運びの道
つぶらやは、キツネに化かされたと思う経験はないか?
昔話からして、よくあるよなあ。目的地へ向かっているはずが、同じところをぐるぐる周り続けて、いっこうにたどり着くことができない。
これはキツネによって惑わされている状態であり、紫煙をくゆらせることによってキツネを退け、まやかしを解くことができる……というのも、よく知られた対処法だな。
いわば、これらの化かしは脳の認知能力に働きかけているんだろう。
魔法じみた手段とは限らない。目、鼻、口、耳、肌……あらゆるところから取り込まれていく物質、情報とその処理によっては、脳がこんがらかって正常な判断ができなくなってしまう。
それにまんまとはまれば、化かされる状態の出来上がりというわけだ。
それに対し、たばこのニコチンを摂取することで、脳の神経伝達物質へ働きかけ、活性化させることで幻惑状態を脱する。そんなメカニズムがあるんじゃないかと思うのさ。
しかし、そいつはあくまで一例。世の中には、そのときどきに応じた対処法があるみたいでな。俺も聞いて、実践してみたことがある。
その時の話、耳へ入れてみないか?
それは、少し遠出してからのバス帰りで起こった。
駅集合で友達との用を足した俺は、今度は駅前の停留所からバスに乗る。
一時間につき、およそ1〜2本。ヘタに逃すと数十分は時間を潰さないといけなくなるから、来ていたものには即座に乗る。
空いている時間帯だったこともあり、俺は最後列の一角に陣取った。5〜6人で座れるようにあつらえられたこの席の、開放感たるや別格だ。
他の客が乗ってくる様子もなく、やがてバスはその前後のドアを閉めて、発進する。
ロータリーをぐるりと半周すると、バスは駅前銀座沿いの道路を悠然と走り始めたんだ。
ときどき信号につかまりつつ、十数分も進んでいくと店の並びはどんどんまばらになっていく。
地元民には慣れた順路と景色。
ここからは陸橋を越え、長々と国道を通り、川まで横切れば10年は時代をたがえたかと思う、のどかな風景がお出迎えだ。
そこより更に十分近くはバスに揺られて、ようやく家の最寄りの停留所。
ほんのり眠気は感じるものの、一度寝入ると、なかなか目覚めない自分の性質は知っている。どうにか意識を保とうと、外の景色を食い入るように眺めていたよ。
その陸橋を越えたところだった。
民家の割合が増え、わき道をひとつ挟んで、ペットショップ、ファミレス、大型服屋と横切っていくのだが、少し様子がおかしい。
立ち並ぶ民家の塀たちのところどころに、コケが張り付いている。歴史ある神社の石段とかを相棒にしているような、土と湿り気をたっぷり含んだ姿でだ。
一角のみならず、まばらに分散して取り付いた見た目は、それだけなら家主のおっくうぶりを示しているかのよう。
だが、俺は数日前にもこの近辺に出向く用事があって、このあたりの塀も目にしている。
その時はきちっと掃除されていて、コケはおろか泥ひとつもついていなかったんだ。
こうも汚されるなんて、誰かのいたずらかと思いつつも、バスはそのまま前を通り過ぎていく。
しかし、続く一軒家のペットショップも軒がやたらさび付いていたし、ファミレスも看板の塗装があちらこちら剥げており、店の名前や営業時間が断片的に隠されてしまっている始末。
服屋に至っては、遠方にまでアピールできるだろう建物てっぺんの、広告用キューブ。
そのあちらこちらから、ススキのような草がいっぱいに生え、垂れる穂先がキューブの色から店の名前まで、ほとんどを覆ってしまっていたんだ。
もちろん、これらもまた数日前には影も形もなかったもの。
おかしいと感じていたが、この時乗っていた運転手さんは、それらに意識を向ける様子はない。
そうこうしているうちに、バスはいよいよ大川にかかる橋の下にまで来てしまい、俺はなお目を見張ることになった。
川向こうの景色をたとえるなら、夏の暑さにやられた野原だ。
