第二十九話「観察日誌・別巻」
婚約発表は、春の夜会で行われた。
会場が沸いた。ヴェルナー侯爵夫人が涙ぐんでいた。マイヤー男爵令嬢が拍手をしていた。ドレフュス子爵令息が新しい詩で祝福を述べた。ランベルト・ハイン子爵が「やっと終わった」と言って疲れた顔をしていた。
エリーゼはそれを全部、見ていた。
ノートは持っていなかった。
翌日、エリーゼは机に向かって、新しいノートを開いた。共著の第六巻はある。でも、自分だけのノートも一冊ある。これはエリーゼだけのものだ。
ペンを取った。
第一観察対象、と書きかけて、止めた。
書き直した。
『第一記録対象。エリーゼ・フォン・グラウベル』
『所見。三年間、誰にも気づかれずに過ごしてきた女が、気づかれる側になった。観察者として記録することと、関わる側として決断することを、両方やっていく予定。本日、婚約。殿下との共同作業も継続中』
そこまで書いて、エリーゼはペンを置いた。
窓の外に、春の光が差していた。三年前、壁際でサンドイッチを食べていた女は、今この机に座っている。同じ人間ではない。同じ人間でもある。
ノートを閉じた。表紙には何も書いていない。
エリーゼは少し考えた後、ペンを取って、表紙にこう書いた。
『観察日誌・別巻』
別巻、というのはエリーゼ自身の記録のことだ。共著の第六巻とは別に、自分のために書く一冊。これからも書き続ける。
扉をノックする音がした。
「エリーゼ」
ルードヴィッヒの声だった。
「入ってください」
婚約者になった人が、いつものように部屋に入ってきた。
「何を書いていた」
「別巻です」
「別巻?」
「私自身の記録です」
ルードヴィッヒが少し目を細めた。
「俺は読めるのか」
「観察記録ではないので、申請はできません」
「それは」
「ただ、いつか読みたいと言われたら、考えます」
「いつかか」
「はい。いつか」
ルードヴィッヒが笑った。エリーゼも笑った。
窓の外の春の光が、二人の手元のノートに差していた。
観察者は、観察される側になった。
観察される人は、観察する側にもなった。
二人で並んで、これからも書いていく。
別巻はまだ一ページ目だった。
最後までお読みいただきありがとうございました。エリーゼと殿下の物語、ここで完結です。




