2話目 乖離情報
その日の深夜、岩田は一人で再びあの交差点に立っていた。
昼間の凶暴な熱気をアスファルトの底に溜め込んだ街は、不気味なほど静まり返っている。時折通り過ぎる車のヘッドライトが岩田の影を長く伸ばすが、彼は気にする様子もなく、横断歩道の中央付近を見つめていた。
測量車の点群データが弾き出した、絶対座標。
直径10センチの、光すら反射しないデータ上の『虚空』の位置だ。
何時間もデータを見ていた岩田は一直線に虚空の元まで近寄った。
岩田はゆっくりとしゃがみ込み、分かりきったように右手のひとさし指をその空間へ突き入れた。
――消えた。
痛みも、温度も、空気の抵抗すらない。指の第二関節から先が、この宇宙から完全に「欠落」した。脳がひどく混乱し、指先のデータが取得できないという致命的なエラーを全身の神経網に発信する。完全に情報を失った指は普段いかに繊細にデータを集める触覚であるかを脳が改めて理解する。
岩田は怖くなり恐怖のあまり指を引き抜いた。すると再び、夏の生ぬるい夜気の感触が指先に戻ってくる。
データは正しかった。
湿気が岩田の額に汗を作りながら、岩田は思った。この世界には穴が空いている。そして、そのバグを直視してしまった岩田の脳は、もうこの10センチの空間に「アスファルトという都合の良いパッチ」を当てる処理を放棄してしまったのだ。
翌日の昼下がり。
岩田は「現場の再確認だ」と理由をつけ、後輩の山本を伴って再び同じ交差点にやってきた。
相変わらず、全てが頭がおかしくなりそうな猛暑だった。陽炎が揺れる中、岩田は昨夜「虚空」を確かめた座標を指差した。
「山本。ここを、触ってみてくれ」
「え? ここですか?」
山本は怪訝そうな顔をしながらも、素直にしゃがみ込み、岩田が指差した空間——直径10センチのバグの中心——に向かって手を伸ばした。
岩田は息を止めた。山本の指が、あの底なしの虚無に飲み込まれる瞬間を待った。
「あつっ! ……ちょっと課長、何なんですか。ただの焼けたアスファルトじゃないですか」
山本は手のひらをさすりながら、汗だくの顔を上げた。
岩田は目を見開いた。山本の指先は、岩田の目には『虚空の手前』でピタリと止まり、まるで見えないアスファルトに押し返された。あたかも当たり前に問題なさげに。
「違う、もっと奥だ。そこに穴があるはずだ。押し込んでみろ!」
「いや、奥って……ガッツリ地面ですよ? これ以上押したら突き指しますって」
山本は困惑して地面を叩きながら笑った。岩田は耐えきれず、山本の横にしゃがみ込むと、自らの右手をその座標に突き入れた。
スッ、と岩田の手首から先が、再び『無』へと沈み込む。冷や汗が全身から噴き出した。
「見ろ、山本! 入るじゃないか! ここには何もない、データか示した通りなんだよ!」
岩田は虚空に手を沈めたまま、血走った目で後輩を振り返った。
しかし、山本の反応は、岩田が期待したような「恐怖」や「驚愕」ではなかった。
山本は、地面に手を押し付けたまま必死に叫ぶ上司を、ひどく悲しそうな、そして怯えたような目で見つめ返していた。
「課長……」
山本は、岩田の肩にそっと手を置いた。
「……もう、会社に戻りましょう。最近、根詰めすぎですよ。熱中症で幻覚でも見てるんです。根詰めておかしくなったって会社は切り捨てるだけですよ?第一、顔色、真っ青ですよ」
その瞬間、岩田はすべてを理解した。
山本の脳内では、強固な「人間のためのパッチ(予測的符号化)」が完璧に作動しているのだ。山本が見ている世界では、岩田は『ただアスファルトの表面に手を強く押し付けて、わめいているだけの可哀想な中年男性』にしか見えていない。
岩田がデータという真実として捉えてしまったからこそ、彼一人のパッチだけが剥がれ落ちてしまった。
健常なパッチで守られている彼らに、この世界のバグを見せることは永遠にできない。彼らは、作り物の温かい世界で笑い合う、無力で幸せな赤ん坊なのだ。
「……そうか。そうだな、俺が疲れてるだけだ」
岩田は虚空から手を引き抜き、力なく立ち上が
「すみません、俺が運転しますから。涼しい車内で少し休んでください」
気遣う山本から渡されたコーヒーは酷く記号に見えた。山本から発せられる声も今はただの「意味を持たない音声データ」のように鼓膜を上滑りしていく。
岩田は、自分の足元を見つめた。
今踏みしめているこの大地の感触も、本当は存在しない。この世界は、ただの薄っぺらな幻覚だ。
俺はもう、誰ともこの現実を共有できない恐怖を感じた。
ジリジリと照りつける太陽の下、岩田は底知れぬ圧倒的な孤独の中へと、ゆっくりと沈んでいった。
この日を境に、岩田の目に映る世界は完全に変質した。
