彼方よりの赤
おお、こー坊。こんな遅くまで起きとったんか。
しかもパソコンをこんなに叩いて……目が悪くなるぞ、お前。
どうもじいちゃんの感覚だと、こんな小さい画面に心血注いでいる姿勢が、怖くなってくるわい。
ちょいと前、電車に乗るときなんぞ、み〜んな手のひらサイズの板とにらめっこしっぱなしでな。一心不乱に目と指を動かしているだけで、いくつもの駅を通り過ごしていく。
誰も止めなけりゃ、また駅名を車内のアナウンスが告げなけりゃ、みんな延々とああしているんじゃなかろうか? そんな不安さえ、じいちゃんの頭をよぎるのう。
じいちゃんも試してみたらどうか、と?
まあ興味はなくもないが、じいちゃんも長く生きていると、それを上回る危うさの経験がある。
スマホとやらの魅力に勝るとも劣らない、関心を振るうべき相手に出会ってしまったんじゃ。そいつとの馴れ初めが、電車の中だったもんでな。
――ん、こー坊は興味があるか?
まあ、お前にもいつ起こるか分からんかもだし、知っといてもよかろう。
じいちゃんがばあちゃんと結婚して、少し経ったころだったか。
じいちゃんは、いわゆる転勤族というやつでな。仕事の都合で、住む場所を移ることが結構ある。
独身だとそのあたり、ポンポン飛ばされがちなのはちときつかったが、所帯を持つことができたのは幸いといえよう。これで以前ほど、住まいを移ることもあるまいと思っていたんじゃ。
じいちゃんの乗る私鉄は、一駅の間が長い。仕事場まで6つほど駅を過ぎていくことになるんじゃが、それでも30分以上はかかっていた。
じいちゃんはその時間で、本を読むのが当時は好きじゃった。
この点に関しては、現代のスマホをいじる面々とそう変わらない動きじゃろう。顔をさほど動かすことなく、ただわずかな指の動作でもってページを手繰り、時間を過ごしていく。
しかし、それはごく近くを見つめることで、目を酷使する行為にも違いない。
率直にいうと、近くを見るというのは目に筋トレを課すようなもの。それが長時間ともなれば、その間はエンドレスで腹筋しているようなもんじゃ?
できる自信はあるか、こー坊? 一時間とはいわずとも数十分、急がずとも休むことなく腹筋を続けることが。
一部の者をのぞいては途中で力尽き、あるいは取り返しのつかぬ痛手を身体に残してしまうやもしれんな。そいつが視力の低下となってあらわれる。
遠くを見やることが目を休めるのは、その筋トレを止めること。いたわってやれば、同じブツでも長く使い続けることができよう……とはいえ、それはあくまで理想の形。
もろもろの事情で、必ずしも推奨される通りのことができんのは、こー坊もよく分かっているじゃろう。
じいちゃんも、いつもなら駅に着くまでのめり込んで読んでしまうんじゃがな。
その日は、ふと両目に痛みを感じたんじゃ。まるで針で眼をつつかれたかのようで、声を出すことはこらえたが、たまらずまぶたを閉じて、本から顔を離してしまった。
ほんの数秒ほどの暗闇ののち、おそるおそる目を開いたじいちゃんだが……異常に気付いてしまう。
じいちゃんが経つのは、車内中央のつり革付近。その正面にはちょうど乗り降りのためのドアがあるんじゃが、そこにはまったガラスの一点に、豆一粒くらいの赤い点が浮かんでいたんじゃよ。
いくらまばたきをしても、その赤は消えることがない。
ドアについた汚れなのか、とも思ったが違う。じいちゃんが降りる駅になっても、じいちゃんが見つめる先に、その赤い点は浮かび続けていたんじゃからな。
あらためて、目をこすっても事態は好転しない。もしや、飛蚊症のたぐいなのかと疑いもし始めたが、妙なことに窓のない屋内へ入ると、この赤ははたと姿を消してしまうんじゃ。
その代わり、外が見える場所ならば、こいつはどこでも視界に現れてくる。
ただの目の異状ではない。かといって、ああもどこから見ても赤で目立つものの存在など、じいちゃんは把握していない。
どうしたものか……と、変わらず目をごしごししていると、それを見とがめた同僚に心配されてな。普段から懇意にしていることもあり、じいちゃんは素直に実態を伝えたんじゃ。
「おお、それな。『死の気配』だよ。お前、そいつに触れると死ぬぞ」
お前の気の方が触れたんじゃないのかと突っ込んでやりたかったが、ぐっとこらえた。
こうまで堂々と、新婚に向かって死を口にできるとか、どのような方向であれ重大事ではあろうからな。耳を傾けたわけよ。
その赤は、かなたから迫りくる『死』なのだという。
あまりの遠さゆえ、赤の点のように見えているが、それはやがてすぐそばまでやってくる。
その赤に触れたものには、例外のない死がもたらされるとのことだったのじゃ。
「お前が見えるようになったのは、何かしらのスイッチが入ったことが原因だろうが……はっきりいうと、確実に防ぐすべはない。
突然の交通事故が防げるか? そのときお前は自分の命を守れるか? 100パーセント? 絶対に?
