#107 佐保姫の泣血(朱華月の決別)
「アメリア!」
「どうなってるんだ!?」
突然激しく輝き出したアメリアの体。七色に輝くその体は、とても直視していられないほど酷く眩しい。そしてもちろんそんな彼女の変化にジュールとテスラは動揺した。
人工的な光じゃない。自然の中で見る虹の様な輝きであり、朗らかな太陽の日差しの様である。でもだからといって、この輝きが事態を好転させるものとも思えない。ジュールは光を放つアメリアの体を抱きしめながら背中を粟立てた。
そしてテスラもジュールと同様に尻込みする。確実にアメリアの胸を貫いた。それは即ち、彼女の死を意味するはずなのだ。当然自分の腕には彼女の胸を突いた感触がはっきりと残っている。それなのに何だ、この光は。理解出来ない現象にテスラの心は激しく揺れた。
ただそこで事態は急速に動き始める。まるで粒子が崩壊するように、アメリアの体が透き通り出したのだ。
「!」
ジュールは腕の中で消え始めたアメリアの体を、それまで以上に強く抱きしめる。嫌だ、消えないでくれ。彼は願うしかない。何故なら体が霞んでいくほどに、腕に伝わる質量までもが軽くなっていくのだ。このままではアメリアが消えてしまうぞ。ジュールは直感としてそう感じたからこそ、彼女を放すまいと強く抱きしめた。ただその時である。彼の後方で唐突に犬の鳴き声が聞こえた。
「ウォン!」
ジュールとテスラは反射的に振り返る。するとそこには真っ白な大型犬が一頭姿を現していた。
「あれは、リーゼ姫の愛犬じゃないか!?」
テスラが呟く。姫のところから脱走し、城中を捜索させられたのだ。その姿を見間違えるわけがない。でもどうして姫の愛犬が今ここに現れたんだ。それもこの【虚数世界】の城に。
理解し難い現象の連続にテスラは生唾を飲み込む。一体何が起きているって言うんだ。ただそんな動揺する彼を差し置き、リーゼ姫の愛犬は駆け足でアメリアの体に近づいた。
確か脱走したこの愛犬を城の門で掴まえたのはアメリアだった。テスラはそれを思い出す。この犬はアメリアに懐いているのか。いや、でもアメリアとこの犬の関係性はその時の一回きりのはずだ。特別な繋がりがあるとは思えない。だけど何だろう、この感じは。胸が張り裂けそうだ。そう思うテスラは表情を歪ませると、額からベタついた汗を垂れ流した。
ジュールは駆け寄って来る犬を見つめる。城の庭園で見掛けたリーゼ姫の愛犬だ。しかしその犬がこんな場所にどうして……。テスラと同様に彼もそう思う。でもそこで彼は思わずギョッとした。なんと姫の愛犬は、駆け寄るスピードを緩める事なく、そのまま彼に突進したのだ。そしてアメリアを抱きしめたジュールと姫の愛犬が衝突する。――とその瞬間、ジュールの頭の中に言葉が通り過ぎた。
『日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日と並んで支配すべき存在とした――』
一瞬目を閉じてしまったジュールだったが、聞こえた声にハッとして周囲を見渡す。でもそこに姫の愛犬はいない。ううん、それどころか交錯した衝撃すらないのだ。本当にあの犬は存在していたのか。でもそんな彼の頭の中に、再び声が流れ込んだ。
『大丈夫だよ。安心して。女神はまだ、歌うのを止めていないから』
「誰だ!」
ジュールは宛所なく叫ぶ。どこから呼び掛けられているのか分からない。それに話の内容もさっぱりだ。ただそこで彼はテスラと目が合った。
「お前が言ってるんじゃないよな、テスラ。でもお前はこれが何なのか知っているのか!」
「な、何を言ってるんだ君は? それより姫の愛犬は何処に行ったんだ。アメリアの体と重なって消えてしまったんだぞ!」
「アメリアと重なっただって!?」
ジュールはアメリアに視線を戻す。彼女の体は驚くほど透き通り、もう半分くらいしか見えていない。こんな状態のアメリアと重なった愛犬は何処に行ってしまったのか。いや、それどころじゃない。このままじゃ本当にアメリアが消えてしまうぞ。ジュールは極度の焦燥感に襲われ憤る。でもその時、彼の頭に声の続きが流れ込んだ。
『早く真の力である【威娑凪】に目覚めるんだ。そうすれば【誘道】は開ける。彼女は戻って来るよ』
「おい、お前は誰だ! お前は何を言ってるんだ!」
『彼女の命を救うにはこれしかないんだよ。それより君こそ、早く自分が【月読の胤裔】であると受け入れるべきだ。護貴神の使命は敵を撃つ事じゃない。女神を守る事だよ。今の君にはまだ力が足りないけど、君が【月読の奏】をその心で感じ取る時が来れば、きっと道は見えるはずさ』
