第一話 なんとなく
あの子が現れたのは、蝉の声がうるさい、月並みな七月の午後だった。
夏目凛香は学校の裏手にある赤い自販機の前で、百円を二枚持て余していた。スポーツドリンクか、炭酸にするか。どっちでもよかった。どっちでもよかったから、かえって決めることができなかった
部活は帰宅部で、委員会も最低限の活動しかしていない。友達はいるけれど、親の方針だったり帰宅時間の都合で放課後遊ぶことはない。こうは言っているが、別に遊びたい訳ではない。そういう凛香にとって、誰にも急かされずに独りで飲み物を選ぶ時間は、割と悪いものではなかった。どうでもいい選択。だからこそ、のんびりすることができる。
「ねえねえ」
声がしたので振り返ると、知らない女の子がそこにいた。
「なんか、話しかけたくなっちゃった」
同い年だろうか。
見たことのない制服を着ている。どこの学校か見当がつかない。
長い髪が風にふわっとなびいている。
笑顔がやたらと明るい。明るさと同時に儚さも放っている。
私が吸血鬼だったら、身体はこの笑顔で消滅してしまうだろう。
私はしばらくこの子を見つめ、この子も私を見つめてきた。
「……誰?」
「灯。街灯の灯で、あかり」
自己紹介だけして、灯は満足げに、にこにこしていた。
話しかけた理由は何も言わなかった。
私はもう一度灯の顔を見て、それから自販機に向き直り、結局、炭酸を買った。
「話しかけた理由は?」
「んーなんとなく?」
なんとなくか……。
凛香は缶のプルタブを開けながら、その答えを頭の中で繰り返し、反芻した。
なんとなくで見知らぬ人に話しかけるのか、この子は。
「なんかあんた、不思議……つーか、失礼かもだけど変な子だね」
「そう?」と灯は笑った。否定はしなかった。
炭酸を一口飲んだ。少し気が抜けていて、なんだか物足りなかった。灯は、ずっと同じ位置に立っていた。帰る気はないようだ。
「学校、違うよね」
「うん、だけど近くだよ」
「じゃあ、なんでここに?」
「帰り道」
噓だ。おそらく、噓をついている。この近くに高校はないし、帰り道でこんなところに来る人は初めて見た。だが別に、それを詰める気はなかった。というか、灯の顔を見ていると、それ以上の聞く気がなくなっていた。ほんと、なんとなくっていう言葉が似合う顔をしている。
やっぱ、不思議な子だ。
でも、嫌いじゃなかった。
「ねえ、凛香」
「え……私名前教えたっけ?」
「あ……」
灯はパチリと瞬きをした。
「そうだ……何で知ってたんだろ?」
首を傾けて、本当に不思議そうにしていた。しばらくその顔を見ていた。そうするとやっぱり、追及しようとする気持ちは、どんどん薄れていった。なんとなく、このままでいい気がした。
「また来るの?」
「うん」と灯は即答した。「たぶんね」
たぶん、というなんとなく幼げな言葉の軽さが、私はなぜか気に入った。約束だとか義務だとか、そういうのではなく、単に自分が思ったから、事実だからそうする。そういうことを、あっさりと言える子だった。
蝉の声が、いつの間にか止んでいた。その分、自販機の獣が唸るような、ぶうんという音が響いていた。
炭酸はもうなくなりそうだった。暑い。
灯は手をひらひらと振って、来た時と同じようにふわっとどこかへ行った。
この頃、あと一か月で夏休みという希望を胸に、学校生活を送ってきたが、最近はそれが、灯と話せるということに代わってきている。
あの自販機で会うのを、楽しみにしている。
灯は面白おかしい話ばっかりする。ほんとにハチャメチャ。波乱万丈の擬人化みたいな感じの子。
放課後に立ち寄る、灯との場所は、どこかノスタルジックな雰囲気を放っている。
古い店には、白い字でタバコと書かれたところどころ破れたオーニングが、何十年もの間、日光を浴び色あせている。
