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常闇の王 サイラス  作者: 礎衣 織姫
第五章 深緑のアラバスタ

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エピソード VIII

 アレイスの血がついた包帯をベルトに結び付けたエルフらは、ケルベロスの前方に散らばり、注意を引き付けた。今回の作戦において最も危険な役目であるが、こればかりは己の技量と、カイルが分与した神の加護の効果を信じるしかない。

 右の首、中の首、左の首、それらはひとつの身体を共有しているが、意思は別だ。目標が定まっていれば息を合わせられるが、定まらなければ手足の神経は惑い、動きが止まる。

 狙い通り、注意が分散したケルベロスは標的を絞れず、足踏みをした。この隙に、アレイスと数名のエルフが腹の下に布陣を組む。アレイスを投げる者、失敗した時に態勢を立て直す者である。

 エルフの大男――マキナは、アレイスの左腕を掴んだ。術法によって羽根のように軽くなった身体を投げるのは照準が合わせにくく、かえって投げにくい。そこで聖剣を重りとして投げることにしたのだ。己を軸として回転し、遠心力を活用してアレイスを上方へ投げ飛ばす。心臓に当たらないとアレイスが判断すれば、もう一度だ。

 落ちて来たアレイスを数名のエルフが受け止め、態勢を立て直す。その間に、アレイスは改めてマキナに指示を出した。

「もう少し下だ」

「飛んだ先で調整できないか」

「無茶を言うな」

「分かった。もう少し下だな?」

 マキナは再びアレイスの左腕を掴み、回転して投げやった。その手に感じるのは、やはり聖剣の重さのみ。アレイスを投げている感覚は無きに等しく、思うほど面白い役ではなかったと頭の片隅で後悔するも、これは一族を守る戦いであるという原点に立ち返り、内心で己を叱咤した。

 エルフのために右腕を切り落とした男である。エルデが惹かれていようといまいと、敵意や嫉妬を向けていい相手ではない。

 そんな心持ちで投げたアレイスの行方をマキナが見守っていると、アレイスは宙で前転して帰って来た。

「下過ぎる。始めと今の中間を狙え」

「申し訳ない」

 アレイスは眉をひそめた。マキナが急に謙虚になったと感じたからだ。

「いや、名乗り出るだけあって筋はいい。もう一息だ」

「分かった。次こそは決める」

 とはいえ、ケルベロスは動きを鈍らせているだけで静止しているわけではない。どこに狙いを定めるか、思案しつつ前後左右に揺れている。よって先を読み取り、頃合いを見計らって投げる必要がある。腕力や命中率以前に、予測が大事だ。

 ちなみにアレイスが狙っているのは、骨がなく、皮、肉、筋肉ともに最も薄く、確実に心臓を貫ける場所である。自分の腕とはいえ、聖剣の力を借りるなら、常闇の王の力は極力抑えたいと考えているからだ。

 髪の色、目の色を取っても、今は光明の王として顕現する日の方が近い。なすすべもなく常闇の王となった昔とは違う。何もかもを諦めた、あの時とは違うのだ、と。

 マキナは「今度こそ」という思いでアレイスの腕を掴み、聖剣の重みを感じながらケルベロスの心臓目掛けて放り投げた。アレイスは風を切りつつ、眼前に迫る巨体の一点に神経を尖らせ、聖剣を構えて突き上げた。

 剣先が届く――と思われた次の瞬間、ケルベロスは身体を大きく揺らした。右の前足を振りかぶり、前方に分かれた匂いの根源をまとめて薙ぎ払おうとしたのだ。荒ぶる息から、定まらぬ標的への苛立ちが溢れている。

 囮のエルフらは一斉に距離を取ったが、間に合うか否か。その全方向に向かって、アレイスは聖剣を振った。すると軌跡をなぞるように光のカーテンが現れ、盾となってエルフらを守った。一方、ケルベロスは前足を強く弾かれ、衝撃によって全身の均衡を崩された。この動揺は後方両脚に多大なる負担をかける。よって、ケルベロスが転倒を回避するための後の行動は限られている。

「退避!」

 マキナが叫び、エルフらはクモの子を散らすように腹の下から撤退した。最中、ケルベロスは地響きを起こしながら腰を落とす。

 腹の下敷きになる未来から逃げおおせたマキナを、援護するため駆けつけたエルデが捕まえて怒鳴った。

「アレイスは!」

「すまん、逃げるだけで精一杯だった」

 絶望に固まった顔で、エルデはケルベロスの方に目をやった。城壁のように立ち上る土煙で視界は最悪だ。

「アレイス!」

 エルデは声の限りに名を呼び、中へ飛び込む覚悟を決めたが、その肩をカイルが掴んで引いた。

「ここは一旦、退(ひ)きましょう!」

「だが、アレイスが!」

「分かっています。でも大丈夫ですよ、多分」

「おまえ――!」

 この状況で心配じゃないのかとエルデは憤りかけたが、カイルの顔を見て鎮めた。眼差しは強く、頬に緊張を感じる。土煙の向こう側を確認したいのか、何かが現れることを恐れているのか、あるいは無事であることを祈っている――そんな表情だ。