アメリアの体から放たれていた輝きが急速に弱まって行く。ううん、そうじゃない。アメリアの体がほぼ消滅し掛かっているのだ。僅かな光の粒子となったアメリアの体はもうその姿を留めていない。それはまるで、謎の声の主に奪い去られていくかの様だった。
「待て、待ってくれ! アメリアをどうするつもりだ。アメリアを連れて行かないでくれ!」
ジュールが懸命に悲嘆する。ただそんな彼に最後の言葉が掛けられた。
『君はとうに月読の奏を感じるだけの試練を経験して来た。でもまだ君は真の覚醒にまでは至っていない。でもそれはね、本当の意味で威娑凪の力を手にする資格があるって事なんだよ。だから自分を信じて。そして彼女を信じてあげて』
「待ってくれ! その威娑凪って力を手にすれば、本当にアメリアを救えるんだな!」
ジュールは強く聞き返す。でもその瞬間、アメリアの体が光の粒子となって分散した。その光の粒はジュールの体を包み込む様に一度動きを止める。とても温かくて柔らかい。そんな柔和な気持ちにジュールの心は癒される。ただそれも束の間、光の粒子は天に向かい上昇を始めた。
「……分かったよ。待っててくれ、アメリア。俺は絶対に諦めない」
ジュールはそう小さく呟く。彼には聞こえた気がしたのだ。「信じて待っている」というアメリアの声が。そしてもう一つ。女神の想いが込められた【真実の物語】という道筋が。
分からない事ばかりだけど、でも一つだけ信じられるものがある。それはアメリアがまだ死んでないって事。明確な根拠なんてあるわけがない。そもそも不確定要素ばかりだ。でも最後に聞こえたアメリアの声は本物だった。あいつは俺を信じて待っていると言ったんだ。俺にはその想いに応える義務がある。だって、俺はアメリアを愛しているんだから。
ジュールはアメリアの体を抱えていた手の平を見ながら立ち上がる。そこにはまだ、僅かばかりの彼女の温もりが残っていた。この温もりはあと少しの時間で消え去ってしまうだろう。でもアメリアを救い出しさえすれば、何度だって感じられるはずなんだ。そう思ったジュールは、改めて運命に挑む覚悟を決めた。
「バカな。これはどうなっている!?」
天を仰いだ国王が驚嘆した声を上げる。アメリアの体が光となって天に消えたのが信じられないのだろうか。いや、違う。それとはまったく別の現象に国王は驚きの声を漏らしたのだ。
「この世界は陽の光の差す【昼のみ】の世界。それなのに、どうしてこんな事になっているんだ」
この世界とは、黒き獅子の力で作り出された【虚数世界】の事だ。そしてその世界は当然ながら、創造主である黒き獅子の思い描いた理想郷とも言うべき場所のはず。だがしかし、国王の目に映った光景は、まさに目を疑わざるを得ないものとなっていた。
天はその全てが【夜空】になっていたのである。それも巨大な満月が一つ、光り輝いている。バカな、有り得ない。黒き獅子は体を揺らせて慄えた。
黒き獅子は太陽から生まれた燦貴神だからこそ、昼のみの世界としてこの場所を創造したのだ。それなのに今この世界は、現実として太陽が存在しない夜に変わっている。神であるはずの自分に理解が出来ないなんて、これが恐ろしさというものなのか。そう考える黒き獅子は酷く打ち震えている。するとそんな国王に向かい、決意を改めたジュールが自信に満ちた声で告げた。
「国王、夜がそんなに珍しいか? その驚きぶりからして、あんたは来年開催される【女神の生誕祭】の本当の意味を知らないんだな。そしてテスラ、お前もどうせ同じなんだろう」
「どういう事、ジュール?」
「グラム博士の息子よ。この期に及んで戯れ事か。【女神の生誕祭】とは即ち、女神を【復活】させる儀式だ。望み願う者を【祝福】する厳粛な式典なのだよ。それ以外に何があると言うのだ、馬鹿馬鹿しい。月読の胤裔ごときが知ったふうな口を効くな」
「所詮あんたも出来損ないの神擬きなのさ。その本質が何なのか、まったく解っていない。いや、違うか。錯覚に陥っているだけなのかも知れないな」
「小僧、何を言っている? この世界が夜になってしまった原因をお前は知っているのか?」
「俺達にとって、女神はそんなに都合の良い存在じゃないって事さ。ううん、むしろ厄介な存在だと思った方がいいくらかな。あんた、女神が望み願う者を祝福するって言ったけど、それはまったく逆だよ。女神は願望を叶える力なんて持ち合わせちゃいない。いい加減、欲望を重ねるのはやめるんだな。最終的に裏切られ、がっかりするだけだぞ」
