#105 佐保姫の泣血(半影の城3)
三体のヤツとトランザムの熾烈を尽くした戦闘が終わりを迎えようとしている。すでに多くのトランザムの隊士達は力なく倒れており、残るはたった二人だけになっていた。
最新兵器を駆使して善戦したトランザム。その戦いぶりはアダムズ軍最強を名乗るに相応しいものであり、これが人間相手だったならば万が一にも負けるはずはなかっただろう。しかし今回の相手はヤツ三体なのである。虚しくも彼らは次々と倒され息絶えていった。そして残る隊士のうちの一人も間もなく絶命を迎えようとしている。彼は真っ赤な血を吐き出しながら、無念の表情で呟くのが精一杯だった。
「う、裏切り者の化けモンどもが。や、やっぱりコルベットは……最低な奴らの集団だったんだな……。つ、強くなる為に……、そ、そんな化けモンに成り下がるなんて……、か、カッコ悪いったら、ありゃしないぜ…………、ゲフッ」
そう告げた隊士の腹は犀顔のヤツの太い角で貫かれていた。即死していないのが不思議なくらい出血がひどい。トランザムの隊士としてのプライドが心臓を動かしているのか。ただそんな隊士の体を犀顔のヤツは力任せに振り捨てる。すると隊士の体は紙くずの様に宙を舞ってから床に転がった。
改めて確認するまでもない。腹を貫かれた隊士の息はもう止まっている。これで残る隊士はあと一人。ヘルツだけだ。ただそんな彼を差し置いて狸顔のヤツが他の二体のヤツに向かい苦言を吐き出した。トランザムの攻撃により負傷したのだろう。狸顔のヤツは痛々しく右の肘を抑えながら犀顔のヤツに向かって嫌味を口走った。
「手ぇ抜いてんじゃねぇよ。こんなゴミども、初めから本気出してりゃイチコロじゃねぇか。それなのに何だってんだよ、鈍りやがって。お蔭で痛ぇ思いしちまったじゃねぇか。なぁ、聞いてんのか、ローレンツさんよ!」
「――」
「何だよ、喋れねぇのか? デケェ体してるくせして肝っ玉は小せぇんだな。ハッ、くだらねぇ。コルベットとトランザムは反りが合わなかったんだろ。だったら一々躊躇うなよ、結局殺してんだからさ。最初からスパッとやってくれよ」
「――、アカデメイアごときが知った口を利くな」
「なんだ、怒ったのか? チッ、ムカついてんのは俺の方なんだよ。コルベットだからって調子ン乗ってんじゃねえぞ! お前らだってな、所詮は俺と同じ」
「やめなゼーマン。まだ一人残っているんだ。無駄話は仕事が全部終わってからにしなよ。不満があるなら、そん時は私が相手になってあげるからさ」
兎顔のヤツであるシャトーレが狸顔のヤツを制止させる。するとその込められた凄味のある殺気に怯んだのか。まだ収まりがつかないゼーマンであったが、渋々としながら引き下がった。
トランザムの半数を手に掛けたのがシャトーレである。機敏な動きでトランザムの攻撃を躱し、次々とその命を奪っていった。まさに悪魔の女と呼ぶに相応しいだろう。返り血で染まった表情は、どこか微笑んでいる様にさえ見える。顔が腐っているだけに、それはより一層不気味に感じられた。
シャトーレは最後に残ったヘルツに向き直る。血が滴った鋭い爪を突き立てる為に。ただヘルツはまだ諦めていない。絶望的な状況にも拘らず彼は体勢を整える。そして使い物にならなくなったマシンガンを捨てると、落ちていたナイフを拾い上げた。
最後まで諦めない。それがジュールさんから教えてもらった生き抜く為の唯一の方法なんだ。ヘルツの瞳に十分過ぎるほどの覇気が漲っていく。ただそんな彼の意気込みを憐れに感じたのだろうか。シャトーレは少しだけ同情しながら語りかけた。
