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僕の壁  作者: 吉江 一樹
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第1章 3話

 ある日の事だった、予備校での授業が終わり、僕は教科書を何時もの黒いリュックに仕舞い込み、家へ帰ろうとしていた処だった。外は何となく怪しい雲行きなので、傘を持たずに家を出た僕は、素早く出て行こうと思っていた。そこへ宮部が声を掛けてきたのだった。

「おい、健二、これから映画でも見に行かねえか?映画館の入場券2枚持てるんだ」

「えっ、でも、雲行きも怪しいし・・・」僕は嫌だとは言えないでいた。

「地下鉄で行けば直ぐだろう。傘なんて今はコンビニで500円で売ってるよ」

 宮部はそういうと振り向きざまに言った。

「さ、行こうぜ」

 僕は宮部に付いて行くしかなかった。そして自分もよく行く映画館に連れていかれて、訳の分からない横文字の映画を見せられ、2時間近くを潰したが、僕はその時、人に見せられる映画程、つまらない物はないという事を初めて知ったのだった。一方映画を観て興奮気味だった宮部を何とか振り切り、一人で家へ帰ろうと、地下街を出て電車の駅へ向かう時、やはり雨が降ってきた。その時、今朝、家の出がけにテレビから聞こえていた「通り雨」という言葉を思い出し、僕は通り雨だろうと思い、地下の入り口で少し待つことにした。

 宮部の誘いを断れなかった自分を悔やみながら空を見上げていると、背後から突然少し驚いた様な若い女の子の声がしたのだった。

「健二君、健二君じゃないの」

  振り向くとそこに同じ予備校に通っている美幸が立っていた。彼女は同じ高校の卒業生でもあり、そう、僕の憧れの「美」でもあったのだった。

「いやね、雨なんて」そう言いながら、彼女は僕の横に立つと、空を見上げた。

「あっ、ああ、そうだね、美幸」僕は何となく横に立った、彼女を見つめ言った。

 僕らは何も言わずに空を見上げていたが、そろそろ僕は時間が気になって来た。日も暮れかけている。「あまり帰る時間が遅いと、流石に、母にも心配をかける」。そんな事を考えていると、唐突に美幸が言った。

「何処かで、雨が止むまで時間でも潰したいわね。そう、ホテルなんていいかもしれない」

「えっ・・・」僕は言葉が出なかった。その言葉の意味は十分に理解できたのだ。

「どう?私と」いたずらっぽくそう言った彼女の表情は、普段の美幸の顔ではなかった。

「・・・・・」僕は何も言えなかったのだった。すると少し間を開けて彼女が言った。

「えっ、あなたまだ経験ないの?」

「ひょっとして、あれなの?」

「じゃあ、いいわ。遠慮しておく」彼女は立て続けに捲し立てる様に僕に言った。

 そう言われたが、僕は恥ずかしい思いよりも、驚きでいっぱいだった。他に立っている人も居たのである。その人達に聞こえていたかどうかは知らないが、彼女がそういう事を平然と人前で言う「女の子」だとは思えなかったのだった。僕はその時18だった。「まだ知らない」なのか、「もう、知っている」なのか、判断しかねたが、僕は彼女の横に立っていられずに、降り続けている、雨の街へ駆け出し、走って電車の駅へ向かった。その時の僕の思いは、知らない事の恥ずかしさではなく、人前でそういう汚らしくも厭らしい事を平然と言う女と一緒に立って居ると言う恥ずかしさだった。あの時の美幸の訳の分からない傲った様な表情は、僕の胸に占められていた「美」への憧れを脆くも崩れさせる事になったのだった。

 

そんな中途半端な浪人生活を送っていた僕の成績が伸びるはずもなく。ついに模擬試験での東大文学部の合格ランクは「D」へと落ちた。つまり合格可能性はないという事だった。僕は私立大の経済学部への志望変更を半分決意しかかっていた頃だった。宮部との楽しい学生生活を夢見るようになって居た頃だった。夏休みに一回り、大人に、というより男らしくなった兄が東京から帰って来た。僕はその、兄の成長ぶりに圧倒されそうになっていた。その兄が突然、しかし静かに言ったのだった。

「健二、一番新しい模試の成績表を見せてみろ」

 そう健一に言われた以上、僕は、一番新しい模試の成績表を、健一に見せるしかなかった。それまで、父にすら見せていなかったのであった。しかし、その成績表を見た兄の顔色が変わり、兄は僕を恫喝した。

「なんだ、この成績は!お前今まで何やってたんだ‼」僕にとって、この一言は父のそれよりも応えた。

  僕はそれから残りの時間を全て、勉学に費やした。宮部のその危ない誘いにも乗らず、美幸のその危ない色目も無視して、僕はただ勉学に励んだ。毎日夜10時に、部屋のドアをノックする音が聞こえる時、僕は机に向かっていた。そんな僕の机の横に、コーヒーを置き、母は言った。

「調子はどうなんだい?頑張りなさいよ」


 庭の土が濡れていた。夏の終わりの雨上がりの爽やかな風の中に秋を感じた。秋は駆け足で過ぎて白く美しい雪が降り出した。


 僕は東大文学部を受けたが、結局落ちた。そして私立大学の文学部に合格した。ついでに言っておくと宮部も同じ私立の経済に合格した。

 するとそれまで口を閉ざしていた父が部屋に入って来るなり闇雲に僕に言った。

「お前を私立の大学へ行かせる金はないぞ」

 父は鋭い視線を僕に投げつけた。

「えっ・・・・」僕は父の顔を見つめた。

「言った通りだ。お前を私立の大学へ行かせる金も予備校に行かせる金もない」

 僕は正直、ホッとしてしまった。

「分かった。就職するよ」

 なだれたままそう言った僕に、父が怒鳴りつけたのだった。

「予備校いかなきゃ勉強できないか?」

 驚いて父を見上げると、吐き捨てるように父が言った。

「贅沢言わなきゃ飯くらい食わしてやる、もう一年、家で勉強してみろ」そう言って、父は部屋を出て行った。

 結局、僕は、もう一年の浪人生活に入った。時折、日が暮れ掛けてから近くのコンビニへ買い物に出かけるくらいで、ほとんど家から離れることもなく、テレビも見ずに、新聞すらまともに読まずに、家族以外はほとんど誰にも会わずにその一年、 一意専心に受験に取り組んだ。そして何とか東大文学部に合格した。


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