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紡は地面に手をかざして二本の細長い樹木を出現させた。
それらの樹木は徐々に捻れ、細く、湾曲を描くようにして姿形を変えていく。
一方は麻弦が張られた長弓に。
もう一方は槍のような形状の矢に。
弓の全長は紡の身長を優位に超える二百二十一㎝で、上長下短の構造をしている。この形状はクランクヘイトの日本に伝わる和弓をモデルにして紡が創り上げたものだが、矢は完全なオリジナルだ。
矢の先端は捻れたままになっており、この状態で射出しても貫通力がなく、軌道もずれてしまい使い物にならない。
矢を放つ瞬間に羨望術を行使することで殺傷能力の高い強力な一撃へと姿を変えるのだ。
矢を弦にかける。
薔薇看守によって磔にされ、全身に大怪我を負っている彼は既に満身創痍。この状態なら何処を狙っても命を摘むのには充分だ。
ただ、やはり顔だけは傷付けたくなかった。
どれだけ憎悪に身を委ねても、兄の顔が霞むことは決してない。
「……風穴、開けてやるから」
渡橋架の体がぼやける。
それならそれで確実に当たる部位を狙えばいい。
心臓だ。
心臓なら、仮に外しても体の何処かには当たる。
唇だけを動かして兄の幻影に別れを告げ、紡は手に込めた力を抜いた。
「螺旋暴君」
放たれた瞬間。
矢は高音を響かせて急速に回転し始め、風を纏って驚異的な速度で飛んでいった。
しかし。
「!?」
矢の向かう先に、紡は不思議な光景を見た。
もはや指一本動かすことすら難しいであろう渡橋架の体から、モクモクと赤い湯気が立ち上っていたのだ。その様は、視力が低下している紡でも分かるくらいに異様だった。
だがそんなこととは無関係に、紡の放った矢は標的に向かって突き進んでいく。
渡橋架の心臓目がけて風を切り、空気の層をも突き破って、最後にはガラスを割ったような奇怪な音を立てて直撃した。
これでもう、二度と兄と同じ顔を見ることはない。
そう思った紡は弓矢を大地に帰し、何の感情もなく兄の顔を持つ赤の他人の亡骸に歩みを寄せた。
相変わらず謎の湯気が立ち上っていて不気味だ。
それでも怯むことなく近付いていく。
亡骸をこの目で確かめることで、初めて全てが終わる気がした。
「……え?」
湯気に接近した紡が感じたのは、強烈なまでの冷気。カルカソンヌ近辺の空気に触れているかのような冷たさだった。
足を止め、改めて憎き仇の姿を観察する。
驚くべきことに、渡橋架の胸には風穴どころか傷一つ付いていなかった。
代わりに発見したのは地面に散乱していた矢の破片。粉々に砕かれていて、どの破片も薄い紅色に変色している。
何がどうなったらこんな結果になるのか。
自分が放ったものなのにまるで理解が追いつかない。
「……、」
視界が歪むのは、夢話庭園を作り出したことによるリスクの影響だろうか。
それとも、急な温度変化によって体に異常が起きているのだろうか。
どちらも、違う。
紡の視界を歪ませているものは、涙という。
それも、理由の分からない涙だ。
涙を流す場合、そこには何かしらの理由がある。
悔しくて涙を流すこともある。
悲しくて涙を流すこともある。
嬉しくて涙を流すこともある。
感動して涙を流すこともある。
紡が流していた涙は、それらとは別種のもの。
こういうときは涙を流すものだと予め決められているかのように、紡の瞳は溢れんばかりの涙で潤んでいた。
これは本当に涙なのかと手の甲で拭おうとした、正にそのとき。
「!!」
突然、今まで以上の赤い湯気が渡橋架の全身から噴出した。
そのせいなのか、渡橋架の体の自由を奪っていた薔薇看守が音を立てて崩れ落ちる。
解放された渡橋架の体はフワリと空中に浮かび上がり、今までとは全く違う、何処かで聞いたような声を発した。
《久し振りだね、もう一人の私》
懐かしくも恐ろしくもあるその声は、紡に四年前の悪夢を一瞬で思い出させた。