「女神を侮辱するとは不届きな奴め。何を根拠にそんな法螺を吐く。女神は絶対なのだ。小僧、今更頭を下げても許さんぞ!」
国王は眼光を金色に光らせてジュールを睨む。だがそんな鬼気迫る国王に対してジュールは怯む姿勢など微塵にも見せず、むしろ悠然とした態度で言い返した。
「履き違えてるのはあんたの方だよ。いい加減に目を覚ましたらどうだ、黒き獅子。あんた、本当は分かっているんじゃないのか。認めるのが怖いだけなんじゃないのか? 女神は優しくなんかない。残酷な存在なんだってさ」
「黙れ!」
「銀の鷲はそれに気がついたからこそ、俺に力を託した。グラム博士は気紛れな女神に対抗する手段を見つけ出し、最終定理として世界に隠した。そしてアメリアは女神の無慈悲に失望したから、俺に想いを伝えたんだ。今の俺にはそれが分かる」
「黙れ黙れ黙れっ! お前に女神の何が分かると言うのだ、人間ごときがふざけた事を言うでないぞ!」
「俺は至って真面目だよ。こんなところで冗談なんか言えるわけがない」
「少しくらい神の力に干渉したからって、それで女神を理解したつもりなのか。くだらん。ラヴォアジエもグラムも小娘も、所詮は虫けら同然の人間なんだ。女神を語るなど笑止千万。消えてくれて生々するわ」
「本当にそう思っているのか。あんたの言っている事は半分矛盾しているんだぞ。確かにアメリアとラヴォアジエは神の力ってやつに影響を受けたんだろう。だけどグラム博士は違う。博士は最初から最後まで人間だったんだ」
「うっ」
黒き獅子の顔色が変わる。ジュールの指摘が獣神の痛い所を突いたのだ。ジュールはそんな言葉を詰まらせる黒き獅子を追い詰める。今こそ真相をはっきりさせる時だ。彼は胸に押し留めていた想いを解放するよう、国王に向かって聞き尋ねた。
「あんた、本当にグラム博士を殺したのか? あんたに博士が殺せたのか?」
「――くっ、だ、黙れ小僧! 余が嘘を申すと思っているのか。ふざけるでない。余はこの手であやつを殺した。グラムの命は完全に絶たれたのだ!」
「なら殺した理由は何だ。どうしてあんたはグラム博士を殺さなくちゃならなかったんだ?」
「そんなの決まっておろう。余が提唱する光子相対力学を覆そうと、波導量子力学などと言うくだらない理論を唱えたからだ。光子相対力学こそが究極の理論であり、全宇宙を含む全ての自然摂理を証明する理論。グラムはそれを欠陥品だと言った。最後まで余を辱めたから殺したのだよ!」
「嘘だね。もう正直になってみろよ、国王。表向きの理由なんて、ここまで来ればクソほどの価値もないんだ」
「何だと!」
「確かに殺意を抱いたキッカケはそうだったのかも知れない。あんたにしてみれば、光子相対力学は人生を費やした全て、あんたそのものみたいな存在なんだからな。否定されれば怒りたくもなる。でもあんた自身にも本当は分かっていたはずなんだ。光子相対力学だけじゃ、自然の摂理全てを解き明かせないって。光子相対力学には限界があるんだってね。そしてあんたは理解したのさ。グラム博士が生み出した波導量子力学ならば、それが可能なんじゃないかって」
「ふざけるな!」
「怒っただろう。悔しかっただろう。哀しかっただろう。光子相対力学を完全な理論にする為に、獣神にまでなったあんただ。それなのに、たかが人間の博士に出し抜かれたんだからな。殺意の尋常さたるや、想像を絶するよ。でもさ、あんたは光子相対力学を生み出した科学者であると同時に、この世の科学全般を愛する学識者でもあったんだ。そんなあんたがグラム博士の功績である波導量子力学を全否定するわけがない。どれだけ憎もうが、どれだけ嫉もうが、あんたには正しい理論を打ち消すなんて出来ないはずなんだ!」
「いい加減に喋るのをやめろ」
「グラム博士を殺す動機は波導量子力学に屈服したからじゃない。あんたはそんなチンケな理由で博士を殺しはしないさ。でもあんたは博士を手に掛けた。どうしてだよ。なぁ、教えてくれよ」
「やめろ。黙れ」
「お願いだから教えてくれ。何があんたを変えたんだ? 何があんたをそうさせたんだ?」
「た、頼む。頼むから、もうやめてくれ……」
そう言った国王はがっくりと首を垂らした。精神的に追い詰められてしまったらしい。国王は残された左腕で胸をグッと押さえ、表情をこれ以上ないほど苦しそうに歪めている。ただそんな国王に対し、ジュールは意外にも微笑みながら言ったのだった。