本来、そびえたつべき建物たちは、くたりと半ばから頭を垂れて飴細工かのように折れ曲がっている。
鉄筋を含むたてものたちに、あり得ざるべき姿。観察するとそれらの窓や壁にも、そこかしこに割れたり、崩れたりした破損個所がのぞいている。
橋自身もまた、その欄干部分は無事な部分を探す方が難しいほどの虫食いだらけで、老朽化の具合ははなはだしい。
これからバスがタイヤを乗っけようとしているアスファルトも、劣らないほどの多数のひび割れ、陥没箇所の数。いったいどれほどの時間、放置していたらこうなるのか。
前方をゆく車、対向車のいずれもなく、この危険極まりない綱渡りを前にして、バスはいささかも怖じる様子なく、スピードを上げて突っ込む構えだ。
いくら声をあげても運転手は反応を示してくれない。いや、見間違いでなければ運転席上部のミラーに、本来うつるべき運転手の姿がなかった。
つい先ほどまで、確かに制服と帽子を身に着けた中年男性の姿があったのに。
「『運びの道』へ乗ることがあれば、気をつけなよ」
ふと、昔にばあちゃんに聞いた話を思い出した。
運びの道。それは命の営みを本来の速さ以上で運んでいってしまう道のこと。
命の営み。すなわち死へ向かって進んでいくこと。
運びの道へ乗り、そのままでいたならば命はたちまち死のもとへ連れていかれてしまうのだという。
その兆しは、運ばれる途中にあらわれる。自分が歩き、通ることになる道々と、そこに存在するものが、ことごとく老いさらばえていくのだと。
運びの道そのものが、そう見せてくるのだと。
そこから外れる道は、唯一にして単純。その場でひたすら、左巻きに回ること。
しかし、強烈な不快感がそこに伴い、乗り物よいの比ではない。
ひと回りで目を回し、ふたつ回りで顔奥を痛みが貫き、みっつ回りで胃がことごとく中身を戻す。
それはすぐさまその場に倒れたい衝動に駆られるほどの辛さだが、こらえにこらえて回らないと「道」を外れることはかなわないとか。
猶予がなさそうなことが、かえって俺の背中を押す。
回るときにどこかへ捕まってもいいとのことで、すぐ前の取っ手を握って一回転してみたが、目が回るどころじゃなかった。
足がついていなかったら、まさに天地の区別がつかなくなるほど、身体が猛烈に揺れ動いたんだ。どうにか取っ手を握る力で持って、体勢を引き起こす。
ためらったら、もう回れそうにない。ぎゅっと顔に力を入れて、次に来るだろう痛みに備える。
鈍器で殴られるというより、とがった針を深く深く突きこまれるようなものだった。
鼻から延髄まで達したんじゃないかと思う想像に、とめどない鼻血が付き添って、バスの床をしとどに濡らした。
三回り目は、詳しく語るに及ばない。
ただ床のトマトソースが、具だくさんのホワイトシチューと化して、しかもぐらぐら煮ているかのように泡を立てていた、とだけ話そう。
四回り目以降は、これまで1〜3回りのうちのどれかが無作為に現れる。
どれだけ回ればいいか、祖母は教えてくれなかったが、終わりは向こうからやってきた。
俺が回っている間に、橋をぐんぐん走っていたバスの車体が唐突にぐらついたんだ。
それは橋が半ばで折れてしまい、そこに飲み込まれたバスが、真っ逆さまに落ちていったがためにもたらされた状態。
高いところから落ちる夢さながらに、俺は足元の感覚が失せるとともに、覚醒する。
俺は駅のバス乗り場に倒れていた。本当はバスに乗ってさえいなかったんだ。
周囲には小さな人だかりができていて、俺ははじめて嘔吐物の中に倒れる、自分の姿に気づいた。
服もズボンもそこかしこが破れて、血がにじんでいる。よほどひどく茂みの中で暴れたかのような、傷つき具合だったよ。
だが、心臓は動いていて、こうして今を生きることができている。
あのまま運ばれていたなら、現実の俺は突然の死を迎えていたのだろう。




