第四十三話 何ともなりません ―シトリン―
正式な交際を始めたあとの最初の面会には、話すことを一つも決めずに出席した。
学院の小実習室へ入ると、コロンダム様も図を持っていなかった。机の上には手袋と、小さな包みだけが置かれている。
「本日は、何から始めましょう」
私が尋ねると、コロンダム様は少し考えた。
「アザフォード嬢は、水車小屋のほかに、子供の頃お好きだった場所がありますか?」
鉱山とも、大学とも関係のない問いだった。
「領地の屋敷なら、北側の物置です」
「物置?」
「古い家具や、使わなくなった農具が入っていました。お姉様と一緒に、何に使うものか考えたのです」
「答えは分かりました?」
「半分くらいは。家令に尋ねても、分からないものがありました」
「今も残っていますか?」
「ええ。今度、図を描いてお送りします」
結局、次の図を描く約束ができた。
ただし、物置の道具を研究するためではない。
「コロンダム様は、子供の頃、どちらがお好きでした?」
「家の裏にあった石段です」
「石段?」
「雨が降ると、途中の一段だけ水が溜まりました。ほかの段と何が違うのか、兄たちと調べました」
「分かったのですか?」
「その段だけ、手前へ少し傾いていました」
「直さなかったの?」
「母が植木鉢の水を汲むのに使っていたので、そのままです」
「では、今も水が溜まりますね」
「おそらく。今度ロルカへ戻ったら確かめます」
今度は、私が話の続きを待つことになった。
面会の時間が終わるまで、私たちは子供の頃の話をした。
コロンダム様には三人の兄がいる。長兄は石段へ水を流し、次兄は傾きを測り、三兄は途中で飽きて虫を探しに行ったそうだ。
私の姉は、物置の道具を一つずつ並べ、私が勝手に動かさないよう番号をつけた。私は番号の順に調べるつもりだったのに、形の面白いものから先に家令へ持っていった。
「順番を守らなかったのですか?」
「お姉様にも、同じことを言われました」
「最初から番号をつけなければよかったのでは?」
「それも、あとでお姉様に言いました」
「何と答えられました?」
「番号をつけた意味がない、と」
コロンダム様は手帳を出しかけ、今日は持ってきていないことに気づいた。
「書くのですか?」
「三兄に似た話を聞いたと、次の手紙へ書こうと思いまして」
「私は、虫を探しに行っておりません」
「形の面白いものから先に調べたのでしょう?」
「同じかしら」
同席していた教師が、採点していた答案から顔を上げた。
「似ていると思います」
「先生まで?」
鐘が鳴り、最初の面会はそこで終わった。
鉱山の話は一つも出なかった。
それでも、次の手紙へ書くことは増えていた。
*
卒業までの数か月、コロンダム様との面会は休養日ごとに続いた。
大学の研究室で、誰が最もよく物をなくすのか。
コロンダム様の兄君たちは、今も石段の一段だけに水が溜まることを覚えているのか。
私が幼い頃、物置から運び出して姉に叱られた道具は、結局何に使うものだったのか。
ラピス殿下とアメージュが、林檎の焼き菓子をどちらも最後の一つまで譲らなかったこと。
手紙に図が入ることもあったけれど、以前のように毎回ではなくなった。
代わりに、家族の話や食事の話が増えた。
コロンダム様は、研究室で起きたことをよく書いた。助手が違う箱へ札をつけたこと。教授が眼鏡を探している間、ずっと頭の上に載せていたこと。昼食を取りに行くのが遅れ、パンが一つしか残っていなかったこと。
私は学院のことを書いた。
卒業試験の範囲。舞踏練習でアメージュが相手の足を踏んだこと。ラピス殿下が帰国前に借りていた本をすべて返し、翌日にまた一冊借りたこと。
手紙を出す日も、届く日も決まっていない。
それでも受付へ立ち寄る回数は、以前より増えた。
「アザフォード嬢。今日は大学からの手紙は来ていませんよ」
まだ何も尋ねていないうちに、事務員から言われたこともある。
「実家から届いていないか、確かめに来たのです」
「そちらもございません」
「そうですか」
「午後の便もありますから、授業が終わってからいらしてください」
午後には、コロンダム様からの封筒が届いていた。
中に入っていたのは、裏庭で見つけた二つ目の花の図だった。
