混沌日
こうして歩いている時も、毎日、何かしらの変化に気づいているか、つぶらや?
そう劇的なものじゃなくて構わない。有名な漢詩じゃないが「今日は布団の中で、鳥の声を聞いたな」とか、「昨日の嵐のせいか、花が散っていたな」とかで十分だ。
日付が変わるんだ。昨日あったものが、今日はないなんてよくあるだろ? 逆もしかりだ。昨日なかったものが、今日はひょっこり姿を現す、なんてこともある。このささいな変化に気づけるかどうかも、洞察力ひいては創作力に関わって来るんじゃねえか?
俺は疲れている時でも、できるかぎり身の回りのことには気をつけようと思っている。なにせ、ちょっと前におじさんから奇妙な話を聞いたからな。
つぶらやも知っておきたいだろ? もしかしたら、目の付け所が変わるかも知れないぜ。
おじさんが中学生だった、ある日の朝。
おじさんはいつも6時前には布団を出る。日課にしているランニングがあったからだ。サッカー部に所属していたおじさんは、テクニックはあったものの、スタミナに難ありだったという。ペース配分もあるのかもしれないが、ハーフでバテバテになってしまい、後半はプレイに精彩を欠く有様だったとか。
部活動の中だけでなく、普段の生活でも体力づくりを意識しろ。顧問の先生からのお達しがあって、おじさんは愚直にロードワークを続けていたというわけ。
ハンガーにかけっぱなしで、夜の空気を溜め込んだジャージを羽織り、身震いしながら家を出るおじさん。ところが、いくらも走らないうちに、電動車いすに乗ったご老人と鉢合わせする。
これまで何度かすれ違ったことがある人だけど、詳しい素性は知らない。常にサングラスをかけていて、パジャマの生地をいくらか厚くしたような上下を身につけている。その腕は枝を思わせるように細い。足は見えず、裾がだいぶ余っていた。
あまり関わり合いになりたくないなあ、と思いながら、気づかないふりをして、脇を走り抜けようとするおじさん。その正にすれ違おうとした瞬間、突然、ご老人が口を開いた。
語気の強い声。それだけなのに、おじさんはまるで腕を掴まれたように、びくりと震えて、足を止めてしまったらしいんだ。
「分相応に生きなきゃいかん! 我らは地べたに足をつけ、鳥なら空に翼を広げ、魚なら水の中にて泳げ! 出過ぎた真似は、ついには我が身を滅ぼすぞ!」
ご老人はおじさんを見ていない。前を向き、右手を掲げて振り回しながら、ジョイスティックで車いすを動かして、どんどん遠ざかっていく。おじさんは背筋に走る怖気を感じながらも、ランニングを再開したとか。
おじさんのランニングは、サイクリングコースにもなっている近くの河川敷の土手を、ひと走りして家に戻るというシンプルなもの。文字通りの朝飯前なので、あまり時間はかけない。すぐ近くは民家が立ち並んでいて、どこも軒並み、もう雨戸を開けているようだった。
おじさんは汗を流しながら、走り慣れた道をゆくけれど、その日は不思議な感じがしたらしい。というのも、路上をスズメたちチュンチュン鳴きながら往来しているんだ。
それだけなら、これまで何度か目にしたことがある。けれども、今回の彼らはおじさんが迫って来ても、一向に飛び立たない。ぴょこぴょこと、かろうじて飛び跳ねながら、迫る巨体をかわそうとしている。
心意気は買っても、緩慢な動き。何度か踏みつぶしそうになって、おじさんは徐行せざるを得なかったらしい。何回も目の前に立ちふさがれてペースを乱されたおじさんは、早めにランニングを切り上げてしまったとか。
その日の授業が終わり、部活の時間になる。
おじさんはウォーミングアップをしながらも、どこか違和感を覚えていた。日々のトレーニングで肉がしぼられたのか、身体が軽く感じられるようになったんだ。試しに軽く両足とびをしてみると、いつもより滞空時間が長い気がした。
周りのみんなの様子を見ても、何人かは不思議そうな顔をしている。自分だけではなさそうだ。一体、何が起こっているのか。おじさんは内心、首を傾げながらも練習に臨んだんだとさ。
