藤実京介のニューヨーク生活
藤実京介は何が起こったのか覚えていなかったけれど、謎の少女に言われた通りやってきた。ニューヨークに。
かろうじて自分はニューヨークに来た、ということを彼は記憶の底から掘り起こした。
「寒ぃっ!」
自分の体温が一気に下がった、周りの木々に葉をまとったものは一つとしてなく、ところどころに雪の固まったものが見えた。
日本の春に合わせてきている服装で寒いのは当然である、彼の立っているニューヨークは真冬。
「それで、俺は…誰?」
ずぅーっと周りも見渡しても一体自分が誰なのか、どこから来たかわからない。彼は自問自答するように街中にしては自然の多い公園のような場所にいて、そこでチョロチョロ歩き回ったり独り言を言ったりしてみた。しかしいつまで経ってもなにも思い出せることはない。
今は朝だったので散歩をしていたり、ジョギングをしていたりする人々が彼を怪訝そうに横目で見ながら去っていく。
彼はここにいてもしょうがないと歩き始めた矢先、セントラルパークと書かれた看板を見つけた。
「よし!やっぱり俺はニューヨークにいるんだ。でもなんでだ?いや、もしかすると俺はここに住んでるとか…そうじゃなくて旅行者?」
京介は八方塞がりだった。眠る場所もわからなければ、服を着たいにもどこで手に入れればいいのかわからない。せめて誰か一緒にいる人間とか、いてくれればいいものなのだがそんな都合のいい人間はどこにも見当たらない。
彼は自分の持っていたバッグを漁ってみることにした。日本円の一万円と何かの原稿、ノートに筆記用具。
つまり自分はこれでなんとか生きるか、職を見つけて暮らしていかなければならないわけだが…財布を少し探してみると学生証が見つかった。
「ええと…なになに?2020年生まれなのか俺は。で、高校一年生だから今は2036年とかになるわけか。俺は冬休みの旅行中とか?
大正聖心高校海百合台キャンパス…大学みたいで変な名前。でも高校生で向こうの戸籍を持ってる、ってのは間違いないみたいだな。」
つまり帰らないとならない。帰りの航空便の切符なんてものはどこにも見当たらないのだから、どうして帰れるだろう。誰か知人がこっちに住んでいたりして、そこに泊まり、帰りの代金を工面してくれるとかなっていたのだろうか。
しかし見つけた携帯電話は完全に充電切れの状態だし、一体海外で繋がるのだろうか。充電機らしきものは見当たったのでとりあえず、充電しておくことにした。
ここで、一つ恐ろしい考えが彼の中に浮かび上がる。
「もしかしてダイナミック家出…?」
そうだったら恐ろしい、誰か知り合いが自分の捜索願とか出して見つけられるまで路頭に迷うことになるのだから。海外までとなると入国手続きがあったはずだから…すぐに見つけられて帰れるのだろうとも思ったが、どこを探してもパスポートが見つけられない。
「不法入国!?いや、落としたと信じたい!」
とりあえず彼は公園から出て金の両替をしたり、今夜泊まる場所を見つけたりしなければならない。知らない街で野宿なんてのはもってのほかだろう。
"Hey mister, where can I exchange my money? Hm... Yen to dollar."(「あの、お金の両替できるとこ知りませんかお兄さん?日本円からドルに。」)
彼は手当たり次第、町の通りへ出ると声をかけた。英語の知識はあった、自分はなかなか勉強をしてきた人間なのだと思う。それともこれだけポンポン出てくるとなると留学経験があったりするのだろうか?
