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(後)人はパンのみにて生くるにあらず





 愛はタイミングよって得るチャンスを左右される。もちろん、愛に限ったことじゃない。

 タイミングによって人の心も動く。

 タイミングによって人は幸せにも不遇にもなる。



 時間は動く。そして、世界も。



 世界は動いている。凄惨せいさんな事件にくだらない醜聞スキャンダル反吐へどが出るような汚職に不祥事。そのどれもが人が介在している。ううん、すべて人によるもの。

 人間の力は、すごい。人はなんでもできる。人を殺すことも、尊厳を踏みにじることも、肩に手をおくことも、抱きしめることも愛することも。

 世界を壊すこと、世界を創ること。真実を葬ること、真実を手にすること。

 オムライスを作ること。オムライスを食べないこと。オムライスを見ないこと。嫌うこと。



 なんでも。

 気持ちを伝えること。愛を奪うこと。

 タイミングを掴んだなら。

 望むなら、総て。






 ああ。目の前にはやたらと凄みを増した精悍な顔つきの男性がひとり。

 ファスナーを上げたダウンジャケットが、やけに息苦しく感じる。冷たい風が、火照った頬と短くした髪の耳下を抜けていって、心地よい、だなんて、今は感じている場合ではない。

 なんてことだろう。



「さささ佐久間さん、なぜ、ここに……」


「Everything depends on you――――、こんなセリフを聞いておいて、後を追いかけずにいられると思うか」


「いや、そんな……」


 思うか、と言われましても。

 睨むような形相で、どんどんこちらに近づいてこられる。

 彼のコートとマフラーが乱れている。



「まあ、追いついて聞こえたのは“くそったれ”だったがな」



 言葉もない。

 いや、でも、わたしには予定があるのに有無を言わせず連れ出したのはあちらだし、責任を感じて追いかけてきてくれたのだろうか?


 ……お店でモヤモヤしたことを思い出してしまったではないの。気を持たせるようなこと、しないでほしいのに。だからなおさら今から、この気持ちを発散しようと思っているのに。



「……よく見つけられたのね。わたしだって結構早く歩いたつもりだったのに」


「あのあと、すぐ店を出て追いかけた。おまえがスニーカーはいてるってこと頭から抜けてたよ。あまりに速いから、焦った」 


「……佐久間さんでも焦ることなんてあるのね」


「嫌味か。焦るに決まってる。今日を逃すと月曜まで二日間、おまえに会えない」



 …………なにかしら、その、恋人へ向けるようなセリフは。



「……追いかけてまでするような話なんてないわ」


「おまえにはないかもしれないが、俺にはある」



 ああ、どうしよう。なんだか、負けそうだ。

 このままでは押し切られてしまいそう。

 気を持たせるようなことを、言わないで。そんなに真剣な目で、見つめないで。



 彼の向こう側から吹いてきた風が、街路樹から落ちた葉っぱを拾ってわたしの足元へ連れてきた。白いスニーカーに、パッションカラーのスキニージーンズ。ディープブルーのダウンジャケット。真っ赤なルビーのピアス。耳下の軽い髪の毛。それらを少しずつ揺らして、また、新しい風を連れてくる。



「……月曜日じゃダメなの。わたしは、これから予定があるから」


「……誰かに会うのか」



 ちがう。誰にも会わない。そんな予定じゃない。

 わたしはどうして、こんなにも短時間で気持ちが揺らいでしまうんだろう。

 この現状を打破したいって、思ったばかりだったのに。

 何かが動こうとしている。そんな現実リアルを目にしたら、とたんに怖くなる。



 負けたくない、押し切られたくなんてない。

 相手をきっ、と睨んでみた。



「――――人と会う予定があるの。だから話があるなら、月曜日に聞くわ」


「だったら、悪いがそれはキャンセルしてくれ」


「なっ、はぁ……!? キャンセル? Why do you say such a thing! いくらなんでも、あなたって傲慢だわ! いったい何の権利があって――――」


「高坂、話を聞いてくれ! いい加減、落ち着いていられない。――――好きな女を目の前にして、なりふり構っていられなくなった」


「…………え……?」



 乱れたコートとマフラーのまま、大股で急に距離をつめられた。



「I can't help but love you. 俺は君を愛さずにいられない」




 な、なんだろう、これ。空耳?