「せっかく出世してトランザムに入ったのに、まさかこんなところで死ぬなんて思わなかったでしょう。あなた本当に運がないのね。軍人としての才能があるだけに、本当に惜しいわ。でも仕方ないのよね、私達を相手にしたんだから。どんなに強くても、あなたが人である以上私達には勝てない。分かるでしょ。だって私達、化け物なんだから」
どこか哀しそうな表情でシャトーレは告げる。それは見込みのある若者を殺さなければならない。そんな状況を嘆いているかの様だった。しかし彼女の意志が揺らぐ事はないのだろう。長い耳をピンと伸ばしてから背中を少しだけ丸めたシャトーレは、床を踏み拉き目にも止まらぬスピードでヘルツに襲い掛かった。
「スパッ」
ヘルツの首筋がザックリと切り裂かれる。兎顔のヤツが的確に首を刎ねに来た証拠だ。ただヘルツは持ち前の反射神経でその攻撃を紙一重で躱していた。
ヘルツはヤツの次の攻撃に備えて素早く構える。するとそんな彼の姿勢を見てシャトーレは歓喜の声を漏らした。
「あなたやっぱり強いわね。私の攻撃をこうも見事に避けるなんて考えもしなかったよ。でもその動きをいつまで続けられるかしら。お願いだから拍子抜けだけはさせないでよね!」
兎顔のヤツのスピードが加速する。それは普通の人間の目では到底追えない速度だ。そしてシャトーレは容赦なくヘルツに狂暴な爪を差し向ける。ただその攻撃をヘルツは寸前のところで躱し続けた。
「凄いわ! あなた最高よ!」
ヘルツの想像以上の運動能力に感極まったのか。シャトーレは悲鳴に近い歓声を上げる。ヘルツとの戦いが楽しくて仕方ないのだ。ただ次にヤツがヘルツに襲い掛かった時、その表情は苦痛で歪められた。
腹から腰に掛けてザックリと切り裂かれている。動きを停止させたシャトーレは、自分の腹に手を当てて傷の深さを確認した。
タフなヤツの体にとって、それは致命傷とは程遠い掠り傷の様なものである。しかしその傷を刻んだのは間違いなく目の前の若者なのだ。油断したつもりはないが、完璧なカウンターを捻じ込まれてしまった。ううん、そもそも自分の動きに合わせてカウンターを捻じ込む人間がいるなんて考えもしなかった。――いや、それが傲りというものなんだろう。
全身に伝わった痛みによって目が覚める。そんな気分になったシャトーレは真剣な表情になりヘルツを睨んだ。
ヘルツは額から粘り気のある汗を流しながら思う。参ったな、こっちはヤツの攻撃を躱すので手一杯。完全なジリ貧だ。狙い澄ました渾身のカウンターも致命傷を与えられず、それどころかヤツはその一撃で警戒心を高めてしまった。さっきみたいにはもう上手くは行かないぞ。どうすればいい――。
逆手に構え直したナイフは先程捻じ込んだカウンターの衝撃でひびが入ったらしく、今にも折れそうな状態だ。こんなチンケなナイフじゃとてもじゃないがヤツには勝てない。
ヘルツは悲壮感を抱きつつも、それでも懸命に気持ちを強く滾らせる。アメリアさんを連れて帰るのが自分に与えられた使命なんだ。自分を信じてそう命令したリュザックさん、死んで逝ったトランザムのみんな、そしてジュールさんの為にもこんなところで負けるわけにはいかない。
そう思ったヘルツはバトルスーツのダイヤルを回し、身体能力を6倍にまで引き上げる。トランザムの隊士から聞かされた簡易的な説明で、このバトルスーツの性能は理解したつもりだ。そして体への負担を考えつつ、先程までは4倍まで身体能力を引き上げていた。
でも4倍ですら正直キツかった。敵を前にして弱みは見せられないと、平常心を装い堪えていた。だがやはりヤツを相手にするにはそれでは足りない。間違いなく体は堪え切れないだろう。けどそれがなんだっていうんだ。今命を懸けないで、どこで命を懸けるっていうんだ!