 エルデは後ろ髪を引かれながらも、カイルの言葉に従って下がった。想定を上回る量の土埃が舞い上がり、当面は視界不良になるだろう。収まるまでは態勢を整え、作戦を練り直すほうが賢明だ。

 しかし、アレイスはこれを「吉」とした。見えないほうがいいこともある。

 アレイスが機を見計らうと、左腕から闇の蔓が伸びて聖剣を絡めとり、ケルベロスの心臓目掛けて走った。土煙を切り裂き、ケルベロスの固い体毛、分厚い皮膚、強靭な筋肉を貫く。本来はこれを、聖剣を握る拳がケルベロスの皮膚の下まで入った時にやる予定だったが、今なら誰に隠れてする必要もない。

 濛々と立ち込める土煙の中で、ケルベロスは咆哮を放ち、悶絶して大地を揺らした。土煙は落ち着くどころかますます立ち上り、周囲に広がっていく。エルフの小隊は何事かと困惑しつつも、聖域へ避難した。

 土煙の中は日を遮って薄暗い。が、そもそも物事を視力に頼らないケルベロスは、ようやく己の敵の匂いを感知し、呻きつつも獣の言葉で言った。

〝この蔓……貴様、常闇の王か……匂いが違う……何故だ〟

 アレイスはわずかに眉根を寄せた。

「光明の王に近いからだろう。それより、どんな理由があって地獄の門番が地表に出て来た」

〝……ふん、知れたこと……魔物蔓延る大地を地獄と言わず何と言う……この森を我がものにするは、必然〟

「残念だがそうはならん。聖剣でもって、この地は神の加護を得る。大人しく地獄の門に繋がれていろ」

〝……エルフに恩でもあるか〟

 アレイスはふっと笑った。

「ほんの少し、後悔がある。それだけだ」

〝後悔……だと?〟

「さあ、どうする。剣の先はお前の心臓に触れている。このまま死ぬか、地獄へ戻るか」

 ケルベロスは唸り、大きく息を吐いた。観念し、地獄へ戻る選択をしたのだ。弟オルトロスを討った男は、きっと己も討ち落とすだろう。ここらが潮時だ、と。

 アレイスはケルベロスの体内から聖剣を引き抜き、闇の蔓をしまった。

「土煙が覆っているうちに去るがいい」

 ケルベロスは同意し、地面にゆっくり沈んでいった。これより地の底の道を辿り、地獄へと帰るのだ。アレイスはその道中を脳内で再生した。ざらついた空気と雷鳴。片隅に落ちていた小石までよく覚えている。かつて両手に無数の鎖を握り、地獄へ送るべき者たちを率いて歩いた。血のように赤い空の下、炭のように黒い道をゆく亡者の列。等間隔にいる看守たちは、アレイスが差し掛かると深く頭を下げてやり過ごす。地獄においても常闇の王は畏怖すべき存在だった。

 門前に着くと入ることを拒む者が多数いたが、アレイスは鎖を強く引いて厳かに言った。

「これも神が定めた道だ」

 罪人は抵抗をやめ、頬に涙を伝わせた。諦めと後悔が波のように広がる。アレイスはそれを受け止め流しつつ、鎖を看守へ渡した。それから息を深く吸って吐き、山のように大きな門番の犬を見上げる。三つの頭を持つ犬は、それぞれ目を細めてアレイスを見たあと視線をそらせ、囚人が逃げ出さぬよう見張りを続けた。アレイスも踵を返し、元来た道を帰って行った。

 そうした日々を思い起こして、アレイスは皮肉気に笑った。

 地獄の門で言葉も交わさず、ただ顔を合わせるだけの間柄だったが、ある種の馴れ合いも生まれていたのだろう。エルフに害をなすなら討伐に躊躇はないと思っていたが、いざ心臓に聖剣を突きつけてみると、情が邪魔をした。ケルベロスがあの場所にいることを望む自分があることに気付いた。となれば、おそらく神もそれを望んでいるに違いないと。

 すべては、この日のためのやり取りだ。重く苦しい使命も、何気ない雑務も、偶然のように思える出逢いも、今日ここで剣を収めさせるための布石だったのだ。

 アレイスは、地に落ち着こうとする土煙の隙間に現れた青空を眺めた。神を想い、歩いて来た道のりを想う。歓びも哀しみも、出逢いも別れも、季節の移り変わりと同じだ。だが過去に愛した者たちは今も胸にある。それが己の全ての言動を司っているのだと。


 元凶を討伐し、誰一人欠けることなく無事帰ったと報告を受け、エルフらは歓喜に沸いた。無論、族長も胸をなでおろしたが、エルデの口から聞かされた経緯と報酬について、驚き、嘆き、憤り、深く悩み煩った。