しかし誰もそう親切に教えてくれたりしない。十人ほど声をかけたが足早に歩き去っていくだけだった、そろそろ自分のコミュニケーション能力に疑問が持ててくる。というより、確かに自分の学生服は海外で異様だった。
服装からしてダメだ、自分は誰かにものを聞けるような格好をしていない。
街の、いろいろな訛りが混じり合った喧騒の中で自分はひどく孤独に思えてくる。
いくらか話しかけてくる人間もあったが、それからは努めて目をそらしていた。明らかにホームレスのような身なりをした人間が、
「手数料とるけど宿紹介するよ?」
とか言ってくるからだ。
自分だって変な身なりをしていて人に拒まれるのだから、そういう声のかけ方を拒む自分は嫌に思えたけれど、やっぱり話に乗ってしまうのは間違いだなと思った。
安ものなのか、ゴミ箱から漁ってきたものなのか、中国料理のデリで食べられるものの匂いを漂わせる口臭が単純に嫌だったというのもある。
話しかけてきた人からは決まって生ゴミの臭いがした。
なんだか自分の中に街の中の汚いものがたくさん入ってきて、押しつぶされそうな気分になってくる。少し懐かしい気がした、自分の住んでいた街でもこんなことが、もしくはこれと同じ匂いのものがたくさんあったのかもしれない。
京介はそこからつかの間、身を引くために人通りの少ない路地のベンチで携帯電話を開くことにした。曇り空の下で、その画面の明かりはいささか眩しい。
「ええと…電源はつくな。やっぱり圏外か。」
彼は自分がいったい何者で、どういう風に生きてきたのか理解するために携帯を開いた。
「まずは電話帳…」
しかし彼は知り合いが少なかった、日本人の名前が五つほど書かれているくらいだ。両親の表記すら見当たらない。
次はメールボックスに期待を抱いて開いた。電話帳からは予想できないほど、大量の件数がそこには保存されていた。
ーうん!ありがとう京介君!大好きだよ!ほんと…
ー迷惑じゃないといいけど、あの、私…会ったこともない人だけどあなたのこと好きになっちゃいました。好きなんです。君はどうかな?
ー今度また美術館一緒に行こ!私行ったことなかったんだけど、それに変な場所だなって思ってたけど藤実君と一緒に行けてよかった!楽しかったよー。
そんなふうなメッセージが無数に入っている。
自分はなんて女たらしなんだ。これじゃあ自分がどういう人間か分からない。ああそうか、自分は記憶を失う前、何もかも偽って結果だけにこだわってきた人間なんだ。それで人の心を弄んでいる。そのしわ寄せが今、来ている。
どのメッセージからも自分の記憶にピンとくるものがない。
「俺ってなんでこんなクズだったんだ…」
京介はがっかりした。きっと、この中の誰一人として、連絡できたとしても助けになってくれる人はいない。どこを探しても自分の希望となってくれるような情報は、結局見つからなかった。
その時、忽然と京介の前に一人の女性が立った。
「Hey, what you hold'in? New type phone? Cool, where you got it? Let me see em."(「あんた何持ってんの?なにそれ新種の携帯?かっこいいなあ、ね、見せてよ。」)
携帯を持っていた左手が跳ね上げられて、携帯電話がオンになったまま宙を舞う。
京介の目線は携帯電話より、目の前にいる女性の方へ向いていた。
タバコ臭い、くわえ煙草をしてる。でも幼い顔だ、合法なのか。
髪はセミロング、真っ黒い。ところどころうねりが加わっている。
その顔に似合わない、チェーンのついた眼鏡をかけている。銀色だ。
白い三重のフリルがついた長くふっくらとしたスカート、白いパナマ帽に黒いジャケット、中のシャツは胸元がはだけている。それを隠すように垂れた、上品なヒョウ柄の小さいマフラー、煌びやかなビーズでできた太めのネックレス。どでかいロゴのバックルにつけられたベルト。それだけ見れば女優顔負けのオシャレさだ。
宮沢賢治の童話の、料理店とかで踊っていてもおかしくない淑女の像だ。もちろん彼女は人を食べる側。
「おいあんたなにしてんだ!やめろよ。」
咄嗟に京介の口から出てきたのは日本語だった。
「知ってるよ、返す、返すって。別にガラケー知らないわけじゃないんだ、でもあんた妙に深妙な面してたからさ。ほら、そういうことでしか人に声をかけられない私を許して?」
彼女からも日本語が返ってきた。
すぐに路地裏の入り口から黒づくめの集団が顔を出す。
"Hey! Found her, get it!"(「おい野郎ども見つけたぞ、奴だ!そこにいる!捕まえろ!」)
その変な女は取り上げた携帯電話をポケットの中に突っ込み、京介の腕を掴んで走り出した。
「あんた、私の後ろ走って!死にたくなきゃ!カバー、カバー。」
「俺は盾なのか!?」
女はどうしてか高らかに笑った、吸っていたタバコを路上に吐き出すと猛スピードで、京介を巻き込んで走っていく。すぐに二人は人ごみの中へ消えた。
人に迷惑をかけている。でも、女はずっと眩しいまでの笑顔で走っていた。