「ギュイィィーン」
バトルスーツから無機質な機械音が響く。しかしそれは彼にとって、まるで命を吸い尽くす音の様に聞こえた。全身の血流が恐ろしいほど加速していくように感じる。つ、辛い。辛すぎる。まるで生き地獄じゃないか。沸騰した血液が体中を駆け巡る感覚にヘルツは思わず吐き出しそうになる。だがそんな極限の状態の中で彼は一瞬微笑んだ。
「何をする気、坊や」
シャトーレの額から一筋の汗が流れ落ちる。彼女の軍人としての経験がヘルツから只ならぬ気配を読み取ったのだ。だがそれは少しだけ遅かった。気が付けばなんと、兎顔のヤツの体は激しく吹き飛ばされ、壁に強く叩きつけられていた。
「グハッ――。な、何が起きたの!?」
シャトーレは意味が分からない。ただそんな彼女の巨体は意味を理解する間もなく再び吹き飛ばされた。
「ズガンッ!」
側頭部に強い衝撃を受けたシャトーレの体は錐揉みしながら宙を舞う。するとそんな彼女の目に信じられない姿が映った。高速に移動するヘルツがホールの天井を蹴り上げて自分に迫って来るのだ。あまりにも現実離れした光景にシャトーレの体は動かない。そして為す術なく、彼女はヘルツの繰り出した猛烈な蹴りを腹に喰らい、ホールの床にねじ伏せられた。
「ガッ。――し、信じられない。た、ただの人間が、こ、こんなスピードで動けるなんて……うっ!」
シャトーレは形振り構っていられないと無理やり体を動かす。襲い掛かるヘルツの攻撃を躱す為に。だがさすがの彼女も重く圧し掛かったダメージに足が動かない。ヘルツはそんな兎顔のヤツを決して逃がさないとばかりに、その顔面に向けて強烈な蹴りを振り抜いた。
「ズバッ!」
「ギャッ」
兎顔のヤツが堪らずに悲鳴を漏らす。ヘルツの蹴りがヤツの左耳を半分に切断したのだ。高速で繰り出したヘルツの蹴りは鋭利な刀の斬撃そのものだったのである。それにまだ彼の攻撃は止まらない。こんどこそ首を刎ねてやるんだと狙いを定めてヘルツはシャトーレに向かう。ただその時、ヘルツに対して熱く尖った角が突き出された。
「うっ」
意表を衝かれた攻撃にヘルツは驚くも、身を翻して間一髪で角を躱す。犀顔のヤツが兎顔のヤツの窮地を助けようと援護に来たのだ。だが極限を越えたヘルツにとって、鈍重な犀顔のヤツの攻撃など、恐れるに足りなかった。
彼は突き出された角を掴み取ると、そのまま遠心力を利用してぐるりと一回転する。そしてその勢いを利用して犀顔のヤツの顔面に逆手に構えたナイフを突き立てた。
「ぐわっ」
犀顔のヤツであるローレンツの膝がガックリと落ちる。彼はヘルツの付き立てたナイフより、左目を潰されていた。
「クソっ」
ローレンツは太い腕を振り回してヘルツを襲う。だがそんな闇雲に打ち出された拳が当たる訳もなく、その巨体は空回りして床に転がった。
その隙にヘルツは体勢を立て直す。そして彼は兎顔のヤツに向かって駆け出した。この場にいるヤツの中で自分の動きについて来れるのはこいつだけだ。残りの二体のヤツは放っておいても何とかなる。こいつだけ、兎顔のヤツだけ倒せれば状況は有利になるはずなんだ。
ヘルツは最後の力を振り絞ってシャトーレに挑む。もう体力は限界だ。でも今の兎顔のヤツに俺の攻撃を避ける力も残っていない。出し惜しみするな。俺はまだ動ける。ここが勝負所なんだ!
ヘルツはヤツの息の根を止めようと渾身の力で床を踏込む。もう彼の目にはふらつくシャトーレの姿しか見えなかった。だがそれが彼にとって致命的なミスになってしまう。床を強く踏み込んだつもりなのに、彼の体は力なくそのまま倒れ込んでしまった。
「な、なんで。どうなっているんだ!?」
ヘルツは戸惑う。攻撃を仕掛けるタイミングは完璧だった。俺の足はまだ動いていたはずだった。それなのにどうして、――えっ!