出社途中、すれ違う人々の笑顔も、コンクリートの建物の質感も、すべてが解像度の粗い「圧縮データ」に見えた。人間の脳は、膨大な情報の処理負荷を減らすために、過去の経験から「ここは平らな道だ」「これは安全な食べ物だ」と常に予測を立て、使い回しの映像を見せている。認知科学でいう「予測的符号化」だ。だから喜ぶのだ。いつもこの時間に出社する人々を。
あの10センチの虚空に触れた岩田の脳だけが、その見え透いた予測機能に致命的なエラーを起こしていた。
「……気持ち悪い」
岩田は、自分の靴底から伝わる平坦なアスファルトの感触に吐き気を覚えた。脳が勝手に補完しているだけの、嘘の反発力だ。本当はあの虚空のように、世界の底は抜けているのかもしれないのに。
真実に触れるには、この狂った脳の最適化を、物理的に剥がし落とさなければならない。
必死に日常を思い出し一昨日の自分を演じ切る。
週末、岩田は一人で山へ向かった。
しかし、彼が歩いたのはかつて愛した整備された登山道ではない。人間が安全に歩けるように均質化された道を外れ、誰も足を踏み入れたことのない急斜面の藪の中へと突き進んだ。
予測不可能な足場の崩れ。予期せぬ枝の反発。
岩場に顔をぶつけ唇から血を出す。鋭い茨が岩田の腕や頬を切り裂き、赤い血が滲む。痛い。だが、その強烈な痛覚という「予測不可能なノイズ」こそが、岩田にとってはたまらなく心地よかった。
「そうだ……これが圧縮されていない、世界の手触りだ」
泥にまみれ、息を切らしながら岩田は笑った。痛みが脳のパッチを突き破り、世界を鮮明な生データとして脳髄に叩き込んでくる。
月曜日、岩田は無断欠勤をした。
彼は洗面所の鏡の前で、医療用の白いテープを取り出すと、自らの左目を完全に塞ぐようにバツ印に貼り付けた。
「あなた、その目……どうしたの? 会社は?」
社宅の狭い洗面所まで様子を見に来た妻が、息を呑んで立ち尽くした。
「結膜炎だ。光が入ると」
岩田は抑揚のない声で嘘をつき、妻の顔を見つめた。
人間が世界を三次元で把握できるのは、両目から入るわずかな視差の情報を、脳が瞬時に計算して「奥行き(Z軸)」というパッチを当てているからだ。岩田はそれを強引に放棄した。
片目を塞いだ瞬間、見慣れた妻の心配そうな顔も、背景の壁紙も、すべてが距離感を失った薄っぺらなテクスチャへと成り下がった。
これでいい。無駄な補完機能をまた一つ、アンインストールできた。
そして、決定的な断絶の夜が訪れる。
深夜二時。
社宅の冷たい鉄扉の奥、静まり返った暗いキッチンで、異音が響いていた。
ゴリッ、シャクッ、という、ひどく無機質で暴力的な咀嚼音だ。
トイレに起きてきた妻が、キッチンの入り口で硬直していた。
常夜灯の薄暗い光の中、岩田がシンクの前に立っていた。彼の手には、泥のついた生のジャガイモと、太い泥ネギが握られている。
岩田は、皮も剥かず、火も通さず、泥ごと生のネギに無表情でむさぼりついていた。
「まこちゃん……? 何を、してるの……?」
妻の声が極限の恐怖で震えていた。
「料理」とは、食材を人間にとって都合の良い形に加工し、安全な「意味」を与えるための欺瞞だ。岩田はそれを拒絶した。物質の持つ本当のデータを、そのまま取り込まなければならない。
生の玉ねぎとネギの強烈な辛味成分が口腔内の粘膜を焼き、強烈な吐き気と痛みが岩田の脳を激しく揺さぶる。
岩田はゆっくりと振り返った。
左目を塞ぐ白いテープ。泥だらけの顔。口の周りには土がこびりついている。
「……食えないくらい辛いネギも、そのまま愛せないから……人間は世界を均質化するんだ」
口からネギの破片をこぼしながら、岩田は静かに言った。
妻には、その言葉の意味が全く理解できなかった。彼女の目に映っているのは、もはや愛した夫ではなく、完全に理性を失い、泥まみれで生野菜をかじる正気の沙汰ではない狂人だった。
妻の喉の奥から、引き攣った悲鳴が漏れる。
岩田は、見開いた右目で妻のその「哀れみと恐怖」の表情を見つめ返した。
ああ、やはり山本と同じだ。彼女の脳にも、強固なパッチが当たっている。俺の放つ低次元の音声言語では、もうこの世界の誰にも届かないのだ。
岩田は手からボトリと食材を落とすと、食卓の上にあったボールペンとチラシの裏紙を引き寄せた。
人間の言葉はもういらない。この『世界の欠落』を記述し、バグを埋め合わせるためには、あの虚空と同じ次元の全く新しい言語が必要だった。
「14 61 72 61……座標の異常回転……特異点の補間……」
岩田はブツブツと呟きながら、チラシの裏に16進数と狂気の入り混じった数式を、凄まじい速度で書き殴り始めた。
妻が泣き叫びながら彼にすがりついても、岩田の耳にはもう、人間の発するノイズはこの場で起こった現象に過ぎなかった。




