謎のバス
え〜と、つぶらやさん。降りるバス停の名前、何でしたっけ?
――あ、そうそうそれでした。もうじきだと思うんですけど、初めて乗る路線のバスって緊張しません?
右も左も分からない出かけ先。もし、降りそこなったりしたら、帰ることさえできずに彷徨うことになるかも知れない……うう、考えただけで鳥肌が立ってきますよ。
あっ、ここですよね! ブザーいちばん、もらったァ! よーし!
……はっ、ついやってしまいました。つぶらやさん、今のはオフレコでお願いします、オフレコで。
うら若き乙女がやることじゃなかったですよね。こんな子供っぽい力の入れ方なんて――あ、あのつぶらやさ〜ん? 「かわいいよ」と言いながら、他人のフリして、財布の中の小銭をジャラジャラ漁るの、やめてくださいよ〜!
はい、記憶から飛びましたか? 目的地の公民館まで遠いんです。いつまでも頭の中でリフレインしないでください。先輩が迷ったら、仲良く遅刻でお説教なんですから、ちゃきちゃき行きましょう! ね?
――さっきの録画消去と道案内代に、面白い話?
ぐぬぬ……しかし、そう来るだろうと準備済み! 今回はおじさんから聞いた「バス」に関するお話でございますよ。
大学に通っていたおじさんは、通学のたびにワクワクしていたみたいです。
特に地元ではあまり乗ったことがないバスには興味津々。一番後ろの席に座った時、その後ろに置いてあった傘を「忘れ物ですよ」と運転手さんに伝えたら、「それは私の傘です」と返され、赤っ恥をかいたこともあったらしいです。
一人でいることが多いからか、おじさんの好きな座席は、タイヤの上。多少座りづらさがありますが、一段高くなっているあのポジションに、どことなく優越感を覚えた、と話していましたね。
大学生活が始まって、およそ一年と少し。
その日はゼミの後も、研究室で作業をしなければならず、おじさんはくたくたに疲れていました。
大学の構内には小さいですが、バスロータリーがあったようです。キャンパスに来るには何通りかのルートがあるので、それに合わせてバスも数種類の路線が存在していました。おじさんがいつも使っているものは、到着までにまだ時間がかかります。
そばにあるベンチに腰掛けると、どっと疲れが足から身体へ回ってきました。まぶたが極端に重く感じられます。すぐ後ろの生えた草むらからは、かすかな虫の音が聞こえてきました。
おじさんはすぐに運賃を払えるように、財布から小銭を出すと、ついうつらうつら、居眠りを始めてしまいます。
ブレーキの音に、ふと目が覚めます。バスが止まっていました。
だいだい色のボディと、その中ほどに走る、二本並んだベージュのライン。すでに何度もお世話になっているバスに違いありません。
おじさんは寝ぼけまなこをこすりながらも、車両前部の開いたドアの階段を上り、いつも通り運賃箱にお金を入れます。その区域では、料金前払いなのです。
しかし、おじさんが自分の特等席である、車両左最前列。タイヤの真上の席に腰かけた途端、運転手さんが苦しみだしたのです。前のめりになってハンドルに突っ伏し、息を荒げています。
突然のことで、おじさんはつい、席から降りて運転手さんに「大丈夫ですか」と声を掛けたんだそうです。
すると運転手さんは、先ほどの苦しみ方が嘘のように、すぐさまピシッと背筋を正すと、「平気ですよ」と、笑いかけてきたのだとか。
おじさんはぞっとします。すでにブザーと共にドアは閉ざされ、バスも動き出していました。
運転中にあの発作を起こされて、事故られては困ります。そばで見張り、すぐに対応できるようにしなければ。
乗客はおじさんただ一人。しかし、どの席にも座らず、運転席の真横の手すりにつかまり、立ったままでバスに揺られるという、おかしな状態だったのです。
いくつかの停留所を過ぎます。おじさんの瞳は、何度も見た夜景をぼんやりと映しながらも、その注意は運転手さんへ注がれていました。
運転手さんは、ずっと前を向いたまま。おじさんの方をちらりとも見やりません。それが当然なのですが、おじさんはまた、あの首がきゅっと曲がって、自分に笑顔を振りまいてくるんじゃないかと、ずっと警戒していたようです。
いまだ、乗客は誰も乗ってきません。この時間帯、確かに人数は少ないですが、全く乗ってこないというのも妙です。おかげでバスは信号以外で、動きを止めることを知りません。
あと数分で、いつも降りる停留所だな、とおじさんの脳裏に、ふと帰りのことが思い浮かんだ時。
バスはいきなり右折のウインカーを出しました。普段なら、このまま国道を一直線のはずなのです。