ヘルツは素早く立ち上がろうとするも、自分の右足に走った違和感に愕然とする。なんと彼の右足首は180度向きを変えていたのだ。
「まさかスーツの能力に足が耐えられなかったのか。でもそんな、まだいけると思ったのに」
ヘルツの落胆は明らかだった。もうこの足では満足に動く事が出来ないのだから当然だろう。もう一息で兎顔のヤツを仕留められたはずなのに、それが不可能になったのも彼を気落ちさせる大きな要因になっていた。ただそんな彼を更に酷く落ち込ませる言葉が浴びせられる。それは音もなくヘルツの背後に忍び寄った狸顔のヤツであるゼーマンのものだった。
「随分と調子こいてくれたな、あんちゃんよ。人間のクセにえらく強ぇからビビッちまったぜ。でも残念だったな。もう少しで女兎を殺せたのによ。まぁ俺も女兎にはムカついてたからさ、殺してもらっても構わなかったんだけど、恩を売っといた方が俺にとって都合が良いんでね。悪ぃけどあんちゃんはここで終わりだよ」
「お、お前が俺の足をやったのか! いつ? どうやって?」
「フン。死ぬ前にそれが知りたいのか? 別に難しい話しじゃない。俺は気配を殺すのが得意なだけさ。そんで犀野郎に攻撃した後の着地するところを狙っていたんだよ」
「そ、そんな、全然気付かなかった」
「そりゃそうさ。俺は影に隠れるのが得意だからね。簡単には気付かれないよ。でもな、あんちゃん。あんちゃんの目には女兎しか入ってなかっただろ? そんなんじゃ結局俺には気付かなかっただろうよ」
「くそっ。どうして俺はいつも肝心なところで注意を怠ってしまうんだ。ちくしょう」
ヘルツは口惜しむばかりだ。勝てるものだと確信しただけに、彼は激しく落胆するしかなかった。
「チッ、余計なマネをしてくれる。返り討ちにする準備は整ってたんだ。余計な手を出すなよ、ゼーマン」
「ハッ、笑わせるなよ姐さん。どう見たってあんた殺られてたぜ。危機一髪を救ってやったんだからよ、素直に感謝してくれよな」
「なにが感謝だ、お前はただ相手の隙をつく卑怯なマネしか出来ないだけだろ。だからいつもはデービーなんていう気色の悪い男とつるんでいるんだ。ペッ、吐き気がするよ」
「ムカつく事言ってくれんじゃねぇかよ。じゃぁ何か、姐さんは正々堂々戦って死にたかったのか? ハッ、バカ言ってんじゃねぇぜ。俺達はもう化け物なんだ。卑怯だの汚ねぇだの言ってられるほどお上品じゃねぇんだよ。あんたの方こそいい加減立場を理解しろよな!」
「何だと貴様。もう一回言ってみろ!」
言い争いを始めた兎顔のヤツと狸顔のヤツは一触即発だ。同じヤツと言えども考え方の違いがあるのだろう。ならばこの隙に逃げるしかない。ヘルツはそう思って状況を窺った。しかしそんな甘い考えが通るはずもない。狸顔のヤツは足元に屈んでいるヘルツの横っ腹を蹴り上げて、その体をホールの隅にまで吹き飛ばした。
「そこで大人しくしてろ。あんちゃんは後でゆっくり始末してやるからよ」
そう言った狸顔のヤツは不敵に微笑む。そしてヤツは兎顔のヤツに向かい、濃い隈の浮かぶ目を怪しく光らせて身構えた。
兎顔のヤツも戦闘態勢を整える。切断された左耳が痛々しいが、それでも強靭な肉体を持つヤツである。見た目ほどのダメージは無いのかも知れない。禍々しい二体のヤツの殺気が激しくぶつかり合い始め、いつ殺し合いが始まってもおかしくない状況だ。ヘルツは脇腹を抑え悶絶しながらも状況を見守っている。そしてついに二体のヤツがそれぞれに向かい挑み掛かった――と思った瞬間、突然激しい衝撃がホール全体に伝わった。
「ズガガーン!」
まるでロケット砲が撃ち込まれたかの様な衝撃に、そこにいる全員が体勢を低くする。煙が舞い上がったホール内の視界は一瞬でゼロと化し、数メートル先もまったく見えない。ただ異常を検知した城の警報装置が作動したのだろう。スプリンクラーが稼働して大量の水が天井から降り注ぎ始める。すると煙はあっという間に消え去り、周囲の異常を目の当たりにさせた。
ホールの側壁に大きな穴が開いている。大きさにして直径3メートルといったところか。そしてその穴からホールに降り立った異様な存在が一つ。それを目にした時、ホールにいる全員は事態の緊迫さを忘れて息を飲み呆然とした。
そこに表れたのは銀色の体毛で全身を覆った狼の顔を持つ存在だった。見た目はヤツそのものにも見える。しかし根本的な何かが違うのだと誰もが瞬時に把握した。そしてヘルツは思う。かつて廃工場跡地で豚顔のヤツと戦った後に出現した驚異の存在を。
それはジュールをテスラの刃から救った存在であり、コルベットの猛攻をものともせず、月夜の空へと飛び去った怪物である。忘れるわけがない。でもどうしてあの時の怪物がここに現れたんだ。それにこの感覚は……。
ヘルツは狼の顔を持つ怪物から不思議な感覚を感じ取り狼狽する。あの時とは異なり、今の怪物からは敵意丸出しの殺気しか感じられない。でもそれとは違った、とても大切で強い繋がりの様なものも感じられるのだ。一体どういう事なんだ?
