3 シェフはオトコでオンナです
落とされたグラスは私達によってしっかりと磨かれた大理石の床の上で割れていた。
(…あぁ、そうだった…)
"喉が渇いた"といって、私が手渡したその飲み物を私に、ぶっかける。これが彼女たちの最近流行りの嫌がらせ。『誤ってグラスを落とした』それならまだ仕方ないと片付けられるのだが、制服に豪快にかかったワインの赤いしみが"これはわざとである"と物語っていた。
周りの貴族たちも私を見てクスクスと笑いあっている。まったく何がそんなに楽しいんだか…パーティーの度にこのような嫌がらせが続いている私にとって、彼女たちの存在は仕事を増やす迷惑の塊である。
「…大丈夫でございますか、お嬢様。ガラスは大変滑りやすいものですのでお気をつけ下さい」
イライラと怒りが込み上げるがそれを沈め、没落令嬢魂でどうにか偽りの笑顔を、顔に張り付ける。
(没落令嬢だって負けないわよ…!)
彼女たちの狙いは私が泣いたり、怒ったりと感情を露にさせることである。それを見て楽しみたいのだろうけれど
こんな分かりきっている煽りにわざわざ付き合ってやる義理もないのでいつも通りにこにこ微笑み返す。私はここ最近彼女たちのおかげでお馴染みになったワインの染みつきの前掛けを取り、割れたガラスの破片を集める。
その余裕ような姿が不満だったのか令嬢たちは悔しそうにぎりぎりと歯をくいしばっている。
「…ふんっ、そこの使用人すぐに片付けておきなさいよ?あなたには関係ないけれど、もうすぐオーディン王子の演奏会が行われるのだから……!」
「あなたは端で大人しくしていればいいわ!」
おーほっほっほと彼女たちはわざとらしく笑うとその場を離れていった。最後の捨て台詞があからさまに悪役すぎるんですがご令嬢たちよ……。
(第一王子、ねぇ…)
彼女たちが獣のように目をギラつかせて狙っている王子とは我が国の税金無駄づかいスティーブ国王の息子、オーディン王子のことである。彼は正妻の第一王妃との子供だ。
王様には側室が二人いるが、一人は病で既に亡くなっている。その妃との間には確か第二王子がいたが、彼も数年前に持病で既に亡くなっていたような……。それにもう一人の側室との間には娘が二人いるが二人とも王命で隣国へ嫁いでいるらしい。
まぁ、父のかわりに家のお手伝いに忙しかった私は王族についての噂など詳しくは知らないのだが。
そのため、我が国ただ一人の王子であるオーディンが受け継ぐであろう権力、財力を手に入れるため彼に気に入られようと令嬢たちへ日々努力を重ねているらしい。そんな分かりやすいごますりをするなんて彼女たちもご苦労なことだ。
しかし、"第一王子・オーディン・ヴェルダー"という名前はクレアにとってその名前は聞きたくないものである。…………なぜなら、私はこの王子のせいであの令嬢たちに意地悪をされているといっても過言でないからだ。
「クレア、大丈夫?」
その声に振り向くと、短い赤毛を2つにしばったクレアと同じ年頃の少女が箒を片手に駆け寄ってきた。
「あぁ、アンナ。大丈夫!毎回のことだから気にしないで」
「私、そのガラス片付けるの手伝うわね!」
「うん、ありがとう」
自分の身を案じてくれるアンナの優しさにさっきまでふつふつと募った怒りはどこか彼方へ飛んでいってしまった。我ながら単純な性格をしていると思う。
アンナは私がここに働き始めてできた最初の友人だ。彼女の家は商業を営んでいて、兄妹が10人と大家族であるため長女のアンナが出稼ぎに来ているらしい。アンナは私が元々貴族令嬢だと知っていても変わらず接してくれた数少ない友人で、今ではすっかり親友同士である。
私は床に散らばったガラスを手で直接触れないように集めながら
3ヶ月に一度恒例のワインぶっかけ&グラス割り騒動が終わり、胸を撫で下ろした。
― ― ― ― ― ― ―
二人で掃除したおかげで床に散らばったガラスはたった数分で片付け終わった。お礼を伝え、別の仕事があるアンナと別れてクレアは割れたグラスを片付けるため一人厨房へ向かった。
「あら、また割れたのぉ~?もぉ!グラスが何個あってもたりないわね!」
厨房の国王お抱えの三ツ星シェフ長のジェームズさんが顔をひょいとこちらに覗かせた。
「すみません、ジェームズさん。度々グラスを割ってしまって…」
「もぉう、あなたのせいじゃないでしょう!あのおバカな令嬢たちなんて気にしないのよ!」
ドンと背中を叩かれ、背中が痛む。労ってくれるのはありがたいのだが、もう少し優しくしてほしいものだ。彼、いや彼女の口調と神木のように太くがっしりとした手足はアンバランスで何回会話を交えても慣れない。そこが彼、いや彼女の個性であるし、見ていて楽しいのだけれど。
「あ、そうそう。クレアちゃん、これルイス様に届けてくれない?スフィアちゃん風邪引いちゃって休みなのよぉ」
「…ルイス様、ですか?」
スフィアというのは王様の別邸で働いてるメイド長の名である。
彼女は隣国に嫁いでいる上の王女の専属メイドだったというのもあり、使用人たちからの信頼は厚い。
しかしシェフの口から出た"ルイス"という名前は聞いたことがなかった。シェフが料理を託す時、わざわざ相手のファーストネームで伝えるということは私達一般の使用人の間でもよく知られている人か、身分の高い人である時だけだ。私が知らないだけなのか、はたまた新しく参入した高位の貴族の人なのか。
「……ああぁっ!!」
びっくりするほど大きな声を出して目と口をあくびしたカバのように大きく開いたままジェームズさんは固まってしまった。
「……すみません、私知らなくて。ルイス様ってどなたですか?もしかして大事なお客様でしょうか?」
「いや、なんでもないわ。ごめんなさい?おほほほ…」
「…………?」
汗ガンガンで目はキョロキョロと落ち着きがなく、いつもの何倍もの早口でまくしたてるシェフの様子は明らかにおかしい。
しかし、先ほどの意地悪令嬢よりも勢いのある高笑いに気圧されてしまい、私はそのまま謎の"ルイス様"について聞くことはできなかった。