“髪の毛の色も、目の色も、わたしたちとちがって、うすくて変だね”


 日本の中学にあがって、一年生のはじめに言われた言葉は、衝撃的だった。

 両親の都合で、中学にあがるまでは、わたしはカナダと日本を行ったり来たりしていた。

 カナダにいたときは、両親が先住民族のひとたちと触れ合う機会が多くて、わたしも彼らとたくさん会って話した。独特の顔だちをしたひとたちに、不思議な感動を覚えた。

 通っていた小学校が、先住民のひとたちのコミュニティと隣接していた関係もあって、すごくフラットにいえば“相互理解”の教育に力を入れていた。

 あちらでは、わたしの容姿は先住民のひと達とも、現地のみんなともちがっていたけれど、何か言われたことなんてなかった。でもそれは、もしかして特異なことだったんじゃないかと否が応にも気づかされることになった。

 

 大学に入って、やっと窮屈な思いから逃れられたけれど、社会に出たら中学のときと同じことが起こった。女子中学生みたい、とそういう周囲に呆れることができるくらいには、わたしも大人になっていたけれど。

 できることは、やってみた。髪を黒く染めたり、OLらしい服装をしてみたりだとか、そういう外見の調整を。けれども人間というものは、一度認識してしまったことを改めるのには困難を伴うらしい。わたしに対する一部の同性からの風当たりは、弱まることはなかった。


 わたしは、見た目や出自で人を判断するような、そんなレイシズムに付き合うつもりはない。周りがどう思おうと、個性というものは世界に容認されている。いいえ、そんな生ぬるいものではない、もっと不可侵で絶対的なものなはず。

 自我、言い換えれば個性を獲得した歴史こそが近代社会におけるOf(  第) primary(  一) importance(義 )だったんだから。


 わたしに対するいわゆる“世間の目”は、ときに無秩序で好奇に満ちていた。

 それをすごく嫌悪したけれど、だから余計にそうしようと思った。

 高尚でなくったって、自己の存亡と発展を賭けたくらいに泥臭くったって、泥ごと嵐で巻き上げてやればいいって。



 長く伸ばしていた髪をバッサリ切った。ベリーショートっていわれるくらいにまで。

 無理やり黒く染めていた髪を、染めるのをやめた。

 真っ赤なルビーのピアスをつけて、フォーマルなスカートやパンプスも脱ぎ捨てた。

 ルーズなTシャツにパッションカラーのスキニージーンズ、大好きな真っ白のスニーカーで颯爽と街を歩いた。


 わたしのあまりの変貌ぶりに、会社の同じフロアのひとたちは唖然としていた。わたしに対して嫌がらせをしていた一部のひとたちからは嫌がらせを受けなくなった。

 ほぼ何事にも動じない部長の態度は、以前となにも変わらず。醜態をみせてしまった同僚にも認めてもらえた。嵐の効果はものすごいものだった。

 

 I got it!



 舞いあがっていて、だからなにも知るはずはなかった。

 部長と同僚が、わたしが起こした嵐に巻き込まれながら、わたしの急激な変化による軋轢あつれきが生まれないように、オフィスのひとたちへフォローをしてくれていたこと。

 同僚が、一部の社員たちにわたしへの嫌がらせをやめるよう釘を刺していてくれたこと。

 なにも知らなかった。

 わたしのなかの嵐が去って、オフィスのひとたちからその事実を聞いて、ようやく気づいた。

 同僚(佐久間さん)への想いに。自分の臆病さに。タイミングを逸していたことに。


 動く時間。動く世界。

 そのなかにありながら、わたしの個性は日常に停滞を強いられ、憂慮の温床となってしまった。

 わたしの個性、わたしの世界。わたしの、真実は――――――







「高坂」


 同僚のコートもマフラーも、風が吹くに任せて乱れている。手を伸ばせば腕が掴まれる距離にまで、わたしたちは近づいている。

 ほんとうに精悍な顔立ちをしている。

 ――――佐久間さん、ああ、ダメだ。心臓に悪い。



「高坂。聞いているか。もう一度言うが、俺は」



 ――――だ、だめだ! ボーっとしていてはいけない。このままでは、押し切られる!