そんなヘルツと同様に、怪物を目にしたシャトーレも思う。トウェイン将軍の指示による廃工場での待ち伏せで、総攻撃を掛けた対象。あの時は不覚にも逃げられてしまったが、見間違えるわけがない。あの時現れた【修羅】。まさに銀の鷲が変化した姿だ。しかしなぜここにラヴォアジエがいる。銀の鷲は紫の竜によって倒されたはずじゃ。
「何だコイツ、驚かせやがって。新しい実験体か? 俺達と違ってナリは随分とイケてるが、ちょっと体が小せぇなぁ。おいテメェ、何モンだ。何しにここに来たんだよ!」
ゼーマンが悪態つくよう怒鳴り上げる。シャトーレとの喧嘩に水を差されイラついているのだ。ただそんな狸顔のヤツを無理やり押し退けて犀顔のヤツが言う。その鋭い角は高熱で真っ赤になっていた。
「どいていろ、コイツは普通じゃない。一気に終わらせる!」
そう呟いたローレンツは修羅に向かい踏み出した体を一気に加速させる。超高熱を帯びた角で八つ裂きにするつもりだ。巨大な体の犀顔のヤツが猛スピードで駆ける姿は圧倒的であり、それを見るヘルツやゼーマンは狼の顔をした修羅が只では済まないと直感として受け止めた。――だがしかし、
「ズガンッ!」
激しい衝撃音が響くと共に、犀顔のヤツの体が急停止する。まだ修羅までは数メートルの距離があったはず。それなのに何故か犀顔のヤツの巨体は完全に停止した。
「ローレンツ!」
シャトーレが堪らずに叫ぶ。動体視力に優れた彼女はローレンツの異変を即座に見極めていた。彼女は犀顔のヤツの懐に飛び込んだ修羅の存在に気が付いたのだ。
なんて奴だ。シャトーレは愕然として表情を青くする。あれ程圧倒的な圧力で挑み掛かったローレンツに対し、修羅は真正面からその懐に飛び込んでカウンターの拳を捻じ込んだのである。それも高速で動き出したローレンツの巨体を完全停止させる程の衝撃を加えて。
犀顔のヤツは思わず意識を失いそうになる。それ程までに痛烈な一撃が捻じ込まれたのだ。だが仮にもコルベットとして鍛え抜かれた精鋭隊士である。ローレンツは奥歯を喰いしばり、懐にいる修羅めがけて渾身の拳を打ち下ろした。
「ガガンッ!」
ホールの床が激しく損壊する。手りゅう弾十個相当が同時に爆発したくらいの威力はあっただろう。ローレンツの拳を中心として、ホールの床に半球状の溝が刻まれた。ただそこにあるはずの修羅がいない。ハッとしたローレンツであったが、その時にはもう彼の体は背中から貫かれていた。
「ズガッ」
真っ赤な血に染まった腕が腹から突き出している。そう、修羅は犀顔のヤツの硬い背中を突き破り、そのまま腹を貫いたのだ。
「バ、バカな! ローレンツはヤツの中でも特にタフな体をしているんぞ! それも背中を突き破るなんて」
シャトーレとゼーマンに戦慄が走る。ヤツ達は本能として修羅のヤバさを感じ取ったのだ。だがそれだけでは終わらない。修羅は瞳を真っ赤に輝かせると、全身から炎を立ち上がらせた。
「ボッ」
「ウギャァァァー!」
ローレンツの悲鳴が鳴り響く。体の内側から炎で炙られているのだ。絶叫しない方がおかしい。それでもさすがはコルベットの隊士である。ローレンツは体を焼かれながらも拳を振るい、修羅に攻撃を仕掛けた。
ただその攻撃を修羅は難なく躱す。犀顔のヤツから腕を引き抜くと、そのまま後方に飛び退いた。
「マズいな、こいつ強すぎるぞ。まさか【オリジナル】か?」
狸顔のヤツが引きつった顔で嘆く。ヤツは修羅の姿に思う事があるらしい。そして兎顔のヤツもまた、修羅の異常な強さに背中を粟立てていた。
「どうやら私達は何か勘違いをしているらしいね。炎を使っているけど、こいつは銀の鷲じゃない。むしろ私達に近い存在だ」
「あぁ、間違いないぜ。コイツは【護貴神】だ。狼の頭を持つ修羅だ。俺達の【ベース】になっている怪物だぞ。か、勝てるわけがねぇ」
「怖気づくなゼーマン。あいつは私達を殺すつもりだ! 抵抗しなけりゃ惨めに死ぬだけだぞ!」
「チッ、ローレンツはもう使えねぇし、二人でやるのかよ。クソったれが。こうなったら破れかぶれだ!」