「グラム博士の理論を認めるというのは、自分が博士に屈服した事になる。それはあんたにとって、絶望としか言えないだろう。でもその理論の排除なんて出来るはずもない。それが余計にあんたの心を粉々にした。そして縋ったんだ。女神っていう【母なる存在】に」
「……」
「国王。あんた、寂しかったんだな。誰かに慰めてもらいたかったんだよな。だって絶対的な権力者でありながら、最も孤独な存在だったのはあんただったんだから。でも孤独を紛らわせる代償として、あんたは黒き獅子に身を捧げてしまった。選択を間違えてしまったんだ。気高いプライドが邪魔をして、あんたは進むべき道を誤ったんだよ」
「ならば余はどうすれば良かったのだ!」
「グラム博士と肩を並べて歩めば良かったんだ。博士の理論を受け入れ、博士と一緒にその波導量子力学を発展させれば良かったんだよ。結果的にそれがあんたの夢を叶える近道になったはずだし、何より博士はそれを望んでいたはずなんだ」
「どうして余がグラムごときと共に、それもグラムが導き出した理論を発展させねばならぬのだ。ふざけるのもいい加減にしろ!」
国王は怒りを露わに憤る。だがしかし、その表情は急速に力の抜けたものへと変わってしまった。
「余がグラムの理論に賛同し、共にその理論を発展させるだと。バカバカしい。そんな事が受け入れられるはずないじゃないか。余が生み出した光子相対力学こそが絶対なのだ。光子相対力学は余の全てなのだ。この気持ちに嘘はつけぬ。波導量子力学の素晴らしさを理解していても、頭ではそれを受け入れるのが正しいのだと理解していても、結局のところ余は自分の気持ちに逆らえなかった。だから余は獣神の力に魅力を覚え、それを実際に手にしたのだ。獣神の力、言わば神の力があれば、波導量子力学を超えたステージに光子相対力学を引き上げられると信じたからな。だってそうだろ。所詮グラムは人間。そんな人間の頭脳が導き出した理論など、神の力の前では太刀打ち出来るわけがない。そう思うのが普通であろう。――でもダメだったのだ。神の力を手にしても尚、グラムの領域にまでは及ばなかった」
「だから博士を殺したっていうのかい?」
「必然だったのだ。こうなる運命だったのだよ。そして波導量子力学を越えられない腹いせとして、大して興味もない人体実験にまで手を出してしまったのだ。人と神の中間にある存在が、どの様な活動を生み出すのか。そこからグラムを超える様な脳を持った存在が現れるのか。それを知りたかったからな。しかしそこから誕生したのはヤツという欠陥品だけだった。全てが失敗だったよ。でも唯一確信に至ったものがある。それは余がいくら足掻こうとも、グラムを越えられないという事実だ。時間は掛かったが、そう結論付けた。だから余はグラムを殺したのだ」
国王はそう告げると、溜息を吐き出して肩を落とした。それはまさに失望を体現した姿である。ここに至るまでの無念を思い返し、絶望した気持ちになったのだろう。ただそんな国王にジュールは言う。それは国王を酷く驚かせるものだった。
「残念だけど、グラム博士は死んじゃいない。いや、肉体が消滅したって事を死と呼ぶなら、確かに博士は死んだんだろう。でも違うんだよ。博士は生きているんだ」
「それはお前の心の中にグラムの記憶が残っているという事だろう。あやつの精神を引き継いだ事で、あやつがまだ死んでいないと思い込んでいる。錯覚しているだけだ」
「そうじゃない。思い違いをしているのはあんたの方だ。やっぱりあんたは博士の凄さが分かってないんだよ。博士の精神は生きている。俺の胸の中でなんかじゃなくて、もっと具体的に、もっと現実的に」
「小僧、お前は何が言いたいのだ」
「博士の精神はこことは違う【別の次元】で生きているって言いたいんだよ。ううん、別の次元っていう表現も違うか。――そう、この次元と重なった、もっと多角的な次元っていう場所にね」
「な、何を根拠にそんな考えをする」
「あんたには見えているんだろ。別の次元ってやつが。それが見える力こそが、神の本質なんだからさ。単純な話しだったんだ。初めからあったんだよ。ただ普通の人にはそれが見えないだけなんだ」
「小僧、お前は」
「仮に2次元の世界があったとして、そこに暮す者はどう逆立ちしても3次元世界の姿は見えない。それと同じ理屈さ。普通の人間は3次元の世界で生きている。だからもっと上の次元、そう4次元とか5次元とかの世界があっても、それを見る事は絶対に出来ないんだ。でも逆にそんな4次元とか5次元とかの世界から、3次元の世界を見るのは簡単だ。高次元の世界に暮らす者の特権とでも言える。そして神とは、そんな世界で生まれた者を現す総称なんだろう」