「さ、佐久間さん! コートとマフラー、直したら!? さっきから、風で飛びそうよ!」



 必死でそう言ったら、初めて気がついた顔をして、同僚はコートとマフラーを整えて、小さくため息をついた。



「……勝手に追いかけてきて、話を聞いてくれだなんて、悪かった。まさかおまえがあんなこと言うとは思っていなくて、気が動転した」


「わ、わたしは悪いことなんてしていないわ。だいたい、食事に行こうって言い出したのはあなたのほうなんだから」


「……そのとおりだよ。ごめん」



 ご、ごめん……? そ、空耳?

 佐久間さん、こんなことを言う人だったかしら……?

 ポカンとしてしまうと、同僚は不満げに眉をしかめた。 



「そんな唖然とした顔するなよ」


「しないってほうが、どうかしてるわ……」


「だから、なりふり構っていられなくなったって言っただろ。こんな時間から会う相手なんて、男以外ないと思ったから」



 深々とため息と吐いて、アスファルトに目を落としていたかと思えば、ゆっくりと顔をあげて、彼はじっとわたしを見つめた。



「は!? 男?」


「高坂は少しまえから変わっただろ。その……、見た目が。驚いた」



 コクリと、喉を鳴らしてしまう。

 耳も頬も熱い。

“驚いた”って言葉が、こんなに嬉しいなんて。



「あんまり驚いてないのかと……。ううん、きっとびっくりはしただろうなとは思っていたのよ。ただ、そのことについて佐久間さんから感想を聞いたことはなかったから……」


「驚いたんだよ。ひとりでやれるところまではやってみたいって言ってただろ。高坂は本当に実行してきた」



 さっきから、彼はずっとわたしの目をみている。オムライスのお店でしたときの、右目をすがめる癖をするのではなく、両目をしっかり開いて、わたしをみている。



「だから、おまえにそうさせる理由が男にあるんじゃないかと考えたんだよ」


「……それで、“男”? そんなふうに考えていたなんて、それこそ驚きだわ……」


「高坂に関しては冷静になれない。時間がかかったけど、ようやく気づいた」



 風が同僚の向こうから吹いてきて、足元の落ち葉がくるりと踊った。


“ようやく気づいた”


 今度は、わたしの後ろから風がきて、同僚の足元まで落ち葉がくるくると回っていった。   

 



「佐久間さん……」


「うん?」


「もしかして、ここ最近ずっと不機嫌な様子だったのは、その誤解が原因だったの?」



 そう尋ねると、彼はバツが悪いような顔になった。



「言っておくが、それだけじゃないぞ。おまえは全然気づいてないだろうが」


「……ひょっとして、オムライスの話? 確かに、オムライス近代論をあなたには散々したわ。馬鹿馬鹿しいと思っていたでしょうけれど。でも、自覚したのは、ついさっきで、そんなに不快な思いをさせていたなんて――――」


「――――違う。まあ確かに、おまえのオムライスにかける情熱にはたまについていけなくなるけどな」



 このひとに寄りかかっていた自覚をさっきお店でしたばかりだから、胸にグサグサと突き刺さるものがある。

 


「わたしにとっては、トマトソースのオムライスは、世界であり真実であり、すべてだから、度を越していたのかもしれないわ……」


「知ってる。それに俺は、疲れたことはあるがバカにした覚えはない。おまえの思い違いだ。だから、そのことじゃない」



 うなだれていたら、強い語調で否定された。



「わたしは思い違いしていたの?」


「……俺の態度にも責任の一端はあったと思うがな……。高坂は発想が飛躍するだろう。高坂が言うところのオムライス論は、高坂の思い込みの強さがなせることでもあるだろうからな」


「思い込み……」


「高坂に当たってる自覚はあった。高坂が変わってからは特に。高坂が自由にしてるように思えて、八つ当たりだよ。くだらねえよな……。ただのプライドだよ」


「プライド?」


「自分からバラしてるんじゃ、格好つかねえけどな。一応勉強してたんだ。英語を」



 ――――英語!?