*
卒業の日、女子部の講堂には五年間使った椅子が並べられた。
名前を呼ばれ、一人ずつ修了証を受け取る。
ラピス殿下も、アルヴェインでの留学課程を終えた。殿下の席は私の隣で、反対側にはアメージュがいる。
「これで、朝の鐘に起こされなくてもよくなるわ」
式が始まる前、アメージュが言った。
「家へ戻れば、侍女に起こされるでしょう?」
「学院より遅いもの」
「御母様から、朝食には家族で揃うようにと手紙が来ていたのでは?」
「シトリン。今日くらい、忘れさせて」
ラピス殿下は、膝の上へ置いた手袋を直した。
「わたくしは、鐘がなくなると困るかもしれません」
「ベリル様が起こしてくださるでしょう?」
「ベリルは、わたくしが起きてくるまで待ちます」
「では、トパーズ様にお願いなされば?」
「トパーズは朝が早すぎるの。あの方に合わせたら、学院より早く起きることになります」
ロルカからは、トパーズ様も来ていた。
家族の席ではなく、外国からの招待客が座る場所にいる。殿下と目が合うと、小さく頷いた。
帰国後も、二人はすぐに婚姻するわけではない。
ラピス殿下は、留学中に学んだことを母君へ報告し、今後どの役目を担うか決める。トパーズ様も、自分の家と王家の双方へ相談することがあるという。
それでも、話し合う相手が、勝手に殿下の考えを決めることはない。
「殿下。御名前を呼ばれましたよ」
私が知らせると、ラピス殿下は慌てて立ち上がった。
卒業式のあとは、学院の庭で家族や招待客と会うことが許されていた。
父と母、姉が来ている。アメージュの家族も、ラピス殿下を迎えるロルカの使節もいた。
コロンダム様は、トパーズ様の隣にいる。
学院の中で会う最後の日なので、大学から改めて紹介状を出したらしい。
「御卒業、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「こちらを」
渡されたのは、細長い箱だった。
中には、新しい定規が入っている。
「定規?」
「学院で使っていたものは、角が減っていると御手紙にありましたので」
「コロンダム様のように、なくしたのではありませんよ」
「分かっています。なくした場合は、空箱を調べてください」
「その箱の中にはありません」
「念のためです」
これから私宛ての手紙は、学院ではなく、王都か領地の屋敷へ届く。
面会の申し込みも、学院の小実習室を借りる必要がない。卒業したのだから、教師が答案を採点しながら話を聞くこともなくなる。
「次の面会は、王都のお屋敷ですね」
「はい。父から、来週の午後ならよいと言われています」
「大学へ申請を出さなくても?」
「必要ありません」
「学院の紹介状も?」
「もう卒業しましたから」
コロンダム様は少し考えた。
「では、図を何枚持っていってもよいのですね」
「父が困ります」
「先に内容をお知らせします」
「枚数も書いてください」
卒業しても、話の長さは変わらないらしい。
*
正式な交際を始めてから半年が過ぎる頃には、私たちは、これから暮らす場所についても話すようになった。
コロンダム様は、少なくともあと二年、アルヴェインの大学で研究を続けたいと考えている。
そのあとは、大学へ残る道も、ロルカへ戻って鉱山や水路の調査に携わる道もある。アルヴェインとロルカを行き来し、両国の大学や領地から依頼を受けることも考えていた。
「一つの鉱山だけを、ずっと調べたいわけではないのですね」
「はい。同じ方法でも、土地が変われば結果が違います。水の量も、石の種類も、働く方の暮らしも違いますから」
「では、一年中ロルカにいる必要はない?」
「今のところは。ただし、兄の領地で大きな工事が始まれば、しばらく戻ることもあると思います」
「どのくらい?」
「数か月になる場合もあります」
「そのとき、私は?」
「御一緒いただけるなら嬉しいです。ただ、アザフォード嬢にも、こちらでなさりたいことがあるでしょう」
卒業後、私は姉と一緒に、領地の水路や道について調べ始めていた。
今まで家令や管理人だけが知っていたことを、古い帳面や地図と照らし合わせる。水路が傷んだとき、どの畑まで影響するのか。道を替えたことで、困った家がなかったか。石切り場で働く者が、冬にどこへ移るのか。
