第20話「倒れたヒロイン」
文化祭まで、あと三週間。
クラス全体が少しずつ慌ただしくなっていた。
放課後になれば教室のあちこちで作業が始まり、休日も準備の話題で持ちきりになる。
一年三組が出すことになったのは和風カフェ。
男子は内装担当。
女子は接客や装飾担当。
もちろん実行委員の前田敏弘と岡倉真優美は、その両方をまとめなければならなかった。
「岡倉さん、この備品リスト見てー!」
「はーい!」
「シフト表できた?」
「今やってる!」
「実行委員ー!」
「今行くー!」
教室を走り回る真優美。
その姿を見ながら敏弘は眉をひそめた。
(働きすぎだろ)
実行委員。
バイト。
勉強。
家事。
全部抱え込んでいる。
しかも本人は平気な顔をしている。
だが。
平気なはずがない。
「岡倉」
「ん?」
「座れ」
「え?」
「五分でいい」
真優美は苦笑する。
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃない」
即答だった。
周囲のクラスメイトが少し笑う。
「前田、お母さんみたい」
「確かに」
「過保護」
敏弘 「うるさい」
真優美は思わず吹き出した。
でも。
その直後。
視界が少し揺れた。
「……あれ」
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
しかし敏弘は見逃さなかった。
「岡倉」
「大丈夫」
「今ふらついただろ」
「気のせい」
「嘘つけ」
真優美は視線を逸らす。
図星だった。
その日の帰り道。
駅前。
「最近寝てるか」
敏弘が聞く。
「寝てる」
「何時間」
「五時間」
「少ない」
「普通だよ」
「普通じゃない」
即否定。
真優美は苦笑する。
「前田くん基準でしょ」
「七時間は寝る」
「健康優良児か」
思わず笑う。
しかし笑った瞬間。
胸の奥がズキッと痛んだ。
(あれ……)
小さな違和感。
でも無視した。
数日後。
文化祭二週間前。
作業はさらに忙しくなった。
真優美の負担も増える。
夜のバイト。
帰宅。
家事。
勉強。
睡眠不足。
そして学校。
完全に限界へ近づいていた。
しかし。
誰にも言わない。
言えない。
迷惑をかけたくなかった。
放課後。
教室。
装飾作業中。
真優美は脚立に乗っていた。
天井へ飾り付けをしている。
「もう少し右かな」
「そこそこ!」
下から声が飛ぶ。
真優美は笑いながら手を伸ばした。
その時。
視界が真っ白になる。
耳鳴り。
足元が消える感覚。
(あ……)
まずい。
そう思った瞬間。
体が傾いた。
「岡倉!!」
敏弘の声。
教室中が振り返る。
脚立が揺れる。
悲鳴。
真優美の体が落ちる。
しかし。
ドン。
強い衝撃。
誰かが受け止めた。
敏弘だった。
「前田くん……?」
ぼやける視界。
敏弘が真っ青な顔をしていた。
「バカかお前」
怒っている。
でも声が震えている。
「立てるか」
真優美は返事をしようとする。
しかし。
できない。
完全に力が抜ける。
「先生呼べ!!」
教室が騒然となった。
保健室。
白い天井。
真優美が目を覚ましたのは一時間後だった。
「……あれ」
「起きたか」
聞き慣れた声。
横を見る。
敏弘。
椅子に座っていた。
真優美は驚く。
「前田くん?」
「寝ろ」
「いや」
「寝ろ」
「二回言った」
敏弘はため息をつく。
「当たり前だ」
その顔は少し疲れていた。
保健の先生が入ってくる。
「岡倉さん」
「はい」
「過労と睡眠不足」
予想通りだった。
「今日は帰宅」
「でも」
「帰宅」
強制だった。
先生が出ていく。
沈黙。
真優美は恐る恐る言う。
「ごめん」
敏弘が即答する。
「謝るな」
まただった。
「でも心配かけたし」
「分かってるなら倒れる前に何とかしろ」
珍しく強い口調。
真優美は少し驚いた。
敏弘がここまで怒ることは少ない。
「そんなに怒らなくても」
「怒る」
即答。
「お前、自分のこと軽く考えすぎだ」
真優美は黙る。
敏弘は続ける。
「困ったら言えって言っただろ」
「……」
「なんで言わない」
真優美は俯く。
「だって」
「迷惑かけたくないから」
敏弘が目を閉じる。
「それだ」
「え?」
「お前、何でも一人で抱える」
「違う」
「違わない」
真優美は言葉を失う。
敏弘は立ち上がる。
そして。
今までで一番真剣な顔で言った。
「俺はそんなに頼りないか」
真優美の心臓が止まりそうになる。
「え……」
「困ってるの分かってた」
「でも言わないから待ってた」
「無理してるのも知ってた」
「それでも待ってた」
「なのに」
敏弘は拳を握る。
「倒れるまで何も言わない」
教室で見た時。
脚立から落ちた時。
本当に血の気が引いた。
その恐怖がまだ残っていた。
真優美は初めて気づく。
(この人……)
本気で心配してたんだ。
ただの優しさじゃない。
もっと深い感情。
沈黙。
そして。
真優美の目から涙がこぼれた。
「ごめん……」
「だから謝るな」
「でも……」
「泣くな」
「無理」
涙は止まらない。
敏弘は困った顔になる。
「なんで泣くんだよ」
「だって……」
「嬉しいから」
その言葉に。
敏弘が固まった。
真優美も気づく。
今、自分は何を言った?
顔が真っ赤になる。
保健室は静まり返る。
数秒。
いや。
数十秒。
誰も何も言えない。
やがて。
敏弘が小さく言った。
「そうか」
それだけ。
でも。
その耳も少し赤かった。
夕方。
敏弘は真優美を家まで送った。
アパートの前。
「ちゃんと寝ろ」
「はい」
「バイト減らせ」
「努力する」
「絶対だ」
「前田くん厳しい」
少し笑う。
でも。
以前とは違った。
二人の間に流れる空気。
距離。
言葉にならない感情。
それが確実に変わっていた。
そして真優美は部屋へ戻る前に振り返る。
「前田くん」
「ん?」
「ありがとう」
今度は謝罪じゃない。
感謝だった。
敏弘は少しだけ笑う。
「次は頼れ」
「うん」
その約束は。
二人にとって大きな意味を持つことになる。
文化祭まで残り二週間。
そしてその頃。
別の場所では。
前田敏弘に想いを寄せる女子生徒が。
静かに動き始めていた。
第21話へ続く




