ローラ・ジニエステと琥珀色の酒
「それで、あんたは俺が誰なのか知らないくせにここまで連れ回してくれたわけだ。」
もうニューヨークでも日が沈んでいた。月の光は、普通の店より高い場所にあるこのバーではいささか眩しい。
「おい、なんとか言えよ、名前とかさ。こっちはキョースケって言ってるだろ、日本語わかっても名前は発音できないとか言わせないぞ。」
女はしきりに今日、もう何度目かもわからないタバコをふかしながら琥珀色の酒を厚ぼったいグラスで飲んでいる。彼女はただただ静かだった。
「Kyosuke?きょすけね、きょぉすけ。か。うん。発音できるよ、どっちがいい?キョウスケェと、京介と。君が選んで。
そういえばそうだ、君のこと知らないよ私。ただ連れてきただけ。でも嫌ってわけじゃないでしょ?」
「まぁ、そうだけど。で、あんたの名前は?イントネーションくらい勝手にしてくれ。」
「不思議そうだね、私がどんな人間かとか。怖いの?
ローラ。ローラだよ、ローラ・ジニエステ。
さっきのはMr.Gone、ゴーンさん。私に惚れてる。
あと、巷じゃ有名なジャズピアニストのくせに無法者だよ、あいつがやってる麻薬売買の味をしめて私は転売、やりくりするから気に食われてないの。」
「ふぅん、あっそ。」
女は今は、タバコより葉巻を吸っていた。そんなに太いやつじゃない、シガリロの細いやつだ。京介はこんな場所へ来ることが初めてだったが、今は落ち着ける場所があるとにただ感謝した。
京介はジニエステという苗字や、さっき路地裏で出会ったゴーンという男に見覚えがあるような気がした。だから、今目の前にいる女といるのが記憶を取り戻すことの近道なのだと思う。
間を置いて、二つの息継ぎくらいタバコを吸って吐くと女は話を続けた。
「でもあんた、よく私がさっきボヘーム吸ってたって分かったね?吸うの?見たとこハイスクーラー(高校生)くらいなんでしょ?」
京介はずっとうつむいていた。どうしても女を凝視したまま話せるような心境になかった。
「あんたは合法なのかよ?酒もタバコも。」
「女に年を聞く気?日本人はそんなに節操がないの?」
「聞いてるわけじゃない、顔はものすごく若く見える。まるでロリータだ、ナボコフの小説のヒロインでもおかしくない。
それとタバコの臭いくらい街を歩いてりゃ分かる。あと親父が海外産の葉っぱ好きだったんだ、あと中学の頃俺に惚れた女教師があんたと同じの吸ってたんだよ。ボヘーム。だから嫌だけど匂い覚えてる。」
ータバコ吸うやつ、周りに多かったんだ。
京介はそこまで言えなかった。
「嬉しい。」
そうして、女はそれだけ言った。そして静かに笑った。
それだけでは京介にとってさみしいように思えたので、追い打ちをかける。
「嘘かとか聞かないのか?」
「いんや。ぼかぁーね、聞かないよ。本当にお子ちゃまだね、顔は老けてて苦労してそうなのに。
覚えといて、人はあんたがどういう人間かってのに興味は持つけど、何をしてきたかとかいう経験談は嫌うよ。どうだっていいんだ、過去なんて。聞いてくれるとしたら馬鹿で若い女の子くらいだ、巷で援助交際でもしてるような淫乱だけだよ。
ダメだね君は。馬鹿な女はいくらでも手玉にとれるけど、本当に綺麗な女のことは無知だね。
そう、ソーセキ・ナツメだって言うでしょ、小説を初めから読むようだから女はダメだって。筋ばっかり気にしてるから老けるって。あんた女々しい。
ほら。」
彼女は京介に、奪っていた携帯を返した。こんなメールばかり入っているのは、京介が弱虫だからだとでも言いたげだ。
少なくとも京介は、携帯を渡された。ローラという女の手の力加減からそう考えた。自分は甘いのだと。
女は酒をすすって、タバコを吸うを繰り返している。
「なあ、本当に俺はあんたとどっかで会ったことないか?」
「ないね、初対面だね。」
「姉妹がいるとかは?」
「妹ならいる。でもあんたが会ってるはずないよ、うちの妹死んだから。いや、もう死ぬんだ。
人を殺したんだ、今じゃ多分牢獄の中で、自分が死ぬのは今か?今か!?って待ってるよ。」
「それは災難でしたね。」
「敬語ってのはよく分かんないんだ私。」
二人は少し笑って、ほどなくして静まり返った。
ただ、会話の中で二人が店の落ち着いた雰囲気に流されるようなところはあったように思えるけど、今の笑い声の応酬はそういうところから解放されていた。
「ねえあんた、あたしと一緒にメキシコへ行ったりとかしない?まずはその、ゴーン君を殺してからさ。行きたいと思ってるんだ。
見たところあんたも疲れちゃった。クチだろ?それに記憶喪失、別に生きるとか死ぬとか気にしてない。
私もそろそろこの街に疲れてきたよ。」
「どうして殺さなきゃいけないんだよ?それに、そんなに殺したいんだったら恋して、どっか行っちゃえばいいだろ…
別に今のまま旅立っていいだろ。」
「若さの秘訣だよ。
恋して終わり?馬鹿ね、私そんなに惨めったらしい女じゃないわ。」
「あっそ、ずるい奴。俺があんたにすがる以外生きてくの無理だって知ってるんだろ。」
ローラは酒もタバコも終えた。
京介はとうとう自分がどうすればいいのか、ってことがいくら考えても分からなかった。というより、自分が何をしたくて生きていたのかが分からなかった。恐らく、目の前の女みたいにしたいことをしてこなかったんだろう。だから記憶を喪失した今になって、誰かについていくことしかできない。
自分は惨めったらしい男だったのだろう。
何も思い出せないのは、この状況のせいじゃなくて、思い出せないことしか持っていなかったからなのだ。
それを考える悔しさも相まって、目の前の女に従ってみることを決意した。
「そういえば、あなたの予想当たってるよ。実は私、日本にいたらこんなことできないお年頃。」
「ああ、やっぱり。」
それを聞いてますますローラのことが、京介は羨ましく思えた。