そこから太陽の光が地面にかけて届いている。木漏れ日に似ていた。
店の入口の前には一本の電柱があって、その左横に赤い自販機、その左にベンチがある。
いつもそのベンチで、灯を待っている。もちろん、灯が待っている場合もある。
今日は、灯が待っていた。
「灯、早いね」
「今日は暇だったからねっ!」
「いつも暇でしょ~」
まず自販機でスポドリを買った。暑すぎる。
「あ~っついねっ!」
「そうだね。汗やばい」
スポドリが美味い。一滴一滴が、体に染みる。塩分が吸収されていく。
「灯、水筒の中何?」
「ん~?えーっとね。じゃあ、なんだと思う?」
まったく、見当がつかない。
灯って、今まで何を飲んでいたんだっけ。
あれ、そもそも何かを飲んでいるところを見たの、何気に初めてな気がする。
「水とか?」
「ちがうー」
「答えは何?」
灯は「教えなーい」と一文字ずつ抑揚をつけながら言った。
まあ、そこまで知りたいわけではない。別に水筒の中身なんてどうでもいいのだ。
「ねえ、灯」
「なに~?」
「夏燈星って知ってる?」
「なにそれ、なつびぼし……?知らないなあ」
「別名ブルースター433っていう小惑星」
夏燈星、別名ブルースター433。433日周期で地球にやって来る小惑星だ。
地球から目視することができ、その姿はブルースターの名に恥じないほど、綺麗なのだという。
「ブルースターって花の名前っしょ?」
「そう。確か……ルリトウワタだっけ」
「私に聞いても知らないよ~」と灯。確かに、そりゃ知らないだろう。
「で、その夏燈星が今、学校でめっちゃ話題になってんの」
「どんな感じに?」
「なんというか、都市伝説的な感じなんだけど」
「おお~!私都市伝説大好きだよ!」
「あ、多分灯が想像している怖い感じとかじゃないよ」
「えーそっかあ」
「まあ、幽霊関係ではあるよ」
怖くないが幽霊関係だ。怖いというか、とてもドラマチックな都市伝説。
「私も詳しくは知らないんだけど、夏燈星が地球に接近する日に、故人からメールがくるみたいな?」
「ふうん。そんなことあり得るのかね~」
「あんた都市伝説好きなんでしょ?こういうのってあり得るあり得ないじゃなくって、そういうのわかってるうえで空想として楽しむんじゃないの?」
「そーなのかな」
「そうだよ。たぶん」
灯は少し、口を曲げ悩んでいる様子だった。だけど、そんなことやっているのは一瞬で、すぐに顔色が変わった。
「じゃあ今度は私が話していい?」
「全然いいよ」
「じゃーね……。凛香ってさ、夢見る?」
「まあ、そりゃね。たまにだけど、見ないこととかあんまないでしょ」
「私さ。最近同じ夢ばっか見るんだよね~」
「へ~。どんな夢?」
「川の夢。ずうっと川の近くで立ってるの」
「それって怖い夢?」
「いーや?全然。てかなんかきれいなんだよね。でも起きると悲しい気持ちになってるの」
「なんで?」
「わからない」そういって灯は、笑った。続けて「なんとなく」と言った。もう「なんとなく」は灯の決まり文句のようなものだ。
「……そろそろ帰ろっか」
そう言って立ち上がった時、灯がベンチの端に置いてあった私のカバンを持ち上げて渡してくれた。その手が、指先に触れた。
冷たかった。
真夏でこんなにも暑いのに、と思った。思っただけで、別に何を言おうともしなかった。
「じゃあね」
「うん!ばいば~い」
私たちはそれぞれの方向に帰った。
────家に帰ってから、ふと、灯のことが頭に浮かんだ。
水筒の中身、結局教えてくれなかったなあ……。あれ、私そこまで中身知りたかったわけじゃなかったはずなのに。今、知りたがっている。
「まあ、明日聞けばいいか」
そう思ったとき、無意識的に明日も会えると思っていたことに気づいた。根拠はない。ただ単にそんな気がした。