「お、お前にも、見えるのか?」
「まだはっきりとは見えないよ。でもアメリアが教えてくれたんだ。この世界はもっと多くの次元で重なっているって。だからあいつを失っても尚、その存在を近くに感じてしまうんだよ。だって、一時的にあいつはそのどこかへ旅だっただけなんだから。そしてグラム博士も同じなんだ。博士は自分の肉体の死と引き換えに、上の次元に自らの精神を押し上げたんだよ」
「バカな! 人の身でそんな事が出来るわけがない」
「だからあんたは博士の凄さが分かってないんだ。博士は人間でありながら、多次元の存在を付きとめた。神がいる高次元の存在があるんだと、確信を持って予測したんだよ。そして博士は自分の理論を証明する為に、肉体を消滅させる覚悟を決めた。博士は殺されたんじゃない。殺させたんだ。最後に嵌められたのは、あんたの方だったのさ」
「いい加減な事を。戯れ事を吐くのもそれくらいに――――」
国王の顔色が一段と青く変わる。ジュールの言葉に国王はハッとして愕然としたのだ。全ての物語は、この為にあったのかと。
「そうか、そういう事なのか。グラムよ、それが【ワイルズ・プログラム】の正体なのだな……」
国王は小さく呟く。そしてその頬には、一筋の涙が流れ落ちていた。
「どうして泣くんですか、国王。何かを思い出したんですか?」
「先程お前は女神が残酷だと申したな。果たしてそれはどうだろう。対象によって受け取り方は違う。人によっては残酷に思える事も、他の者にとってはやはり嬉しく思える場合もあるからな。そう、余はそうであってほしいと信じたいのだ」
「――不思議だね。目指している方向は違うんだろうけど、今のあんたの意見には同意出来る。俺も、俺がそうであってほしい未来を信じたい」
「ならばお前は何を望む。月読の胤裔よ。いや、グラム博士の息子、ジュールよ?」
「そんなのは初めから決まっている。アメリアを連れ戻し、あいつと生涯を添い遂げる。それだけだ」
「そうか。シンプルな考えだけに、その想いは途轍もなく強いな。少しだけ羨ましいぞ。余もそんなブレない決意が欲しかったものだ。だがこれだけは忠告しておく。ジュールよ、お前が掴もうとしている未来は、お前以外の者にとっては不都合なものになるやも知れんぞ」
「全部覚悟の上さ。他の事まで気にしていたら、怖くて何も出来やしない」
「そうか。ならば余はもう何も言うまい。だが最初の試練はすぐそこにある。覚悟を決めたのなら、正面から受けて立ってみせろよ」
国王はそう言うと、ジュールからスッと視線を外した。もう何もかもが面倒になってしまった。あとは勝手にやってくれ。国王の姿勢からは、そんな気持ちが感じ取れる。ただそんなやる気の失せた国王に変わり、舞台に登場する人物がいた。それは愛刀である蛇之麁正をグッと握りしめ、殺気を剥き出しにするテスラだった。
テスラの殺気は本物だ。吹き荒れる電磁波の嵐がそれを証明している。そして彼は薄笑いながらジュールに言った。
「やっと茶番が終わったみたいだね。待ちくたびれて疲れたよ」
テスラはそう告げるなり居合の体勢を取る。攻撃の対象はもちろんジュールだ。そして彼は躊躇せずにその刀を振り抜いた。
「ズバァバァーン!」
電磁波を帯びた強烈な斬撃がジュールに向かう。だがジュールは反射的にその攻撃を布都御魂で受け止めた。それでも衝撃は凄まじく、ジュールの体は木の葉の様に舞い上がる。そして彼は強く床に打ち付けられて動きを止めた。
ジュールは奥歯を噛みしめて懸命に立ち上がる。体に蓄積したダメージは深刻な状態だと断言していい。本来なら意識を保ってもいられないだろう。それでも彼は狂気を剥き出しにするテスラと向き合う。今こそはっきりさせなければならない。何故、テスラはそこまで自分を憎むのか。
「――テ、テスラ、俺はいつ、お前の気に障る様な事をしたんだ。教えてくれ」
「どうでもいいよ、ジュール。別に君は何もしていない。これは僕の勝手な都合なんだ。でも君はさっき自分で言ったよね。他人の事なんてどうでもいいって。自分が望むものだけに全てを懸けるって。僕もね、そうするって覚悟を決めたんだよ」
「な、なら、お前の都合って何だよ? 殺し合いをしようって言うんだ。それくらい教えてくれても良いんじゃないか」
「そうだね。君にはそれを聞く権利があるもんね。なら話すよ」
テスラから感じられる殺気の強さは変わらない。それでも彼は蛇之麁正を鞘に納めると、ジュールに向かい昔話を語った。
