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「お前に使った十年を返せ」と言われたので、お返しした結果がこちらです  作者: 月雅
第2章

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第5話「王都からの風」

「お前と辺境公爵の関係が王都で噂になり始めている。どういうつもりだ」


父の字だった。


簡潔で、角張った筆跡。感情を削ぎ落とした文面の中に、苛立ちと心配が滲んでいる。


ミレーユは辺境公爵邸の書斎で、前日に届いたギヨームの書簡を開封していた。


文面は長かった。父の手紙にしては異例のことだった。


「枢密院の一部から、"ブランシャール家が辺境を通じて王政に影響力を行使しようとしている"という懸念が出た」


ミレーユの目が、一行ずつ文面を辿る。


「加えて、王太子領の物流崩壊が東部全域に波及していることへの対策が枢密院の緊急議題に上がった。お前が辺境で独自の物流網を構築していることが、この議題と絡んで取り沙汰されている」


最後の一行。


「一度、王都に説明に来い」


ミレーユは書簡を机に置いた。


指先が冷えていた。


伯爵領との交渉の情報が、王都に届いた。それが物流危機の政治問題化と重なった。


二つの波が合流して、一つの圧力になっている。


ミレーユは目を閉じた。


問題の本質を、頭の中で整理した。


辺境公爵と公爵令嬢の関係が、政治的意図と見なされていること。物流危機が政治問題になったこと。その二つが絡み合っている。


どちらも、根を辿れば一つの場所に行き着く。


あの夜会で、王太子が婚約破棄を宣言した瞬間。全てはそこから始まっている。



セドリックの書斎を訪ねた。


朝の光が窓から差し込んでいるが、セドリックの顔色は良くなかった。夏の暑さが続く中、額にうっすらと汗が浮いている。唇の色が薄い。


ミレーユはセドリックの顔を見て、一瞬足を止めた。


体調の変化に、すぐに気づいた。


けれど今は、先に伝えなければならないことがある。


「セドリックさま。お話がございます」


セドリックが帳簿から顔を上げた。ミレーユの表情を見て、帳簿を閉じた。


「何かありましたか」


「父から書簡が届きました。王都でわたくしたちの関係が疑われています」


ミレーユはギヨームの書簡をセドリックの前に置いた。


セドリックが一読した。


顔色が、さらに白くなった。


暑さのせいだけではないことは、明らかだった。


「……私といることで、あなたの立場が──」


セドリックの声が低くなった。言葉を探すように、視線が机に落ちる。


ミレーユの手が動いた。


セドリックの手を握っていた。


自分から。


強く。


セドリックの目が大きく開いた。


「そのお言葉は聞きたくありません、セドリックさま」


声は静かだった。けれど、握った手には力があった。


指先が、セドリックの手の甲を押さえている。骨の形がわかるほどの力で。


セドリックはミレーユの手を見つめた。


細い指が、自分の手を掴んでいる。


今まで、手を握るのはいつもセドリックの方からだった。あの告白の日も、ミレーユの手を取ったのはセドリックだった。


今は、逆になっている。


セドリックの手が、ゆっくりと握り返した。


二人の手が、机の上で重なっていた。


ミレーユは息を吸った。


「王都に参ります。父に直接、説明する必要があります」


セドリックが頷いた。


「状況は理解しました。ただ──」


「わたくし一人で参ります。セドリックさまは辺境に残ってください。このお暑さの中、王都までの馬車旅はお身体に障ります」


セドリックの口が開きかけ、閉じた。


反論したかったのだろう。けれど、自分の体調を考えれば、ミレーユの判断が正しいことはわかっていた。


「戻ってきます」


ミレーユが言った。


セドリックの目が揺れた。


以前、王都に発つ夜。門の前で「戻って来てくださいますか」と小さく訊いた声を、二人とも覚えていた。