自分が家を継ぐわけではない。
それでも、調べたことを姉へ渡せば、次に道や水路を直すときの役に立つ。
「私は、領地のことも続けたいです」
「では、アザフォード領へ戻る時期も必要ですね」
「コロンダム様がロルカへ行っている間に、私がこちらへ戻ることもできます」
「別々に?」
「何か月かでしょう?」
「ええ」
「手紙なら、今までどおり書けます」
「ロルカからでは、届くまで日数がかかります」
「その分、厚くすればよいのでは?」
「では、図も増やせますね」
「重くなりすぎないようにしてください」
どちらか一人の予定へ、もう一人を押し込むのではない。決まっていないことは、決まっていないまま話した。
*
冬には、コロンダム様が一度ロルカへ戻った。
御家族へ私との交際について改めて説明し、アザフォード領の石切り場で作った報告書も見せるためである。
滞在は一月半。
最初の手紙が届くまで、十二日かかった。
封筒には、家の裏の石段を描いた図が入っていた。
雨が降った翌日に調べたところ、今も一段だけ水が溜まったという。母君は、変わらずその水を植木鉢へ使っていた。
私は返事に、領地の物置で見つけた農具の図を入れた。
以前は分からなかったけれど、町の老人が、泥の深い畑で種を撒く筋をつける道具だと教えてくれた。その方も、もう何十年も使っていないらしい。
返事が届いたのは、それから二十六日後だった。
コロンダム様が王都へ戻った方が、手紙より三日早かった。
「先に戻ってしまいましたね」
「ええ。ですが、御手紙は読みました」
「研究室へ届いたの?」
「私が戻った三日後に。ロルカで出した私の返事も、まだこちらへ向かっています」
「それでは、もうお聞きになったことが書かれていますね」
「構いません。届くのを待ちます」
同じ話でも、手紙で読むのは別らしい。
*
交際を始めてから一年が近づいた頃、ロルカからルドック侯爵夫妻がアルヴェインへ来訪した。
父母とは、すでに何度も手紙を交わしている。
それでも、婚約について決める前に、一度は双方の家族が会っておきたいと、コロンダム様の母君が望まれた。
ルドック侯爵夫妻は、私が卒業後に何をしているのかを尋ねた。アザフォード領の水路や道を調べ、姉の手伝いをしていると話すと、母君はロルカの領地にも古い水路が多いと教えてくださった。
「コロンダムが子供の頃から、調べたがっている場所がいくつもございます」
「今も残っているのですか?」
「ええ。ただし、勝手に水門を開けようとして、兄に止められたこともあります」
「母上。その話は、今でなくてもよいのでは」
「シトリン様には、先に知っていただいた方がよいでしょう」
コロンダム様は、子供の頃から変わっていなかった。
家族同士の話し合いは、三日続いた。
両家の身分や財産については、すでに確かめられている。時間がかかったのは、婚姻後にどこで暮らすか、コロンダム様の研究をどう続けるか、私がアザフォード領へ戻る時期をどうするかだった。
最初の二年は、アルヴェインの王都に住む。
コロンダム様は大学へ通い、私は必要に応じて領地へ戻る。
その後については、研究や両家の事情を見て、改めて決める。ロルカへ長く滞在する場合も、私一人がアザフォード領へ戻れるようにする。
すべてを先に決めることはできない。
だから、決め直す時期と、誰が話し合うかを決めた。
*
最後の日、父から呼ばれた。
「両家としては、婚約を認めることで話がまとまった」
「はい」
「だが、最後に決めるのはシトリンだ。ルドック殿から、本人へ申し込みたいと聞いている」
コロンダム様は、庭の水路のそばで待っていた。
初めて領地の屋敷へ来た日、領地の石を使っているか確かめた場所である。
「こちらの水路を見たのは、ずいぶん前のように思います」
「まだ一年ほどですよ」
「面会の回数が多かったからでしょうか」
「手紙も、ずいぶん書きました」
「数えますか?」
「今から?」
「家へ戻れば、すべて残っています」
「それは、婚約のお話のあとにしてください」
「そうでした」
コロンダム様は、上着の内側から紙を出しかけた。
「何をお持ちなの?」