「まだ僕達が訓練所にいた頃、休日を利用して君は初めて僕の家に遊びに来たよね。育ちが違うし、粗相しちゃうから遠慮するって君はかなり渋っていたけど、そんなの関係ないよって僕が強引に誘ったんだ」
「覚えてるさ。バカでかい屋敷で尻込みしたぜ。それで?」
「あの日の事は忘れない。だって、母さんが君にとても優しい笑顔を差し向けたから――。僕は見た事がなかった。初めて見たんだよ、あんなにも優しい母さんの眼差しを。僕の母さんなのに、実の息子の僕にも見せた事のない笑顔を、どうして赤の他人である君に差し向けたのか」
「……」
「君も知っているよね。僕の母さんは若年性のアルツハイマーだ。それも症状はかなり進行してて、今じゃ僕の事も分からない。でもね、ジュール。そんな母さんなのに、今でも君の名前を耳元で囁くと、あの時と同じように優しく微笑むんだよ。何故だ、どうしてなんだ?」
テスラは涙を流している。大好きな母親が見せる微笑ましい表情を思い浮かべているのだ。でもそれは自分を見ていない。その微笑の先にあるのはジュールなのだから。
優しくて綺麗で、とても温かかった。そんな母さんが大好きなんだ。でも母さんは僕を見てくれない。本当の息子である僕を。その眼差しは僕を通り抜けて、血の繋がりどころか縁もないジュールに向かう。こんな理不尽にはもう耐えられない。
ならどうすればいい。そうだ、母さんが微笑を差し向ける相手を消し去ってしまえばいいんだ。そうすれば母さんはもう二度と笑顔を見せなくなるかも知れないけど、でも僕はこの胸の苦しみからは開放される。そうだ、ジュールが悪いんだ。ジュールがいるから僕は辛くて、悲しくて、苦しくなるんだ。
「ちょ、ちょっと待て、テスラ。お前、何を言ってるんだ?」
「あぁ、分からないだろうね。分かるはずないよね。だって、僕にだって分かってないんだから。でもそんなのはこの際どうでもいいんだよ。君さえ、君さえこの世界から消えてくれれば、僕の気持ちは満たされるんだ!」
蛇之麁正から強烈な電磁波の嵐が吹き荒れる。それはテスラの怒りが頂点に達した事を具現化していた。
「これを逆恨みって言うんだろうね。だけど父さんは僕に本当の事を教えてくれなかった。どうして母さんがあんな風になってしまったのか。ううん、僕が父さんの言葉を受け入れられなかっただけなのかも知れない。でもアメリアの体が七色に輝いた時に何となく感じたんだ。もしかして母さんの精神はこの世界じゃない、別の所に行ってしまったんじゃないのかって。父さんが言っていたのは間違いじゃなかったんだって。それが怖くて狼狽えたけど、でももういいんだ、僕は迷わない。父さんを手に掛けた事を許してほしいとも思っていない。僕はただ、女神の祝福を信じ、母さんの笑顔が僕に差し向けられるのを願うだけさ」
恐ろしいまでの電磁波嵐が蛇之麁正から放たれる。テスラはその封神剣を居合に構えながらジュールを見つめた。
「ジュール。どんなに傷ついても、どんなに苦しくても諦めずに立ち向かう。そんな強い君に僕は憧れていた。僕もそうなりたかった」
ジュールの握った布都御魂がピンク色に輝き出す。それは生命力が光として溢れ出したかの様な、美しい輝きだった。
「テスラ。優しくて穏やかで、そんな温かい心を持つお前に俺は憧れた。俺もそうなりたかった」
二人の強い視線が交錯する。熱い感傷。冷たい衝動。複雑に絡まった感情は、もう引き返せない現実を二人に諭す。そして次の瞬間、ジュールとテスラはお互いに向けて全力の封神剣を打ち込んだ。
「ビィギャギャギャーン!」
凄まじい衝撃に空間が歪む。いや、空間が捻じ曲げられたと言った方が正しいか。ぶつかり合った封神剣の破壊力は想像を絶しており、何も無いはずの空間に亀裂を刻み込むほどだった。
ジュールとテスラはお互いに数メートル吹き飛んで倒れている。あれ程の衝撃が伝わったのだ。人の身では堪えられるものではない。それでも二人は懸命に立ち上がろうとしていた。もう後には退けない。ここまで来たら、どちらかの命を絶つまでだ。
ジュールは片膝をついた体勢で奥歯を噛みしめる。もう体はボロボロだ。刀を振れるのも、あと一度が限界だろう。それでもテスラには負けられない。アメリアを救うには、テスラを倒して前に進むしかないんだ。
悲痛な感情が胸を駆け抜ける。しかしジュールはテスラを打ち倒す覚悟を決めていた。問題は体がもつかどうかだ。テスラは俺ほどタフじゃない。さっきの衝撃でかなりのダメージを受けているはずだ。最後の一撃に全てを懸けるんだ!