「でも佐久間さん、業務で英語使うでしょう?」


「文書はだいたい型が決まってるし、会話で使う英語とはまた違うだろ。高坂が時々使う単語は、悔しいが勉強しないと俺にはわからなかったんだよ」

 

「そうだったの……。なんというか、衝撃よ……」



 目の前のひとは、苦笑を滲ませた。



「正直、参った。俺が高坂の言うフレーズを理解してるってことに、おまえはまったく気がつく素振りがないし」


「…………」


「わからなかっただろ?」


「ええ……」


 

 彼がそんな努力をしていたなんて。わたしが変わろうとしたのは、あくまで自分のためだったから。



「それは、わたしのために?」


「いや。悪いけど、それは自分のためだ。高坂を振り向かせるにはいきなり正攻法じゃダメだと思ったんだ。時間をかけても意識してもらえればって。けど、肝心の本人には一向に伝わらなかった。いま白状してるあたり、察してくれ」



 はにかんだように、照れたように、彼は片目を細めて少し笑った。

 そんな表情は初めて見た。

 彼は目元を赤らめて、口を開きかけて少し逡巡したようだった。

 驚きは、徐々に徐々にわたしを襲った。

 このひとは、誰なんだろうか。




「もう一回言うぞ。俺は君を愛さずにいられない。それで君が、俺の想いに応えてくれれば嬉しい。だからさっきの――――、店を出るまえに言った“Everything depends on you”の意味を聞かせてほしい」



 

 理解が追いつかない。

 本当にいったい、このひとは誰なんだろう。



「あの……」


「うん」


「わからないことが、ひとつ……」


「ああ、なんだ?」


「“君”って、わたしのこと?」


「――――」



 あれ、何かおかしなことを聞いたかしら……? 佐久間さんは絶句している。



「ああ、いや、そうだよな……」


 わたしを見てなんともいえない表情になった彼は、横に視線をそらして咳払いをした。



「辞書に載ってる和訳って格式ばってるのがあるだろ? 告白するのに使えそうなフレーズを調べてると、“君に魅了されずにはいられない”とか、二人称がだいたい“君”になってるんだよ。……暗記するほど頭に刷り込んでたら、自然にそう言ってた」


「暗記……」



 あの佐久間さんが、家で辞書とにらめっこしていたのかと思うと、ああ、なんだかこそばゆい。

 どうしよう、とても嬉しいのに、どうしようもなく、悔しい。

 どうしてこの人は、わたしの思考の根っこを引き抜いて、こうも易々と目の前に立っているんだろう。



「高坂、ほかには何かあるか。ないのなら、俺の質問に答えてくれ」


「……佐久間さんがやると、簡単にみえる」


「簡単? 俺がこうしてる状況がって意味か?」


「ええ、そうよ」


「簡単にみえるのか、これが」


「みえるわ。人がやってることはなんだって……。わたしを追いかけて、それでその、自分の気持ちを伝えるだなんて、わたしには、同じことは……」


 鬱屈した現状を打破したくて、蔦みたいにわたしを縛ってしまった感情の根元を引き抜いてしまいたかった。

 そうもっと、愛に素直になりたかったの。



「――――じゃあ、俺に勇気を与えてくれたのは、高坂自身だ。ずっとタイミングを見計らって踏み込めないでいたのは俺だよ」


「勇気?」


「おまえは変わるって宣言しただろ。そしたら本当に変わった」



 あのときは、変革の嵐が吹き荒れていたから。



「佐久間さんは、わたしのことなんか関係なく、いつでもハッキリ自分の意見や気持ちを言っていたじゃない」


「いつもじゃない。誰にだって例外はあるだろ? 今だってそうだ」


「……っ、じゃあ、今が終われば、もうこの先ずっとなにも言ってくれないってこと!?」



 あっ!? 

 しまった! わたしは今なにを言ったのかしら!? 