あの時、ミレーユは聞き返した。もう一度聞きたかったのだと、後になって気づいた。


今は違う。


自分から言った。


「戻ってきます」


セドリックが微笑んだ。


「待っています」


ミレーユは握っていた手を、ゆっくりと離した。


離す前に、一度だけ力を込めた。


セドリックの手の温度が、指先に残った。


「お身体を無理なさらないでください」


立ち上がりながら、ミレーユは念を押した。


セドリックの顔色が悪いことが、ずっと気にかかっていた。この暑さは、心臓に後遺症のあるこの人にとって、良くないはずだった。


「お約束します」


セドリックが答えた。


ミレーユは書斎を出た。


旅の準備を始めなければならない。



馬車に乗る朝。


門の前で、セドリックが見送りに立っていた。


以前と同じ構図だった。簡素な上着に、穏やかな佇まい。風が栗色の髪を揺らしている。


ミレーユは馬車の前で足を止めた。


セドリックが口を開いた。


「一つだけ」


「はい」


「もしよろしければ──王都からお戻りになった時、お名前でお呼びしてもいいですか。ブランシャール嬢ではなく」


ミレーユの心臓が跳ねた。


頬に熱が上がるのを感じた。


答えが、喉まで来ていた。けれど、今ここで返すには、この問いは重すぎた。


「……お返事は、戻ってからでもよろしいですか」


声が少しだけ上ずった。


セドリックの耳が赤くなった。


「もちろんです。お気をつけて」


ミレーユは一礼して馬車に乗り込んだ。


扉が閉まった。


馬車が動き出した。


窓の外で、セドリックの姿が遠ざかっていく。


ミレーユは膝の上で、自分の手を握った。


セドリックの手の温度が、まだ消えていなかった。



王都。枢密院の会議室。


円卓を囲む顧問官たちの間で、議論が交わされていた。


枢密顧問官の一人が、書類を掲げた。


「ブランシャール令嬢が辺境公爵の代理として近隣領主と契約を結んでいる。これは公爵家の越権行為ではないか」


ギヨームが発言した。声は低く、落ち着いていた。


「娘は辺境公爵の私的な依頼で孤児院の運営を支援しているにすぎません。契約は辺境公爵の名義であり、ブランシャール家の公的な行為ではございません」


別の顧問官が口を挟んだ。


年配の、白い顎鬚を蓄えた男だった。


「ブランシャール閣下。お言葉ですが──王太子の元婚約者が、王太子の兄の元にいる。政治的な意味を読み取らない者はいませんぞ」


議場に沈黙が落ちた。


ギヨームの表情は動かなかった。


けれど、顎鬚の顧問官の指摘は、この場の全員が頷ける論理だった。婚約破棄された公爵令嬢が、破棄した王太子の双子の兄のもとにいる。その構図が意味するところを、政治に関わる者が見過ごすはずがない。


もう一人の顧問官が口を開いた。


「そもそも、この問題の根因は何だ。王太子領の物流崩壊だ。それが東部全域に波及し、辺境が独自に動かざるを得なくなった。ブランシャール令嬢の行動は、王太子の失態の帰結にすぎん」


場の空気が、わずかに動いた。


「王太子の統治能力に関する再評価を、正式に議題として検討すべきではないか」


その発言が、円卓に波紋を広げた。


ギヨームは黙っていた。


自分から追撃する必要はなかった。事実が勝手に語っている。


婚約破棄。返却。物流崩壊。辺境への波及。


全てが一本の線で繋がっている。


その線の始点にいるのは、この議場にいない一人の王太子だった。


会議は閉じられた。


王太子の統治能力に関する再評価が、次回の正式な議題として決定された。


ギヨームは議場を出た。


廊下を歩きながら、娘が馬車に乗った頃だろうかと考えた。


王都まで十日。


長い旅だ。


ギヨームは歩きながら、書簡の文面を頭の中で組み立て始めていた。


娘が着く前に、できることはやっておく。


それが父の、もう一つの仕事だった。

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