バイオ・マーカー
こーら先輩、こーら先輩、折り入ってお願いしたいことがあるんですけど、いいですか?
実は社会心理学の授業で、出された課題がありまして、人を募っているんです。内容は機械を動かす人の心理と動き、とでも申しましょうか?
初見の機械を前にした先輩に対して、私が簡単な指示を出します。先輩はその指示をこなしてください。そして先輩は、自力でその指示を達成するまでの流れを逐一、実況中継してほしいんですよ。
たとえば「このボタンを押してみようかな」とか、「うまくいかないけど、ここをこうしたらいいんじゃないか?」とかを、いちいち声に出してもらいたいのです。心の中のつぶやきも赤裸々に! 私はそれをビデオ撮影して、研究用データに扱うんです。いかがでしょう?
――オッケーですか? やったあ!
結構、みんな恥ずかしがり屋で、内容を話すと断られちゃうんですよ。その点、こーら先輩なら引き受けてくれると思いましたよ。恥知らずですし。
――え、大変失礼? 私、てっきり「恥知らず」って、シャイとか緊張とかとは無縁の、ずぶとくてゆるぎないお方という意味だと思っていたんですけど……違う?
ありゃりゃん、失礼しました。誉め言葉じゃなかったんですね。ちょっと忘れないようにメモしときますよ。
――腕に書くのは卒業したのかって?
てへ、まあそうです。
もう私も酒を飲める年。ネット世界じゃ「ババア」の仲間入りですし、相応の振る舞いをしようという決心です! 「ボディにメモなんて、ティーンエイジャーまでだよね!」というノリで!
ですが、そればかりじゃありません。数年前に、不思議な話を聞きましてね。なおのこと身体にじかに書くことを控えたんです。聞きたいですよね? 先輩だったら。
これは私の妹の友達の話なんですけどね。彼女、忘れ物をよくする子だったらしいんです。
あまりに頻発するものだから、妹が理由を尋ねると、「自分のやりたいことを優先しているうちに、ついつい頭から抜けて行っちゃうんだ」とのこと。順位をつけられない性格でしょうかね。
面倒くさがりを自称する彼女。親から手帳を買うように言われたそうですが、家に帰ってもどうせ開くことなんかない、と自覚していたそうです。
なので、忘れちゃいけないことは、手や腕に書く。アクションを起こした拍子に、すぐに目に入るように。見てくれはよろしくないですけどね。
メモするのに慣れないうちは水性ペンで書いてしまい、悲惨なことになったり、ひとことで書きすぎて、意味が分からなかったりと苦労したようです。しかし、コツがつかめれば、パッと見られて忘れづらい。電源を必要としないアナログの良さという奴かもですね。
そんなメモ生活を始めて、何ヶ月も経った頃。
相変わらずの忘れ物癖が抜けない友達。何日もまたぐ用事や持ち物も早めに書いておくため、手や腕のバイオメモは常に稼働中でした。用件が済むまでは、濡らすこと、こすることを一切しない徹底ぶりだったとか。そのメモのためだけに用意したペンも、一本目を使い切り、二本目に突入したそうです。
彼女が特に愛用するメモ部分は、左手の親指、人差し指の間のつけ根。色々試して、書きやすいと思ったのがここだったんです。ある程度メモ内容がこなれると、クレンジングオイルをつけた布で、部分的にこすって消していたのだとか。
そんなことを繰り返し、ようやくメモを全て消すことのできる、貴重な日がやってきました。お風呂に入る前、彼女は洗面所ですっかりメモを消した後、本当に久方ぶりに左手を湯船につけたそうです。少し左手が痛んだのを覚えているとか。
さして気になるほどではなかったのですが、パジャマに袖を通して、自分の部屋でごろごろし始めた時、ふといつものくせで、左手を見てみたそうなのです。
左手には、いつもメモとして書いている部分に、幾筋もの赤い線が浮かんでいたそうです。
ちょうど力強くこすったあとのような。それでいて、先ほどまで書かれていたメモの痕跡では、ないような気がしました。いびつで、入り組んでいて、しっかり消しゴムで消されていない線の上に書き足したように、濃淡がありながらも、何かしらの模様を成しているようにも見えます。
身体がさめてくると、線たちも消えていきました。友達はずっと残り続けないことにほっとしながらも、一抹の不安を隠せなかったそうです。
友達は引き続き、バイオメモを使いましたが、赤い線はお湯につかるたび浮かび上がってきたそうです。最初はメモを書いた部分だけでしたが、その範囲は手から腕へ、腕から肩へと、少しずつ広がり出していたのです。
どれもお風呂からあがって、さほど時間がたたずに消えてしまうもの。しかも写真に撮ろうとしたり、誰かに見せようとしたりすると、またたくまに引っ込んでしまい、証拠が残らない。話をしても、証拠がないのでは、信じてもらえないかもしれませんでした。
その気味の悪さに、友達は思い切ってバイオメモをやめました。忘れ物は増えますが、何か策を練らずにはいられなかったのです。しかし、友達の行動をあざ笑うかのように、線は日増しに増えていくばかりか、友達は腹痛に悩まされるようになっていきます。特に下腹部の。
彼女も年頃ですから、自分の身体の変化については承知しています。ただ、今回の痛みはお腹が張るというよりも、内臓の中に、閉じたまま入れられていた巨大なピンセットが、ひとりでに開いていくような、押し広げられている感覚だったといいます。
しかし、病院で診てもらおうにも、恥ずかしいことこの上ありません。
ましてや思春期の乙女。デリケートな部分に触れられたくないという思いは譲りがたく、友達は病院に行かず、自力解決に奔走します。とはいえ、名案があったわけではありません。引き続き、断食ならぬ、断バイオメモ生活を送るだけでした。
それはある意味、友達の矯正プログラムにもなったようです。メモを取らないために、何度も恥をかかされて痛い目にあいました。そのために友達はちょっとずつ、紙のメモに手を出し始めたようですね。
最初こそ慣れていませんでしたが、馴染んでくると自然と手帳を持ち歩き、すぐに取り出すようになります。例の奇妙な模様は、すでに全身に回っており、痛みは続いていましたが、まさに我慢の一語だったとか。
何ヶ月も時間がたち、ある日を境に友達の身体から、奇妙な線が浮かぶことはなくなったそうです。例の痛みも全くなくなってしまったとか。
しかし、すでに友達は他のメモへ比重を移していて、いまさらバイオメモを使う気にはなれませんでした。何より、自分の異状の原因となったであろうものを、わざわざもう一度行うなど、考えづらかったでしょうね。
これが袂を分かつ機会だ、と友達はバイオメモを書きつけていた、ペンをゴミ箱に捨てます。まだインクがたっぷり残っているペンは、気持ち重く感じられたとのことです。
そして、数日後のゴミ収集日の朝。ゴミ捨て場で不意に泣き声があがり、駆けつけた人たちによって、全裸の赤ん坊が見つかりました。
その子の保護者はついに現れず、施設に預けられることになったそうです。