 思わず口に両手をあてたけど、時すでに遅し。


 瞠目どうもくしていた彼が、表情を和らげた。

 とても嬉しそうに、破顔した。

 

 やめて、ほんとうにもう、心臓に悪いから。

 佐久間さんって、意外性の大嵐を背負っているようなひとだわ。




「それは、君の名前を呼ぶ権利をこれから先も俺に与えてくれるって意味か? 俺は高坂を手に入れたい。高坂を抱きたい。おまえがトマトソースのオムライスを食べてる姿をずっと隣で見ていたい」


「オ、オムライス近代論をバカにしてたじゃないっ……」



 いつの間にか“おまえ”に戻ってるし。

 このままでは負けてしまう。こんな破壊的クラッシャーな発言を聞かされて、自分を支える下地となるはずの経験が、こんなときには先行してくれない。



「おまえは発想が飛躍して、突っ走りすぎなんだ」


「あなたがこのまま押し切るなんて、わたしはそんなの悔しいわっ」


「押し切る?」


「このままあなたがあなたの想いを貫けば、わたしが押し切られると思ってる」


「なんでもいいから、おまえが俺の思いに応えてくれたら嬉しい。それとも、気持ちを伝えるのはおまえが先のほうがよかったのか?」


「そんなの今さら言ってどうなるの。わたしだってこの半年、悩んできたんだから。だから、もっと自分の気持ちに早く気づいていれば、もっと早くあなたのシグナルを感知していればって」



 半年前の、梅雨の半ばの雨が嵐のように降っていたあの日、わたしがオムライス近代論を彼に切々と訴えていたあの日。

 わたしがすでに、彼に心を許していたって自覚していれば。彼の素振りにだって気づけたんじゃないだろうか。そしたら思いを告げることを、きっと躊躇わなかったはずだった。

 経験が強力な味方となって、自分らしく颯爽と、理想のかたちで、そうできていた。

 髪を切って容姿を変えて、嵐のただなかにいたのに。呆気なく嵐は去ってしまった。

 厄介な思いの芽が育って、そうして自分が弱気になるだなんて、想像もしていなかった。



「こうなった以上、結果は同じだったんじゃないのか?」


「ちがうわ! 甘いわ、そんなの、タイミングを逃せば手に入れられるものだって消えてしまうのよ。気持ちが一緒ならいつ告げても結果が同じだったなんて、イリュージョンよ!」


「……手品かよ」



 つぶやいた佐久間さんが、ふと横に視線をそらせた。彼は、ちょっとぎょっとしたように身じろぎした。

 考えなくてもここは往来で、わたしたちは随分言い合っていたようだ。若干、注目を浴びている。駅へ急ぐサラリーマンは迷惑そうによけるし、酔っ払いが「若者よお~」などとわけのわからないことを言いながら冷やかして通って、ものすごく気まずくなった。

 高坂、とわたしの名前を呼びながら、佐久間さんはわたしの腕をつかんで歩道の脇へずれた。

 近かった距離はさらに近づいて、彼の息づかいと、がっしりとした手の感触にドキリとする。



「――――わたしの落ち度だわ。……悔しい」


 わたしがこだわっている態度に、彼はゆっくりとわたしの腕を離した。離れてしまったぬくもりが、少しさびしい。

 彼はわたしの目を覗き込んだ。



「言わせてもらうなら。おまえが思うそんな失態は、これからいくらでも挽回できる。というか、だ。俺と付き合わずして、その悔しさにどう挑むつもりだ」



 わたしは息を整えて、彼の目を睨んだ。



「あなたって傲慢だわ」


「おまえはとことん強情で偏屈だ」


「弱みにつけ込んでいる気がする……」


「好きな女を手に入れるためなら、大なり小なり策は弄するだろ。まあ、仕事でちょっとフォローしたり、英語を勉強したりだとか、こんなのは策のうちにも入らねえがな」


「手に入れるって、なんというか、露骨よ」


「男なら誰でもそう思う」


「わたしはあなたの所有物?」


「所有……。あのな、おまえのほうが露骨だぞ。確かにそうしたいって思う本心はある。だからって、すべてがそうなわけじゃない」


「だったら、オムライス論を容認するってこと?」


「正直、バカバカしいとは思うが、あれをねじ伏せるのは一生かかっても無理だ」



 なんということだろう。  

 アスファルトを吹き上げる風が、わたしの耳下の短い髪の毛を、目の前のひとの前髪をゆらす。

 落ち葉をどこかへさらう。




「……悔しい……」


「まだ言うのか」


「このままじゃ、佐久間さんの思い通りになってしまうわ……」



 寒いせいだけじゃない。図らずも鼻の奥がツンとしてしまう。

 とたんに、同僚が困った表情になる。



「そこは涙ぐむところなのかよ」


「泣いてないわ」


「どう見ても泣きそうだ」


「おかしいわ」


「なにが」


「泣くだなんて。好きなものを目の前にしてるのに……」


「おまえだって、ひとをもの扱いじゃねえか」


「あなたをもの扱いだなんて」


 いくら好きでもスニーカーじゃないんだから、と目元をぬぐう。


 

