マッチのお兄さん
お〜う、こーちゃん。今日もなかなか薄めな格好じゃあないか。
駄目だね〜、僕は。こうも急激な気温差の前には、身体が勝手に白旗をあげちゃって、それに追従する形でもろもろの機能がやられていく。
恒温動物、ヒューマンのボディがこの時ばかりはうらめしい。自由自在に体温を変えても、なんともない身体がほしいな〜。変温動物みたいな。
――ん? 変温動物は外からの影響で体温を変えるんであって、自分から体温を変えるのは変温動物じゃない何かだって?
だ〜、こまけ〜ことはいいんだよ! フィーリング! フィーリング!
「変態」ときいて、動物が育つ過程で形態が変化していくことを、とっさに考える奴がどれほどいるか?
ギャグ漫画の世界でなければ、後ろに手が回るようなこと、あるいはそのようなことする輩を、大勢が頭に思い浮かべるだろう。
言葉は生き物だ。鳥のようにどこまでもかっとび、どじょうのようにつかみどころがない。
もう名札だけついてる別物に変わっていても、文句言うやつが少なくなっているかもしれない。
人間だってまた同じだ。そばにいる相手は人間に見えているけれど、本当に人間なんだろうか? こーちゃんに経験はないかい?
僕の昔の話なんだけど、耳に入れてみない?
僕の小さいころの知り合いのお兄さんの、秘密の特技のひとつ。それに「人間マッチ」というものがあった。
爪に火を灯す、てことわざあるでしょ? あれを本気でやってみせてくれるんだよ。
はじめて見た時は、葉っぱ相手に実行してくれたよ。手品代わりだと、手近にあった葉っぱ一枚をとって、その葉脈に沿うように爪を滑らせる。
その一瞬で、お兄さんの爪先にオレンジの灯がともったんだ。
最初は、頭の理解が追い付かなかった。
本当に起こるとは思っていなかったから、お兄さんが人差し指をそっと立てて見せたときにも、ぼんやりその動きを眼球が追うことくらいしかできなかったよ。
ただ、こいつは長持ちしない。お兄さん自身も相当に熱いらしくて、ものの数秒で熱がりながら指をぶんぶんと振り、そのともしびを消してしまう。
一発芸の練習だ、とその場では話してくれたものの、幾度か一緒したり、近所で見かけたりした僕には分かる。
お兄さんは、意図的に火をおこしているんだ。
葉っぱだけじゃない。家屋の壁、敷地を囲うフェンス、川にかかる橋の欄干、自動車専用の土台に至るまで。お兄さんは通りかかるところに、スキをみては身体をこすりつけていく。
それははために、よろめきを装ったもの。摩擦も炎上も、ごくごくわずかな間だけで、たまたま通りかかった人は「見間違いかな?」と、自分が見たものを片付けていくだろう。
この奇行は当時、お兄さんと僕の間だけの秘密だった。むやみに外へ言いふらしてはならないと。
正義のヒーローとかによくある奴だな、と思ってうなずいていたけれど、お兄さんの事情はもっと違ったものだった。
火をつけないでいると、生きていくのが難しくなるから、とのこと。何をおおげさな、と最初は思ったけれど、これは自分の体質のようなものだという。
お兄さんの身体は、とある特殊な虫に好かれているらしい。
この特殊な体質を成すものに原因があるのか、それとももっと別な理由なのかは分からない。ただし、放っておくとお兄さん自身の身体と命に悪い影響を及ぶす。
ゆえに、こうして火を定期的におこしてやる。
ほんのわずかな間だとしても、そうして発した熱はお兄さんの身体をめぐり、たちまちのうちに取り付いた虫を除ききる。
伝えきったお兄さんの肌は、肉眼で見えないほどの薄く焼ききられ、はがれ落ちて消えていく。火も残らず、害もない。
僕のまわりに、そのような面倒ごとをしょい込んだ人はなく、漠然と「大変だな」と思ったさ。それで「辛くない?」とも尋ねたよ。
見上げるばかりに大きなお兄さんは、そんな僕を見下ろして、にこりと笑う。「そんなことはないよ」と言い添えながら。
お兄さんは、不思議と僕が外へ出歩くときはそばで見かけた。
家族といる時は、遠巻きに。いない時ならより近くに。
僕から接触しに行かなければ、お兄さんの方から寄ってくることはめったにない。
もう少し歳を重ねていたなら、ストーカー? とも思ったかもしれないが、当時はただ不思議なお兄さんだと感じるのみだった。
そのお兄さんと別れることになったのは、小学生の低学年のころだったか。
下校際に通りかかった横断歩道、その向かいの信号の下にお兄さんの姿があったんだ。
ここはめったに人が使うことのない歩道で、このときは僕たちしかその場にいなかった。
僕はたとえ車が通っていなくても、赤信号は守るように厳命されていたからね。青くなるのを待ちながら、向かいのお兄さんの存在を認めて、なんとなく眺めていた。
お兄さんはというと。
信号の柱に、盛んに肌をすりつけていた。
すでに冬場になろうかというのに、男としては露出の多いタンクトップ一枚。
視線も身体の向きも、僕を真っすぐ見据えて、ひたすらに肩をごしごし擦り付けていく。
軽く膝を曲げ伸ばししながら、寄りかかるようにして、こすり、灯し、こすり、灯し……。
一糸の乱れもないその動き、およそ人間ができるようなものじゃない。
はじめからそう組み込まれている機械が、ただひたすらに命令をこなしている……子供の目にもそう映るくらい、お兄さんには生気を感じられずにいたんだ。
まばたきひとつしないその姿勢に、僕ははじめてお兄さんを怖く思ったよ。そうと思ったときには、もう背を向けて逃げ出していたんだけど。
唐突に、ぐんと目線が伸びたんだ。
背伸びをしたかのように、はっきりとしたものだけど、当然ながらそのような動きはしていない。
僕の身長が急激に伸びたんだよ。この三年間、みんなよりひと回り小さくて、列での最前線を張り続けていた僕の背が、いきなりね。
もしやと、信号方面を振り返る。
信号の柱の足下、大人用の服を盛大に引きずるほどに縮んだお兄さんがいた。
僕の先ほどまでの身長など、比べ物にならない。それこそ犬くらいの大きさではあるが、その髪型と顔は紛れもなくお兄さんのものだ。
そうして、いまや肩ではなく全身で、柱をもうひとこすりすると。
その身体全体が火に包まれた。いつも見せてくれたように、ほんのわずかな間だけで、ついたと思ったときには、もう姿を消している。
小さくなったお兄さんの身体ごと、だ。残されたのは、着ていたタンクトップたちばかり。
そして僕の背はまた、ほんのちょびっと伸びたのを実感する。
二度とお兄さんに会えなくなってから思う。
お兄さんが、火をつけなくては生きていけない存在。それは自分でなく、僕ではなかったのかと。
体質云々は方便で、本当は放っておいたら生きることが叶わなかった僕の身体の害を、お兄さんがすべて引き受けて燃やしてくれたのではないか?
人間に見えて、人間じゃない。お兄さんに見えて、お兄さんじゃない。
離れてこそいても、僕の身体の一部だったのかもしれない。