二体のヤツが修羅に向かい敵意を剥き出しにして身構える。そしてヤツ達は冷静に修羅の動きを見極めつつも、大胆に打って出ようとした。――がその時である。
「キン」
乾いた金属音が一瞬だけ鳴り響く。すると同時に二体のヤツはガックリと体勢を崩し、そのままうつ伏せに倒れてしまった。
「バ、バカな。たかが斬撃一つで二人を倒したと言うのか! 貴様、何をしたんだ!」
重傷を負っているローレンツが叫ぶ。シャトーレとゼーマンが襲い掛かるよりも先に修羅が二人に突進し、腰に下げていた【刀】を引き抜いて一刀のもと二体のヤツを切り裂いたのだ。
でもそれが如何に痛烈な斬撃だからといって、タフな肉体を持つヤツが一撃で沈むはずがない。首を刎ねられたならいざ知らず、シャトーレは胸を、ゼーマンは腹を斬られただけなのだ。それなのにどうして。
ただそこでローレンツは自身の体をもって、その謎を知る事となる。修羅は再び刀を鞘から引き抜くと、それをローレンツに向かって真っすぐに翳した。すると急激にローレンツの体から力が抜け出す。そして彼は脳震盪でも起きたかの様にして腰を落とした。
「そ、その刀。十拳封神剣か……」
ローレンツはそう言葉にするので精一杯だった。大きな体が前のめりに倒れ込む。その傍らには修羅が立っており、付き立てた刀をヤツの体から引き抜いていた。
「ヤツは死んだのか?」
ヘルツは倒れ込んでしまった三体のヤツを見て呆然と思う。絶望的に強かったヤツが為す術なく一瞬で倒されたのだ。彼が戸惑うのも無理はない。だがヘルツが尻込みするのはそれだけが理由じゃなかった。
圧倒的な強さを見せた狼の頭を持つ修羅。銀色をした全身の体毛からは僅かに蒸気が立ち上っている。犀顔のヤツを丸焼きにした炎の熱が体全体に留まり、その熱が空気中の湿気を気化させているのだろう。そしてその姿はとても凛々しいものに見えてならない。いや、神々しいと言った方が適しているのか。ただそんな彼の胸の内は複雑であった。
ここにいる修羅は間違いなく、かつて廃工場で見たあいつに他ない。でもどうして。修羅から感じ取るものは、【ジュール】のそれとしか思えないのだ。
まさかジュールさんが変化した姿なのか。でも廃工場ではジュールさんとは明らかに別の存在だった。だってテスラさんの刀からジュールさんを救ったのがこの修羅なんだ。その事実は覆しようがない。でもどうしてこんなにも胸がざわつくんだろう。
ヘルツは戸惑いを隠しきれない。だがその時である。彼の思いなど無視するがの如く、修羅は真っ赤な瞳を輝かせ、その尋常でない殺気をヘルツに向けた。
「ひっ」
ヘルツは思わず縮み上がる。大蛇に睨まれた蛙とはこんな気持ちなのだろうか。右足首が動かない彼にとって、修羅の攻撃を躱すなんて出来るはずがない。ううん、たとえ足が万全だったとしても回避不可能だろう。なにせ三体のヤツが何も出来ずに倒された程なのだ。人間である自分が修羅を出し抜くなんで不可能極まりない。
ヘルツはホールの壁を背にしながら立ち上がる。彼にはもう、修羅に挑む力は残っていない。いや、そもそも彼は修羅に歯向かおうなどと、これっぽっちも考えてはいなかった。寂しそうな表情を浮かべながらヘルツは立ち上がる。そして彼は一言、修羅に向かって呟いた。
「ジュールさん。あんたジュールさんなんだろ? 俺ですよ、ヘルツです。分かりませんか? あんたと一緒のファラデー小隊で戦ったヘルツですよ!」
ヘルツは悲痛な声で叫ぶ。修羅の正体は絶対にジュールさんのはずだ。彼は本能としてそう信じずにはいられなかった。だから彼は最後の望みを掛けて修羅に向かい続けるしかなかった。
「ファラデー隊長、マイヤーさん、ガウス、それにテスラさん。あんたと一緒に戦った仲間達の事、忘れてしまったんですか? どの戦場も命懸けでしんどかったけど、でもだからこそ俺達は仲間としての絆を深め合ったんじゃないんですか? 思い出して下さい。あんたは誰よりも強い人だ。たとえ姿形が変わろうとも、自分を見失うような人じゃないって、俺は信じていますよ」
ヘルツは真っ直ぐに修羅を見つめて語りかける。すると彼の心から想いが修羅に何かしらを感じさせたのか。修羅は苦しそうに表情を歪めた。
