第6話「父と娘」
ミレーユは、ブランシャール公爵邸の玄関で馬車を降りた。十日ぶりの王都だった。
石畳の匂いが、靴の裏から伝わってくる。
見慣れた門構え。磨かれた鉄柵。庭の薔薇は夏の盛りを過ぎて、花弁が少しだけ重たくなっていた。
護衛騎士が荷を下ろす間に、ミレーユは屋敷を見上げた。
ここを発ったのは、いつだったか。
枢密院の審議のために王都に戻り、補償の裁定を見届け、辺境に帰った。それからまた季節が動いて、今、再びここに立っている。
玄関の扉が開いた。
使用人が一礼して迎える。
「お嬢様、お帰りなさいませ。旦那様がお待ちです」
「ありがとう。すぐに参ります」
ミレーユは旅装のまま、父の執務室に向かった。
廊下を歩きながら、指先が冷えていることに気づいた。
夏の王都は暑い。馬車の中も蒸していた。それなのに、指先だけが冷たい。
父の執務室の前で、呼吸を一つ整えた。
扉を叩いた。
「入れ」
低い声。
扉を開けると、ギヨームが執務机に向かっていた。
ペンを置き、娘を見た。
「戻ったか」
「はい、お父様」
ミレーユは一礼した。
ギヨームは椅子の背にもたれ、娘の顔をしばらく見つめた。
旅の疲れはある。けれど、目の奥の光が以前と違う。
辺境に発つ前よりも、枢密院の審議で王都に戻った時よりも、何かが変わっている。
「座れ」
ミレーユは執務机の前の椅子に腰を下ろした。
ギヨームは書類の束を脇にどけ、机の上を空けた。
「書簡は読んだな」
「はい」
「枢密院の状況は手紙に書いた通りだ。物流崩壊が東部全域の問題になり、お前が辺境で動いていることが政治的に取り沙汰されている」
ミレーユは頷いた。
「お父様が枢密院で対処してくださっていることは、承知しております」
「対処はしている。だが、それだけでは足りん」
ギヨームの声が低くなった。
「ミレーユ」
名前で呼ばれた。
父が自分を名前で呼ぶのは、公務の話をしている時ではない。
「お前は、あの男をどう思っている」
あの男。
辺境公爵のことだと、すぐにわかった。
政治的な問いではなかった。
ギヨームの目は、枢密院の顧問官の目ではなかった。父の目だった。
ミレーユの指先が、膝の上で止まった。
沈黙が落ちた。
執務室の窓から、夏の午後の光が差し込んでいる。埃が光の中を漂っていた。
ミレーユは口を開いた。
「大切な方です」
声は静かだった。
ギヨームの表情が、わずかに動いた。
「お父様にとっての、お母様のような──」
言いかけて、止まった。
自分で口にした言葉の重さに、喉が詰まった。
ギヨームの目が細くなった。
手が、一瞬だけ机の上で強張った。
妻の名を出されたことへの反応だった。
怒りではない。もっと深い場所にある何かが、表面に浮きかけて、沈んだ。
ミレーユは俯いた。
「……すみません。軽々しい言い方でした」
「いい」
ギヨームの声は短かった。
「続けろ」
ミレーユは顔を上げた。
父の目を見た。
「辺境で、わたくしは笑えるようになりました」
声が少しだけ震えた。
「孤児院の子どもたちがいます。わたくしを"お母さん"と呼ぶ子がいます。菜園の野菜が育って、契約した農家から食糧が届いて、子どもたちが三度の食事を取れるようになりました」
ギヨームは黙って聞いていた。
「セドリックさまは──わたくしの仕事を、最初に見つけてくださった方です。十年間、誰にも気づかれなかったものを、読み取ってくださいました」
ミレーユの手が、膝の上で握られていた。
「あの方は、わたくしに能力を求めたのではありません。義務を求めたのでもありません。わたくし自身でいてほしいと──そう言ってくださいました」
最後の一言は、ほとんど囁くような声だった。
ギヨームは娘を見つめていた。
長い沈黙が、執務室を満たした。
窓の外で、庭の木が風に揺れている。
ギヨームが口を開いた。
「辺境公爵と正式な関係を結べば、ブランシャール家は王家の内部問題に永続的に巻き込まれることになる」
政治家の声だった。
「継承権を放棄した王族であっても、その配偶者が政治的影響力を持てば、"辺境から王政に干渉する経路"と見なされる。今でさえ枢密院で懸念が出ているのだ」
ミレーユは答えなかった。
父の言葉が正しいことは、わかっていた。
ギヨームの目が、娘の顔に留まった。
握られた手。少しだけ震えた声。笑えるようになった、と言った時の表情。