ジュールは小刻みに震えた足に力を入れ、足掻きながら立ち上がろうとする。ただその時だった。彼の懐から小型の玉型兵器が一つ転がり落ちる。どこで拾った物だったか。ジュールは反射的にその玉型兵器を拾い上げた。しかし彼の意識のほとんどはテスラに向けられた状態である。拾い上げた玉型兵器の事などすぐに忘れ、彼は立ち上がり布都御魂を正眼に構えた。
テスラはすでに立ち上がっている。だがジュールが予想した通り、その姿は先程の衝撃でフラフラだった。彼もまた、強い想いだけで立ち上がっているのだ。それでも居合に構えたテスラから発せられる殺気の強さは変わっていない。強烈な電磁波の嵐からも、その感情の大きさが伝わって来る。
お互いに背負っているものが大きくて辛いな。ジュールはふと苦笑いを浮かべた。このままテスラに討たれてもいい。頭の片隅でそう思ったからだ。しかしその考えはすぐに消し飛ぶ。修羅の本能がそうさせるのか。ジュールは目の前のテスラに対し、初めて殺気をぶつけた。そして封神剣を打ち込む事だけに集中し、布都御魂を握りしめる。
二人の殺気がぶつかり合い、しのぎを削る。ジュールと国王の間で生じた覇気のせめぎ合いと同等かそれ以上だ。人の身でありながら、二人の精神は究極の領域にまで達したのだろう。高まった覇気は怒りと哀しみの感情で激しく渦巻いている。そしてその感情が臨界を迎えた時、二つの刀は命の火花を散らす――――はずだった。ただ二人の感情が衝突する直前、ジュールの耳に彼の名を呼ぶ声が聞こえる。
「ジュール」
それは紛れもない、グラム博士の声だった。何処からともなく聞こえた声にジュールはビクッと反応する。でもそれだけでは終わらない。博士の声に続き、彼の耳に別の声が届いた。
「ジュール」
「ジュール」
間違いない。それはアニェージとリュザックの声だった。そして更に彼の名を呼ぶ声は続く。
「ジュールさん」
「ジュールさん」
ヘルツとガウスの声だ。ジュールの体に震える感情が走り抜ける。散って逝った彼らの強い想いが伝わって来たからだ。そして最後の声が掛けられる。でもそれはとても優しくて、気持ちを落ち着かせるものだった。
「ジュール。待ってるね」
アメリアの声だった。彼女の声を聞いたジュールはスッと目を閉じると、大きく息を吐き出して強張った肩から力を抜き去る。衝突寸前のテスラを前にして取る行為ではない。だが彼は更に目を疑う行動に出る。なんと布都御魂を鞘に納めてしまったのだ。
「どうしたの、ジュール。諦めるつもり? 残念だけど、君が止めたとしても僕はやめないよ。君の息の根が止まるまで、何度だって討ち続ける」
「みんなの声が聞こえた。分かったんだよ。俺にはまだ、やらなくちゃいけいけない事があるって。みんなはそれを知らせてくれた。だから――」
「だから何だって言うんだい。この期に及んで、僕が君を逃がすわけないだろ!」
テスラの言う通りだ。例え誰かの救いの言葉が届いたとしても、この状況で剣を退くのは諦めたと同じなのだから。でもそこでジュールは微笑む。そして彼はテスラに向け、先程拾い上げた玉型兵器を差し出した。
「ん? それはあの地下工場にあった玉型兵器かい。でもそれは空っぽのはずだよね。その玉を稼働させるエネルギーを得るには、満月の光を長時間当てる必要があったはずだから。がっかりさせないでよ。そんな物を持ち出して、君は本当に諦めたのか!」
テスラの怒りが膨れ上がる。好敵手だと信じていたのに、最後の勝負から逃げ出すなんて失望だよ。蛇之麁正から渦巻く電磁波が強烈な稲光を轟かせる。でもその時、テスラはジュールの表情を見て肝を震わせた。