「そうです、思い出してください。あんたは何を目的としてここに来たんです。あんたは愛する人を助ける為に来たんでしょう。そんな姿になったのだって、アメリアさんを助ける為の代償だったはずだ!」
「グォォ」
修羅は明らかに苦悩している。いや、葛藤していると言った方が正しいか。そしてその姿を見つめるヘルツは、振り絞る様にして本心を修羅にぶつけた。
「戻って来て下さい、ジュールさん。誰よりも尊敬するジュールさん。俺もガウスも、あんたの事が大好きなんだ。お願いだよ、ジュールさん。いつものあんたに戻ってくれ!」
そう告げたヘルツの目から涙が零れる。彼は心の底からジュールを信頼し、尊敬して止まないのだ。だが彼の願いは無残にも崩れ落ちる。涙で視界が霞んだからなのか、ほんの一瞬だけ修羅の姿が見えなくなる。ただ彼が次に修羅の姿を確認した時、その腹には銀色の太い腕が突き刺さっていた。
「ビキビキビキッ」
ヘルツが背にしていたホールの壁にいくつもの亀裂が走る。彼の腹を突き破り、修羅の腕が壁にまで到達したのだ。大量の血反吐を吐き出したヘルツが苦悶の表情を浮かべる。背骨はおろか、腹にあった内臓もほとんど潰れてしまった。もう助かりはしないだろう。それでも彼は諦めなかった。
ヘルツは修羅の腕を必死で掴み踏みとどまる。この腕が引き抜かれたらもう立っていられない。ジュールさんに声が届けられない。彼は口に溢れた吐血にむせ返りながらも、懸命に修羅に向かって伝え続けた。
「ア、アメリアさんが危ない。ゴホッ。で、でも今なら、今ならまだ……間に合う、はずです。ゴホゴホッ。お、お願いだ、ジュール……さん。頼むから、も、戻って、来て……くれ」
そこまで言ったヘルツの体から力が抜ける。彼の体はがっくりと前のめりに垂れ下がり、修羅の腕に支えられる形になった。もう全てを出し尽くしたのだろう。するとそんなヘルツの体が邪魔に思えたのか、修羅は左手で彼の体を支えたまま、右腕を無造作に引き抜き抜く。そして引き抜いた右腕を振りかぶり、ヘルツの首を薙ぎ払おうと身構えた。――がその時、
「ガヅンッ!」
予想外の衝撃に修羅が吹き飛ばされる。修羅はヘルツをその場に残し、数メートル離れた壁に激突した。
犀顔のヤツの強襲である。ギリギリのところで意識を保っていた犀顔のヤツは、高熱の宿った角で渾身の一撃を叩きつけたのだ。しかし無念にもダメージが想像以上に大きく踏込みがあまかった。その為に十分な衝撃を与えきれず、ヤツは悔しそうに表情を歪めていた。
万事休すか。犀顔のヤツはそう観念したのかも知れない。ヤツは肩を落としながらゆっくりと膝をついた。するとそんなヤツに向かい修羅は容赦なく獰猛な牙を剥く。ヘルツの首を刎ねそこなった不快を晴らすかの様に、修羅は右の手刀を振りかぶってヤツに飛び掛かった。
「!」
犀顔のヤツの太い首が吹き飛んだ。ヘルツは薄れ行く意識の中でそう思った。もちろん犀顔のヤツ本人もそう疑わなかっただろう。だがしかし、それは寸前のところで止められていた。
どうしたのだろうか。驚きの表情を浮かべた修羅は身動きを停止させている。それはまるで再生動画を一時停止させたかの様だ。でもどうして急に修羅は動きを止めたのだろう。修羅は明らかに目の前に蹲る犀顔のヤツの姿を見て狼狽している。そしてついに、修羅は断末魔とも言うべき悲鳴を上げた。
「ギャァァァァ!」
脳を貫くほどの絶叫が鳴り響く。だがその悲鳴は次第に小さくなり、それに変わって修羅の口からは嘆きの声が漏れ出していた。
「――ガ、ガウス。お前は死んだんじゃないのか。まだ俺に向かってくるのか」
修羅は頭を抑えながら苦しんでいる。そしてその苦痛に促されるようにして、その体は徐々に小さくしぼみ始めた。
銀色の体毛が抜け落ちていく。またそれまでホールに充満していた悍ましい殺気も急速に密度を薄めた。まるで先程までの殺戮劇が夢だったかの様だ。そしてついにその姿は元の状態へと変化を遂げる。紛れもない、そこにいるのはジュールだった。
溢れ出る涙が止まらない。それを必死で拭いながら、彼は目の前で膝間づく大型のヤツに視線を向けた。