妻が逝った後、この子はこうした顔を見せなかった。
十七年間、一度も。
ギヨームは息を吸い、吐いた。
長い沈黙の後、口を開いた。
「枢密院には私が対処する。お前は辺境に戻れ」
声は低く、短かった。
ミレーユの目が見開かれた。
「お父様──」
「ブランシャール家の令嬢の私的な活動に、枢密院が干渉する法的根拠はない。そもそもこの問題の根因は王太子領の物流崩壊であり、お前の行動ではない。その論陣は私が張る」
ギヨームの声は淡々としていた。
けれど、その声の奥に、ミレーユは聞き取った。
娘を送り出す父の覚悟を。
「ありがとうございます、お父様」
ミレーユは深く頭を下げた。
顔を上げた時、目の縁が熱くなっていた。
泣いてはいない。けれど、近かった。
◇
夜。
ミレーユは屋敷の廊下を歩いていた。
明日の馬車の手配はすでに済んでいる。辺境への旅支度を終え、部屋に戻ろうとした時、ある扉の前で足が止まった。
父の書斎。
ではなく、その隣の小部屋。
母の肖像画が掛けられている部屋だった。
ミレーユは扉を開けた。
小さな部屋だった。窓は一つ。壁に、一枚の肖像画。
夜のランプの光が、額縁を淡く照らしている。
柔らかな髪。穏やかな目元。微笑んでいる顔。
五歳の記憶の中にある母は、もう輪郭が曖昧だった。
けれど、この絵の中の母は、いつも同じ顔で微笑んでいる。
「お母様」
呟いた。
声は小さかった。
背後に、気配があった。
振り返ると、ギヨームが廊下に立っていた。
ミレーユと目が合った。
ギヨームは何も言わず、部屋に入ってきた。
二人で、肖像画の前に並んだ。
沈黙が続いた。
ギヨームが口を開いた。
「お前の母も、笑うとそういう顔をした」
ミレーユは自分の頬に触れた。
笑っていた。
気づいていなかった。
母の絵を見ながら、自分が微笑んでいたことに。
「お父様」
「なんだ」
「わたくし、辺境で──笑えるようになったみたいです」
ギヨームは答えなかった。
ただ、肖像画を見つめていた。
その横顔に、ミレーユは初めて、父の寂しさを見た。
妻を亡くして十七年。一人で娘を育て、公爵家を守り、枢密院で戦い続けてきた人。
その人が今、娘を送り出そうとしている。
ミレーユは何も言えなかった。
ギヨームが背を向けた。
「早く寝ろ。明日は早い」
「はい、お父様」
ギヨームが扉の前で足を止めた。
振り返らずに言った。
「あの辺境公爵に伝えろ。"娘を泣かせたら、枢密院の全権をもって対処する"と」
声は低かった。
本気なのか冗談なのか、わからない口調だった。
ミレーユは一瞬、目を見開いた。
それから、小さく笑った。
父が冗談を言うのを聞いたのは、記憶にある限り初めてだった。
「……伝えます」
ギヨームは何も言わず、廊下に出ていった。
足音が遠ざかる。
ミレーユは母の肖像画に向き直った。
セドリックの問いが、胸の中にあった。
名前で呼んでいいですか。
王都を発つ前に、門の前で訊かれた言葉。
答えは、もう決まっていた。
ミレーユは肖像画に小さく頭を下げ、部屋を出た。
◇
王都。枢密院の会議室。
翌日の定例会議で、ギヨームが発言した。
「王太子領の物流崩壊が東部全域に波及している件について、改めて申し上げます。この問題の根因は、王太子領の契約管理の破綻です。辺境の動きは、その帰結として生じた自衛的措置にすぎません」
顧問官の一人が応じた。
「ブランシャール閣下の仰る通りです。王太子の業務が正常化していれば、このような問題は生じなかった」
場の空気が、ゆっくりとエドワールに向いた。
エドワールはこの場にいなかった。会議に呼ばれていない。
けれど、彼の不在そのものが、彼の失態を語っていた。
議長が書類を捲った。
「先日決定した通り、王太子の統治能力に関する再評価を正式に議題とします。次回の枢密院本会議にて、宮内省の月次報告を基に審議を行います」
議場に異論はなかった。
ギヨームは席を立ち、廊下に出た。
窓の外に、夏の王都が広がっている。
娘の馬車は、もう王都を出ただろう。
十日後には、辺境に着く。
あの辺境公爵の元に。
ギヨームは窓の外から目を離し、歩き出した。
娘が笑っている場所へ、送り出すことを選んだ。
それが正しかったのかは、まだわからない。
けれど、妻がいたなら、同じことを言っただろうという確信だけがあった。