「これからの予定です。御説明した方がよいかと思いまして」
「三日間、両家で伺いました」
「では、省きます」
紙を戻し、私の前へ立つ。
「アザフォード嬢。私と婚約していただけますか?」
今度は、説明が短かった。
「はい。お願いいたします」
「ありがとうございます」
「それだけ?」
「先ほどの予定を御説明しても?」
「それは屋敷へ戻ってからにしましょう」
「分かりました」
すぐに婚約の書類が作られ、両家の署名が入った。
学院へ入ったときには決まっていた婚約とは違う。この一年で、コロンダム様が研究以外に何を見ているのか、食事を忘れたときに誰が止めるのか、三人の兄君とどのように育ったのかを聞いた。
どこで暮らすかも、互いの仕事をどう続けるかも話した。
コロンダム様も、私が尋ねるだけでなく、自分で調べることを好むと知っている。領地へ戻る時間が必要なことも、木苺の種は嫌いではないことも知っていた。
両家が認めたのは、そのあとだった。
*
婚約を祝う茶会には、卒業後も王都に残っていた友人たちが集まった。
ラピス殿下とトパーズ様も、ロルカから再びアルヴェインへ来ている。アメージュは、我が家の料理人が作った林檎の焼き菓子を、最初から二つ自分の皿へ取った。
「一つはあとで食べるの」
「前にも、そう言っていなかった?」
「食べたいときに残っていないと困るでしょう」
ラピス殿下は、木苺のジャムを挟んだ菓子から、種を一つずつ取り除いている。
「ラピス。林檎の方を召し上がればよいのでは?」
トパーズ様が尋ねた。
「今日は、こちらを食べたいのです」
「では、種の少ないところを選びましょう」
トパーズ様は、殿下の手から菓子を取り上げることなく、皿の中からジャムの少ないものを探した。
コロンダム様は、茶会が始まる前から持っていた筒を、ようやく開いた。
中に入っていたのは、ロルカの古い水路を描いた図だった。
「こちらが、母から伺った水門ですか?」
「はい。今は使われておりませんが、上流の水が増えたとき、三つの水路へ分けていたそうです」
「三つとも同じ幅ではありませんね」
「東側には畑が多く、中央は町へ入ります。西側は、余った水を川へ戻すためのものです」
「アザフォード領の水車小屋と似ています」
「規模は、こちらの方が大きいでしょう。ただ、水を使い切ろうとせず、戻す場所を作るところは同じです」
私は図を自分の方へ寄せた。
「この小さな四角は?」
「水門を管理する者の小屋です」
「一人で三つを動かしたの?」
「いいえ。水が増える時期には、町から二人来ました。交代で夜も見ていたそうです」
「どの水路から先に閉じるか、決まりがあったのでしょうか」
「記録が残っています。こちらです」
コロンダム様は、二枚目の図を広げた。
「まず、川へ戻す水路を――」
「シトリン様」
ラピス殿下に呼ばれ、図から顔を上げた。
殿下の前では、菓子が半分残っている。トパーズ様も、アメージュも、いつの間にかこちらを見ていた。
「何でしょう?」
ラピス殿下は、少しだけゆっくりと私に対して尋ねた。
「シトリン様。あなたの婚約者、何とかなりません?」
ああ、と私は思った。だから今度はこう返す。
「何ともなりません。今は私が聞いているのですから」
ラピス殿下は目を丸くしたあと、声を上げて笑った。
「そうでしたわね。今度は、シトリン様が聞きたくて聞いていらっしゃるのでした」
「最初から、そう言ってるじゃない」
アメージュも、二つ目の林檎菓子を持ったまま笑っている。
「それなら、何とかする必要はありませんね」
トパーズ様が殿下へ言うと、後ろに控えていたベリル様まで口元を緩めた。
コロンダム様だけが、広げた図と皆の顔を順に見ている。
「私は、何か御迷惑をおかけしましたか?」
「いいえ」
私は笑いながら、手帳を開いた。
「続きをお願いします」
「はい。では、川へ戻す水路から――」
コロンダム様も笑って、二枚目の図をこちらへ向けた。
説明が再び始まってからも、ラピス殿下とアメージュは顔を見合わせて笑っていた。トパーズ様も、ベリル様も、少し離れた席にいる父と母も笑っている。
皆の笑い声を聞きながら、私は新しい頁の一番上へ書いた。
――三つの水路。
END