大会が近いせいもあるのか、その日は一通りの基礎練習が終わると、チームに分かれて紅白戦が行われた。
おじさんはチーム内だと、背が高い。ゴール前での浮き球を巡るせりあいに強かったこともあって、フォワードを任されていたらしい。仲間もそれはよく分かっていたから、おじさんのヘッドを警戒して、ゴール前には常にディフェンダーが張り付いていたとか。
そして試合が始まって十分ほど経過。おじさんのチームはコーナーキックを得る。絶好の得点機、主だったメンバーがゴール前に固まった。
キック。ボールはファーサイド。高い弾道を描きながら、おじさんのいる奥のスペースへ向けて飛んでいく。ぎりぎりラインを割りそうなコースだったが、おじさんは何とか動きを合わせ、跳ぶ。マークについている選手もせりあいに来た。
いつも以上の浮遊感。相手とぶつかり合いながらも、文字通り頭一つ分抜き出たおじさんは、ヘディングシュートを見舞う。角度が厳しかったせいもあり、ポストで跳ね返ってしまったところを、すかさず別の味方選手がねじ込んでくれた。
ゴールを見届けてほっとしたおじさんだけど、それは一瞬の安堵。すぐに異状に気がついた。
足が地面につかない。ちょうど、手を離れてひとりでに飛んでいくはずのガス風船が、部屋の中で天井に止められているような、妙な気がしたらしい。
「なんか、やばい」とおじさんは、さっきせりあって、すでに着地している仲間にそっと、「引っ張ってくれ」と声をかけたんだって。
幸い彼らは、試合中で興奮していたこともあったのか、おじさんが浮いているのを、自分たちのユニフォームかどこかに引っかかったのかと思ったらしい。不審がらずに、すぐ足を引っ張って降ろしてくれた。地面に足をつけると、引力が戻って来る。
あれは何だったのか。おじさんは残り時間を、できる限り大ジャンプを抑えて、臨んだらしい。
帰り際。おじさんはいつも一人で帰るんだけど、部活中の不思議な体験が、ずっと頭に引っかかっていた。
ふと、通りがかった道路わきのゴミ捨て場を見ると、カラスが一羽だけ、ネットの上を今朝のスズメたちのようにチョコチョコと。だけど、スズメの何倍もあるでかい図体を引っ提げて、ゆっくり歩いていた。
そこへ一台の車が、エンジンをうならせながら、道路を猛スピードで駆けてきたかと思うと、タイヤがひいた小石が、カラス目がけて飛んできた。直撃こそしなかったものの、石はカラスの足元で跳ねて、大きな音を立てる。
びびって飛び立つ。そうおじさんは思ったけど、カラスは先ほどよりも気持ち歩みを早め、そそくさとその場を去っていく。その動きは、無理やり身体を引きずっているような、ぎくしゃくしたものだったという。
やっぱり何かおかしい。どうして、鳥たちは飛ばないんだ。無理に地べたを這い回っている。まるで飛ぶことができないかのように……。
羽ばたきの音がして、はっと、おじさんは周囲に目を走らせた。数歩先で、空から急降下したハトが、地面に降り立った。
試しにおじさんは、ハトに近づいてみる。ハトは飛ばない。
今度は先ほどの跳ねた石を、ハトからややずらして投げてみる。やはり、ハトは飛ばない。ただ歩みを早めるだけ。羽を広げる気配もない。
確かに降り立つところを見た。飛べるはずなんだ。こんな怖い目にあう地上より、空中の方が居心地いいだろうに。不自然だ。鳥だったら鳥らしく空を……。
そこまで考えて、おじさんは今朝のご老人の言葉を思い出す。
「分相応に生きなきゃいかん! 我らは地べたに足をつけ、鳥なら空に翼を広げ、魚なら水の中にて泳げ! 出過ぎた真似は、ついには我が身を滅ぼすぞ!」
もし、昼間の自分のジャンプも、地面に降り立った鳥たちも、そのいずれもが「出過ぎた真似」だったとしたら……。
頭上から鳴き声が聞こえる。見ると、ずっと上の青空を、大きい影が手足をばたつかせながら、何匹も連なって飛んで行くところだった。
何羽じゃない。何匹だ。なぜなら、飛んでいる奴らはすべて、シカやイノシシだったらしいんだ。




