのようなおかしみだったのだ。

ひかりは笑いすぎて涙が出た目をピンクのネイルの先で拭うと、タバコの灰をパチンと弾き、不敵にニカッと笑ってみせた。

「ま、テメエがもっと強い兵隊になったら考えてやんなくもないわ。ウチは弱い男が死ぬほど嫌いだからね。死に急ぐなよ、佐藤」

「……はい! 強い兵隊に、必ずなってみせます!」

佐藤一等兵は嬉しそうに胸を張り、三八式歩兵銃をしっかりと握り締めた。二人の間に、過酷な戦場とは思えない、静かで優しい時間が流れていた。

しかし、戦場の夜明けは残酷なまでに早く訪れる。

翌る日の早朝。ジャングルの奥深くから、鳥たちが一斉に飛び立つ不穏な羽音が響いた。

直後、大地を激しく揺るがす地鳴りのような轟音が轟く。バリバリと音を立てて、行く手の巨木が次々と倒されていく。

「敵襲ッ!!」

壕の中から横山少尉が飛び出してきた。

前方から姿を現したのは、米軍のM3スチュアート軽戦車だった。その空冷星型エンジンの凄まじい排気音と共に、37mm戦車砲の砲身がこちらを正確にロックオンしている。その後ろには、ブローニングM1919重機関銃を構えた一個小隊の米兵たちが、泥を踏みしめて包囲網を縮めてきていた。

「全員武器を持て! 頭を伏せろ! 壕死守だ!」

横山少尉が軍刀を抜き、狂気を取り戻したような鋭い声で命令を下す。

だが、地上の脅威だけでは終わらなかった。

遥か上空、雲を割って、ジャングルの真上に信じられないほど巨大な銀色の影が現れた。四発の巨大なエンジンを唸らせる、米軍の重爆撃機、B-17フライングフォートレスの編隊だった。あまりの巨体に、ひかりは空を見上げて口を開けた。

「はぁ!? 何あれ、信じらんないくらいデカいんだけど。ジャンボジェットじゃん!」

その極限状態でのひかりのボケに、横山少尉は頭を抱えながら、軍人としての本能で即座に怒鳴り返した。

「馬鹿! あれは重爆撃機だ!!」

次の瞬間、遥か上空のB-17の腹部、爆弾倉の扉が左右に大きく開いた。

そこから、黒い巨大な爆弾の塊が数個、重力に従って野戦病院の地下壕を目がけて垂直に落下してくるのがはっきりと見えた。キィィィィィンという、空気を引き裂く凶悪な落下の死の風切り音が、ブナのジャングル全体を支配する。

「佐藤! 婦長! 光看護婦殿を伏せさせろーーーッ!!」

横山少尉の絶叫。

「看護婦殿ーーーッ!!」

佐藤一等兵がひかりの身体を目がけて泥の中を必死に飛び込んできた。

視界のすべてが、すべてを消し去るような、強烈な真っ白い光に包まれた。

ドンッ、という鼓膜を破壊するような爆音の後、ひかりの意識は強烈な光の中に溶けて消えていった。

◇

「……ーぽー……ーぽー……」

遠くから、奇妙な、だけど酷く懐かしい電子音が聞こえてきた。

ピーポー、ピーポー。

「あ、動いた! 意識戻りました! 救急隊員さん、こっちです!」

激しい頭痛と共に、ひかりはゆっくりと目を開けた。

頬に触れているのは、泥ではなく、固くて冷たいコンクリートのアスファルトの感触だった。鼻を突くのは腐った肉の悪臭ではなく、かすかな排気の匂いと、アスファルトの焦げた匂い。

「痛っ……。マジ最悪……」

ひかりは道路の上にうつ伏せで倒れたまま、顔をしかめて身体を起こそうとした。

すぐ横には、激しい急ブレーキの黒いタイヤ痕を残した大型トラックが停まっており、運転手が青い顔をしてスマホを握り締めながら震えている。周囲には、横須賀のいつもの見慣れた街並みと、野次馬の人だかりができていた。

遠くから近づいてくる救急車の赤色灯の光が、ひかりの金髪を赤く照らし出す。

「……ウチ、助かったのが……?」

ひかりは自分の手を見た。ハサミも、竹のヘラも持っていない。指先には、あの激戦の中で泥に汚れていたはずの、綺麗なピンク色のネイルが、令和の太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。

ポケットを探る。そこには、あの100円のピンクのライターが、何事もなかったかのように収まっていた。

しかし、そのライターの角には、令和のコンビニでは絶対に付くはずのない、ニューギニアのブナの湿地帯の、あの黒い泥の汚れが、ほんの少しだけこびりついたまま乾いていた。

ひかりは横須賀の青い空を見上げ、ふっとぶっきらぼうに微笑んだ。

(『玉砕なんてクソ喰らえ!』―― 完 ――)

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