「――――高坂」


「なにかしら」


「抱きしめていいか」



 ゲホッ、ゴホッ、ゲホッと、さっき息を整えたばかりでむせてしまった。



「は、は……? 今、ここで?」


「タイミングを逃せば、手に入れられるものも消えてしまうんだろ?」



 いえ、往来だったのに気がついてぎょっとしていたのではなかったの?



「あなたって、無茶苦茶だと思うわ」


「支離滅裂なのは、わかってるさ。だから教えてほしい。タイミングを得る方法を。おまえを失わない方法を。……正直、おまえに泣かれるのは堪える」



 ああ、決まらねえなぁ――――と、同僚はガシガシと頭をかいた。

 わたしはまだ目元に残る涙を拭って聞いた。



「格好がつかないということ?」


「もう何回でも言ってやるぞ。好きな女のまえでは格好つけたい。一生、デミグラスのオムライスが食えなくてもいい」



 ヤケ気味になって、目元を赤くして、まっすぐに見つめてくれるそのひとみに、“重なった”と。

 なんだろう。とても――――こそばゆい。



「……じゃあ、佐久間さん。足を広げて、両手を広げてくれる?」


「……こうか?」

 

「……佐久間さん、その格好、間抜けだわ……」



 わたしに言われたとおりの格好をとった彼は、マフラーを巻き直して両足を大きく広げてしっかり構えているのに、どうしてか笑えるくらい不格好だ。

 照れて不満げに、それでもその態勢でい続けてくれる彼に。



「高坂、笑うな」



 なんて悔しい。けれど。

 タイミングが、わたしを素直にしてくれるなら。

 あなたとわたしのタイミングは、重なったみたいだ。

 だから、わたしがあなたの胸に飛び込んであげる。

 だって望むなら、すべて叶うから。




侑子ゆきこって呼んで」






 ある人にとっては、福音ふくいんであることが、ある人にとっては悲劇になることもある。

 真実はひとによって様々に姿を変える。

 白いスニーカーに、トマトソースのオムライス。垂れ下がる白熱電球と、くたびれた座布団のあるお店。毎週金曜日のプレート。

 たとえばオムライスにかかったデミグラスソースは、じつはデミグラスという名のトマトソースかもしれない。


 ――――真実は誰にもみえない。




 世界はレイシズムと憂慮に満ちていて、凄惨な事件は後を絶たない。そんな世界にありながらわたしの日常は、これからも停滞と憂慮を繰り返していくんだろう。



 

 愛情か、経験か。

 ひとを好きになることの真実は、どちらがより重きものなんだろう。

 鶏が先か、卵が先か。

 わたしの世界の真実は、いったい何からはじまっているのだろう。

 わたしの個性は、ときに日常に停滞を余儀なくされる。

 それは近代社会からつづく矛盾。社会が孕む波乱の種。究極アルティメット()二者択一オルターナティブ、二律背反、解放と隷属。自由と束縛。



 わたしの世界の真実は。

 オムライスか、愛か。

 

 でも、この問題は――――、



“人はパンオムライスのみにて生くるにあらず”



 今は足元に、おいておこう。

 なによりも先んじて、あなたがいるから。

 わたしの世界は愛にあふれることもある。

 そう信じるのも、悪くない、きっと。




















「……それで、予定ってなんなんだ」


「カラオケよ。ひとりカラオケ。駅の近くに専用のお店ができて、いますごく人気で予約がとりにくいの。時間に遅れると、自動的にキャンセルされちゃうの。だから急いでいたのよ」


「…………カラオケ、そうか、カラオケだったのか……」


「佐久間さん、足元がふらついているけど、どうかした?」








おしまい

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