否だろう。いくら警戒しようが人には虚ができるし、それを超える力で押されればなすすべがない。
だからこそ、普通に振る舞え。命のままに。その時くればあきらめろ。絶対なんてものはない」
あまりに、こともなげに言ってのけるものだから、じいちゃんとしては信じるのも疑うのも難しい状況ではあった。
とにかく、死にたくはなかったからな。
ばあちゃんと結婚して、まだ一年と経っていない。せっかく二人で思い出を作っていこうと約束しあったばあちゃんを、誰が好き好んで未亡人になどできるものか。
それからはできる限り外を見て、くだんの赤から片時も目を離すまいと努めていたんじゃが。
その時は、思ったよりも早くやってきた。
話を聞いたその日の仕事帰り。最寄り駅のホームの階段を下りているときじゃった。
昇り降りではっきりと手すり越しに分かれた階段下に、そいつは現れた。
バレーボールほどの大きさのそれは、ぴょんと階段の左端に乗っかったかと、ローラーをかけるような軌道で右端へ。右端へ達するや、一段上がって左端へ……と不可解な往復運動を始めた。
正直、じいちゃんはたじろいだ。
昼間に聞いた「死」のことばかりでない。その球体の動きはあまりに速く、不規則に過ぎた。
順繰りに段を上っていたかと思いきや、何段も飛びのき、また往復したと思いきや何段も飛び上がってきたり。くわえて、その往復する動きも目で追うのがやっとという速さ。
少なくとも、じいちゃんがかわそうと思ったときには、もう間に合わないと感じるほど。走り抜け、また飛び降りようとしても、触れずにいられるか……いずれの保証も持てなかったんじゃ。
かといって、このまま固まっていても、また猛烈な勢いでここまで飛んでこられたらまずい。背を向けて逃げようにも、その見えない間にぶつかるのが怖い。
逡巡し、固まるじいちゃんを動かしたのは、じいちゃんの脇を抜けて歩く乗客のひとりじゃった。
遅めに降りたじいちゃんよりも遅いその人は、大いに酔っぱらっており、じいちゃんを追い越すや、足をもつれさせて一気に階段下まで転げ落ちてしまったんじゃ。
例の赤い球体を押しつぶすような格好でな。その人が階段下でのびてしまうときには、もう影も形もなかった。
声を掛けても返事はなく、駅員さんを呼びに走るとほどなく救急車が呼ばれた。
かの人はすでに心肺停止していたんじゃよ。
じいちゃんは、あの彼方よりの赤がここまで来た姿だったと、今でも思っておる。
不謹慎じゃがじいちゃんが生きながらえたのは、あの人がいたためかもしれん。
こうして長く生きながらも、じいちゃんは電車に乗る時などは余計なものに目を落とさず、外を見るようにしている。
また、いつなんどき、あいつとまみえることになるか分からんからな。