間違ったバスに乗ったか、とおじさんは元の道から遠ざからないうちに降りようと、停車ブザーを押します。
しかし、反応がありません。音が出なくても、押したことが分かるように内蔵されたライトが点くはずなのですが、消えたままです。
ザザっと車体を何かが撫でる音がしました。ふと前方を見ると、道の両脇に立っている、しだれやなぎの垂れ下がった枝たちが道路にはみ出していて、バスはそれらを強引に掻き分けて進んでいたのです。視界一面、枝だらけ。
こんな道、知らない。おじさんは「停めてくれ」と言いましたが、運転手が意に介する様子はありません。思わず、その肩に手を掛けて抗議しようとした時。
ふとバスが停まりました。後ろのドアが開きます。おじさんが見ると、何人かの乗客が乗り込んできます。くたびれたスーツを着たサラリーマンらしき男性。色濃い化粧と派手な服に身を包んだ、妙齢の女性。ジャージ姿で肩にタオルをかけた青年……。
計八名が乗り込んできたのです。停留所がないにも関わらず、です。彼らはおじさんと後部ドアの間を埋めるかのように、めいめいが手すりにつかまって、座ろうとしません。
おかしい、おかしいとおじさんの頭の中はぐらぐらしてきました。後部ドアは降車にしか使われないはず。運賃は前払いで、乗車する時に、運転席の横にある運賃入れにお金を入れるのが、このバスの決まりなのに。
どうして運転手は後部ドアを開けて、乗客を招き入れた? どうして乗客は運賃を払わない? そもそもここはどこなのか?
おじさんの数々の疑問を張りつけたまま、バスは進みます。
おじさんが大学近辺の地理に疎いこともあり、見たことのない家並みです。角を曲がるたび、道はだんだん細くなり、気のせいか車体側面をこする音が何度も聞こえました。
音がするたび、バスはわずかな間だけ停まり、後部ドアを開けて乗客を乗せると、すぐに再発進します。まるで時間を惜しむかのように。そして頑なに、おじさんのすぐ近くにある前部ドアを開こうとしないのです。
すでに車内はぎゅうぎゅう詰め。おじさんは手すりを掴みながらも、ドアが閉じていなかったら、外に押し出されてしまいそうなくらいだったとのこと。
残されたスペースはわずか。もし、次に大量に乗ってきたら、押しつぶされてしまいます。圧迫感を覚えながらも、人ごみ特有の熱さが感じられません。それどころか、人が乗って来るたびに車内は冷えていき、今は身震いするほどの温度になっていました。
おじさんはこの不可解な運行を止めるため、賭けに出ることにしたそうです。バスではなく、運転手を止める。それも身体に触れることなく、です。
トンネルに差し掛かりました。町中にあるとは思えない、古びた、そして対向車が通れないほど、バスギリギリの幅を持つトンネル。心もとないオレンジの明かりに照らされる中、車体の天井が、側面が、ガラスたちが一斉にこすれて、耳をふさぎたくなるような悲鳴をあげました。
ぐずぐずできません。おじさんは立ちはだかる乗客に体当たりをかまし、のけぞらせてできたすき間から、あのタイヤの真上の席に飛び込むように座りました。
案の定、運転手が苦しみ出します。更に今まで動こうとしなかった乗客たちが、一斉におじさん目がけて押し掛け、その足、その腕、その頭。それぞれをひっつかみ、席から引きはがそうとするのです。
おじさんもこの異状に、自分の判断が間違えていないことを悟りました。何度も引っ張られながらも、振りほどいては座り、振りほどいては座りを繰り返し、何度も席を弾ませます。
運転手のうめきは、やがて絶叫に。そして何物とも分からない、雑音へ。
混線したラジオのように、耳障りな音。乗客の間からのぞく運転手はしきりに胸をかきむしっていましたが、やがておじさんをきっとにらみつけます。その目は金色に光っていて、口はただ一言を紡ぎます。
「失せろ」と。
気がつくと、おじさんは学校のロータリーにあるベンチに座っていました。
時間は数十分経っており、お尻の下が妙に暖かい。しかし、どこか底冷えがして、おじさんはくしゃみをしてしまいます。おじさんはその日、バスに乗るのをやめて、駅まで長い時間をかけて歩いたのだとか。
以降もできればバスを避けたかったおじさんですが、一限始まりの日はそうもいきません。
朝。他の学生と共に、おそるおそる乗り込んだおじさんは、例のタイヤの上の席に「使用禁止」の張り紙がされているのに気づいたとのことです。
そして地図で調べても、大学のある町にトンネルは存在しなかったそうですよ。




