私害受けし湖
ふむふむ、相当範囲に渡って人の健康又は生活環境にかかわる被害が生ずること、かあ。
お、どうだいこーらくん、試験勉強は順調?
日本の地理的に、公害も分けては考えられない問題のひとつだよねえ。どれほどのものが予期できていたかは分からないけれど、今もたびたび訴訟の話は聞くし、現代の大事件のひとつだろうなあ、と。
相当の範囲のもののみでも、四大公害をはじめとして数あるのだから、ごく狭い範囲。あえて称するなら「私害」とでもいうべきものは、もうそこかしこにあるよねえ。夜中の大声レベルでもさ。
これらは範囲こそ広くないけれど、個々人にとっては深刻な問題として立ちふさがることもあったりする。ひょっとしたらその被害に対して、目的はとてもシンプルなものであるかもしれない
僕がおじいちゃんから聞いた話なんだけど、耳に入れてみないかい?
むかしむかし。
じいちゃんの地元には、釣り舟を出せるくらいの小川や池沼が多く、趣味で釣りをする者も相当いたらしいんだ。
じいちゃんのご先祖様が住む村の裏手にも、がまの穂にふちを囲まれる、ひとかどの大きさの湖があり、心得のある者ならしばしば魚を釣り上げていたという。
けれども、その日はどこか様子が違った。
湖面をかく、櫂の手ごたえがわずかに重く感じられたという。
大量の水を分けんとするのだから、相応の手ごたえがあるのは当然。何度も、かの湖へ漕ぎ出した者でなくては判別の難しい、微妙な違いだったとか。
首をかしげながらも、釣り人はそのまま舟を進めて、水底の見えぬ湖の中心近くへ。舟を停めると、携えた釣り竿にエサ代わりのミミズをつけたうえで、湖面へ投げたのだけど。
そのミミズの刺さった先端が、一瞬ためらった。
水面に触れるや、糸ごとくたりと身をよじり、そこに地面があるかのように横たわる。
釣り人が目を見張ったときには、もうミミズが沈み込むという、ほんの一瞬の間。
いたずらっ子がいたずらの瞬間を見とがめられ、「あ、やっちゃった」とすぐさま襟元をただすかのごとく。すぐさま糸とミミズは、本来あるべき水中へと没していった。
つい、釣り人は己がまなこを何度もこすってしまう。
あのとき、確かに湖面には、何かしらの抵抗が生まれていたはずだ。もしや、ここまで向かうのに櫂の手ごたえがあったのも、関係しているのだろうか。
彼の疑惑に、やがて湖はさらなる不可解な力でもって応えてくる。
ややあって、釣り糸に反応があった。
もっとも、魚が食いついた時のような、引っ張られるものじゃない。正反対の押し出す力だったのさ。
垂らした釣り糸が、ぐんぐん水面からせり上がり、ついにはエサにしたミミズそのものもまた姿を見せてくる。
そのミミズを乗せて、深き底から浮かび上がってくるのは、全長二尺を越えようという魚の姿だったんだ。
白い腹を無防備にさらす、横倒しの姿勢でもって浮かび上がる様子は、力尽きた者の亡骸に他ならない。
ぽかりと開いた口は、もはや微動だにせず。ただ水の浮力にたゆとうより、その身体はなすすべを持っていなかったんだ。
それは一匹だけにとどまらない。釣り人は糸を引くうちに、近くにも遠くにも、似たようなかっこうの魚たちが浮かんでは、身を横たえていく。
――よもや、毒でもこの湖に流れたのではなかろうな?
そう思い始めると、あの櫂や釣り糸の抵抗も、混じった毒のために強まったと考えれば合点がいく。
長居は禁物。
釣り人はただちに舟を返し、岸へと急ぐ。櫂にかかる力は、気持ち増してきたように感じられるが、構ってはいられない。
ひとかき、ふたかき。確実に岸は大きくなってきていたのだが、ふと、舟の滑りが著しく悪くなる。がたりと、舟の身体も揺れた。
風じゃなかった。波でもなかった。それは、足元からの盛り上がり。
浮かび上がってくる、無数の魚たちだったのさ。
釣り船の底部、その隅々にまで行き渡るほど肩を寄せ合う、数十匹の魚たち。動きなく水面に横たわるのみの彼らが、しかしその体でもって、舟の滑りを極端に悪くしていたんだ。
しかも舟はなおも高さを増していく気配を見せる。水面をかこうとする櫂にも、いまやまとわりつくのは弾力を帯びた魚体ばかり。
魚はなおも、水の中にありながらうず高く積まれていたんだ。
浮かび、倒れた魚の下からまた別の魚が浮かび、上の魚にぶつかって、じょじょに高さを増していく。
それが次々と球をついて、舟を水面から完全に持ち上げてしまっていたのさ。その上に乗る釣り人の重ささえ加えて、なおも高みを目指さんと身体を合わせ続けている。
釣り人はしばしためらったのち、舟を捨てて、水の中へ飛び込んだのだそうだ。
先から様子の怪しい水へ、じかに身体をつけるのをよく思ったわけじゃない。
しかし、もはや舟は自分の力でまともに動けず、仮に櫂で身体をのけるように力を込めても、魚がつぎ足される早さに追い付けるかどうか……。自信がなかったんだ。
泳ぐ釣り人の身体にも、浮かぶ魚たちは接触をはかってくる。スキあらば、その体を舟のように押し上げんとするかのごとくだ。ぶつかれば、殴られたと思うかのような衝撃がともなう。
構わず、釣り人があらん限りの力で岸へたどり着いた。
痛みにうずく身体を押して、這いあがりながら振り返ったとき、すでに山のように身を寄せた魚体たちが、舟をてっぺんに乗せたままひと何人分もの上空へ運んでいたんだ。
そこで、舟は砕けた。
虚空には何もないのに、舟のヘリを四等分するかのような大きな歯形が複数浮かんだかと思うや、そこから一気に断ち割られてしまったんだ。
噛まれた部分は、たちまち細かい粒となり。漏れ落ちたところは、細かな破片となって湖へ落ちるや、そのまま沈みこんでしまう。
舟の跡形がなくなるや、魚たちの山は「役目は果たした」といわんばかりに、あっという間に形を崩した。
舟の破片と同じく、矢継ぎ早に湖の中へ落ち込んで。やはりまた同じように、浮かび上がってくることはなかったのだとか。
釣り人が一部始終を話しても、信じてくれる者はほとんどいなかったらしい。
ただ、その湖では場所が変わったかのように、めっきり魚がとれなくなってしまったのは確かだったとか。