ジュールの右目が激しく輝いている。そして彼が手にした玉型兵器もまた、銀色の光で強烈に輝いていた。ジュールの右目から漏れ出した光を玉型兵器が吸収しているのだ。
「ま、まさか」
「どうやらこの瞳の輝きには、満月の光と同じエネルギーが凝縮しているみたいだ。それも途轍もない量のエネルギーがな。みんなはそれを教えてくれた。やっぱり俺はまだ、死ぬには早いらしい」
「そうはさせない」
テスラは柄を握る拳に力を込め最後の攻撃態勢を取る。するとこれまで以上の凄まじい電磁波が大気を揺るがした。熱く焦げ始めた大気が胸を息苦しくさせる。ただそこでテスラは問うた。それは無意識だったのかも知れない。でも彼は聞きたかった。どうしてジュールがそこまでして運命に立ち向かえるのかを。
「どうして君はそこまで戦える? 愛する人の命が奪われたからか。大切な仲間を失ったからか。親愛な家族を消されたからか。運命に逆らって、君は苦しくないのか?」
「悪いな、テスラ。それにどう答えればいいのか、俺にはよく分からない。本音を言えば、逃げ出して楽になりたいのかも知れないけどな。ううん、逆にお前の相手をして、勝ちたいって気持ちもあるよ。でもさ、さすがに俺の体は限界だ。だから不本意だけど、一旦ここは退かせてもらう。仕切り直しってやつだ。ただこれだけは覚えていてくれ。次に会った時、その時も俺の前に立ち塞がり邪魔をするってんなら、その時は――」
ジュールはテスラの目を強く見つめる。そして覚悟の込められた言葉を真っ直ぐに告げた。
「その時は、お前を殺す!」
「望むところだ――って言いたいけど、まさか本気で逃げられるって思っているの? 君がその玉を握りつぶすより先に、僕の一撃を叩き込めば終わりなんだ。絶対に逃がさない!」
二人の視線が交錯する。緊迫した空間はすでに臨界状態だ。そしてついに時間が動く。次の瞬間、テスラの渾身の光速斬撃が放たれた。
「キンッ」
時空をも切り裂く天才の一撃。人の身を超越したとも言えるテスラの斬撃は、まさに神の一撃と同等の破壊力を持っていた。恐らく獣神とて、この一撃を喰らえば致命傷は避けられないだろう。それ程までに、テスラが放った斬撃は凄まじかった。
だがその斬撃の先にジュールの姿は無かった。ほんの僅差だったが、ジュールは銀色の玉を握り潰して瞬間移動したのである。まさに紙一重の出来事だった。
世界の全てを破壊尽くさんばかりの強烈な緊迫感はもう消失している。そこにあるのは虚無と呼べる存在感のない意志だけだ。そしてテスラは手応えのないままに、茫然と夜空の月を見上げていた。ただその月は闇夜の空を血で赤く染め上げるように、真っ赤に輝いていた。
それから数日後。アダムズ王国のみならず、全世界から一人の男が指名手配される。その罪状はアダムズ軍総指令直轄戦闘部隊トランザムの隊士でありながら、アダムズ軍総司令殺害並びにリーゼ姫誘拐、そしてアルベルト国王暗殺を企てたテロリストというものだった。
残虐非道な存在は許すべからず。見つけ次第、即刻処刑するのだ。世界中の人々はそう犯罪者を罵った。その蔑んだ感情は、この世に存在する全ての悪を一つに集約し、それを憎んだ怒りの象徴と言っても過言ではない。それ程までにその犯罪者は人々から忌み嫌われ、悪意を抱かれていた。
しかしその行方は分からず、噂ばかりが広まって行く。そしていつしか彼はこう呼ばれていた。恐らく夜空を血の海で真っ赤に染め上げるかの様な、残虐な所業を想像させたのだろう。
『朱天のジュール』
その存在は依然として不明であり、世界中の人々を不安にさせる。ただどうして彼が凶悪な犯罪に走ったのか、その明確な動機を知る者は一人もいなかった。