「――! お、お前、ガウスじゃないのか。ガウスが生き返って再び俺に向かって来たわけじゃないんだな」
ジュールはホッと胸を撫で下ろした。彼はゾンビ化してまで戦いを挑んで来たガウスの姿を犀顔のヤツに重ねていたのだ。でもそれが錯覚だった事に気付き、彼は心を安堵させたのだった。だが次の瞬間、ジュールは視界の隅で横たわる存在を目にして愕然とする。彼は瀕死の重傷を負ったヘルツに気づき、そこへ駆け寄り懸命に声を掛けた。
「おいヘルツ! どうしてお前がここにいるんだ! どうしてお前がこんな事に」
そう叫びながらジュールはぽっかり穴の開いたヘルツの腹に手を添える。そして彼は祈る様にして意識を集中した。
「すぐに直してやるぞ。それまで辛抱するんだ。絶対に死ぬんじゃないぞ!」
そう叫んだ彼の手の平から小さな炎が燃え上がる。銀の鷲から受け継いだ復活の炎でヘルツの傷を回復させようとしているのだ。だがジュールの表情は冴えない。彼は必死で焦りを振り払いながら炎に集中するよう努めた。
「ブロイさんの時は上手くいったんだ。それなのにどうして炎が安定しない。このままじゃヘルツは」
「い、いいんですよ、ジュールさん。あ、あんたが、戻って来てくれた。それだけで俺は、……うれしいですから」
「バカ言うな。こんな傷どおって事はない。すぐに直せるはずなんだ。それにこの傷は、――――俺がやったんだろ」
ジュールは奥歯を噛みしめ憤りを露わにする。意識が無かったとはいえ、どこかにヘルツを攻撃した感触が残っており、それを自覚したのだろう。
「クソっ。俺はなんて馬鹿野郎なんだ。あれほど銀の鷲から怒りに呑み込まれるなと忠告されたのに、なんてザマだ。ちくしょう、どうして俺は」
「そ、そんなに自分を……責めないで……下さい。ジュ、ジュールさんがいなかったら、俺なんかとっくの昔に……し、死んでいたんだから。そ、それが今日まで生きて来れた。そ、それも、最後は……あんたの為に逝けるんだ。そ、それって結構、出来過ぎた人生だったんじゃないかな」
「ヘルツ、済まない。俺は、俺はガウスの命も奪ってしまったんだ。大切な仲間の命を俺は奪ってしまう。やっぱり俺は呪われた修羅なんだろうな」
ジュールの目から涙が零れる。相変わらず復活の炎の制御は上手く行かず、ヘルツの傷はまったく塞がろうとはしない。どうして自分は肝心な時にいつも上手く出来ないんだ。ジュールは悔しくて仕方がなかった。ただそんな彼に向かいヘルツが穏やかに微笑む。そして彼は柔和な温もりの中で最後に告げた。
「しゅ、修羅の姿。お、俺にはあれは、とても神々しく見えたよ。と、とても呪われた死神になんかには……見えなかった。そ、それにね、とってもあったかいんだ。こんな温もり、優しくなくっちゃ出せませんよ。これが……死ぬって事なら、全然怖くないっす。だから……俺の事は気にせず、ジュ、ジュールさんは……先に……進んで、下さい。この先に……、玉座に、アメリアさんがいますから……。は、早く助けに行って……下さい」
「ヘルツ」
「こ、国王は……かなり弱っています。アメリアさんを助けるチャンスは……今しかない。ただ、注意するのは、ぐっ、……テ、テスラさんには、気を付けて下さいよ。た、躊躇えば、アメリアさんを、救えない……」
ヘルツは最後の力を振り絞ってジュールに手を伸ばし、頬に触れようとする。ジュールとテスラの対決は必死であり、それが彼にとっての心残りなのだ。そしてその覚悟を刻む現れとして彼はジュールに手を伸ばしたのだ。ただその手はジュールの頬に届く前に力尽きる。ヘルツは意識を失い、体全体からも力が抜け落ちていた。
力なく落ちるヘルツの手をジュールは素早く受け止める。まさかヘルツまで失うなんて想像すらしていなかった。しかしこれは受け止めなければいけない現実なのだ。
ジュールはそっとヘルツの手を床に置くと、もう目覚める事のないヘルツに向かい小さく言った。
「ありがとう、ヘルツ。行って来る――」
胸の中で慟哭が無限に響き渡る。それでもジュールは粛然とした表情で前を向き、城の奥へと駆け出して行った。