「私になんの断りもなく、そのような約束を」

「申し訳ありません。ですが、アレイスは腕を切り落としたのです。我々のために。そこまでの犠牲を払わせて、希望のものを差し出さないというわけには」

「それはそうかもしれないが」

 族長は顎に手を当て、右往左往した。数千年生きているが、姿は二十歳前後と若く、美しい女だ。雪のように白い髪をひとつに編んで胸元に垂らしている。緑色の瞳は宝石のようだ。

 そんな彼女を、椅子に座している夫は目で追いつつ肩をすくめた。

「仕方ない。手放す時が来たんだ。君はもう、解放されるべきだよ」

 族長の夫である副族長もまた数千年を生きて来たエルフで、見た目も同等に若い。族長と釣り合うかと言われれば微妙だが、爽やかな印象の男前である。

 族長は足を止め、副族長を見つめた。

「私にとってこれがどんなものだか、お前が一番よく知っているはずじゃないか」

「知っているからさ。いつまで想い続けるつもりだい。僕は別に構わないけど、君は辛いだろう」

 族長は唇を噛んで腕を震わせ、首から下げた石膏を握りしめてうつむいた。

 二人の言動から、族長の想い人の形見だろうという想像はつく。そうでなくとも、森を閉じ込めたという雪花石膏は、この世で唯一無二の宝だ。価値という観点から見ても貴重である。しかしアレイスがそれを授与されるに相応しい行いをしたのは、誰の目にも明らかだ。よってエルフは望むものを与え、誠意を示さなければならない。

 族長もよく分かっているからこそ、今こうして苦しんでいるのだ。失いたくないものを手放す、その勇気を振り絞っているのである。

「族長」

 エルデが決断を促すように声をかけると、族長は息を吸い込み、顔を上げて目を閉じた。

「……分かった。二人を通せ」


 エルデの案内により、聖都からの使者は部屋へ通された。一人は金髪に青い眼のいかにも騎士という騎士で、もう一人はフードを目深に被り、失った右腕側を隠すようにマントを羽織っている。アレイスというのは十中八九、右側をマントで隠している方だろうと、族長はやや厳しい眼差しで片眉を上げた。そして何事か言葉を発しようとした時、アレイスの方から口を開いた。

「なんだお前たち、まだ生きていたのか」

「は……?」

 部屋の奥中央に座している族長と、向かって左側に座す副族長が同時に眉をしかめると、アレイスはフードを取って顔を見せた。

「覚えていないか、ナハト、オルド」

 名を呼ばれた族長ことナハトと副族長のオルドは、これ以上ないというほど目を見開き硬直した。亜麻色の髪と銀色の目は見たことのない様子だが、面影は脳裏に浮かぶ少年とぴったり重なり合う。

「――サ、サイラス」

 オルドが呟くと、ナハトは途端に瞳を潤ませ、勢いよく立ち上がり、アレイスに抱きついた。

「サイラス! お前こそ、生きていたのか!」

「おっと、まさか。あの時、私は確かに死んだ。ただ転生しただけだ」

 ナハトは顔を上げ、両手でアレイスの頬を優しく包んだ。

「この目の色、髪の色……光明の王になれたのか」

「いや、だが近くはある」

「そうか」

 ナハトはアレイスの顔をしみじみ眺めた後、首に下げている石膏を手に取った。

「そういえば、これが欲しいのだったな。元々お前のものだ。返してやろう」

「ああ、しかし、何故使わなかった。使っていれば、森もこんなに荒れなかっただろう」

 ナハトは瞼を落とし、石膏を握りしめた。

「……使えなかった。お前がくれた物だから」

「それは……男冥利に尽きるな。だが森をこのままにしておく気はない。同じことが起こらないという保証はないからな」

 ナハトは眉をひそめた。

「どうする気だ?」

「ここで得た聖剣を奉納する」

 ナハトはハッとしてアレイスの右肩を見やった。マントで隠れてはいるが、そこにはあるべきものがない。現金ではあるが、ナハトは今改めて払われた犠牲に胸を傷めた。

「聖剣は――お前の腕だろう。そんな大事なものを貰えない」

「いや、アラバスタと引き換えに貰ってくれ。この森には神の加護が必要だ。それに……」

「それに?」

「腕の一本ぐらい、くれてやってもいいと思ったから切り落としたのだ」

 意味深な言葉に、ナハトは揺れる瞳でアレイスを見つめた。

「どうして」

 アレイスはナハトを見つめ返した。遠い昔の記憶と違(たが)わない瞳だった。初めて逢った時も、別れの時も、同じ目をしていた――あの日のまま。だが決して戻れない。

「聞かないでくれ。もう過ぎたことだ」

 アレイスの哀しみを湛えた瞳に映る自分を見て、ナハトは唇を固く結び、溢れそうな涙を堪えた。

「あの時……常闇の王でなかったら、私が原始のエルフでなかったら、連れて行ってくれたのか」

 アレイスは素直にうなずいた。

「ああ、きっと」

 ナハトは涙を流し、アレイスの胸に顔をうずめた。

「それが聞けたなら、充分だ。私はもう、充分だ」


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