異常な食性 ― 消化器官と発酵嚢
FMウイルスに感染した人間は、時間の経過とともに筋肉や骨格だけでなく、消化器官にも著しい変化が現れる。
通常の人間は、肉類や穀物、野菜などから栄養を摂取する。
しかし、感染者はこうした一般的な食物に加え、草木や樹皮など、通常の人間ではほとんど栄養源として利用できない植物性物質まで消化・吸収できるようになる。
その背景には、胃や腸の異常な発達と、感染者特有の消化器官である「発酵嚢」の存在がある。
この特殊な消化能力こそが、文明崩壊後の世界において、感染者が長期間生存し続けられる理由の一つとなっている。
1.異常に発達する胃と腸
FMウイルスは、感染者の視床下部および下垂体の内分泌制御系に作用し、ヒト成長ホルモンなどの分泌異常を引き起こす。
その影響は筋肉だけにとどまらず、消化器官にも及ぶ。
発症後約2週間が経過すると、消化器系の変異が始まり、通常の人間では消化できない植物性物質を栄養源として利用できるようになる。
さらに、発症後約3か月では消化器官の発達が進み、腸管の著しい肥大が確認される。
特に注目されるのは、腸管の一部が胃組織に類似した、消化液を分泌する組織へと変化することである。
これにより胃および腸の消化吸収能力は著しく向上し、通常の人間では利用できない物質からも栄養を得られるようになる。
ただし、こうした消化器官の変化が、どのような過程を経て成立するのかについては、現在も完全には解明されていない。
2.植物を栄養源へと変える能力
感染者の食性における最大の特徴は、通常の人間が消化できないセルロースを栄養源として利用していると考えられることである。
セルロースとは、植物の細胞壁を構成する主要な成分であり、草木や樹皮などに多く含まれる繊維質の一種である。
人間の消化器官には、セルロースを効率的に分解する仕組みが備わっていない。そのため、通常は食物繊維として体内を通過する。
しかし、FMウイルスによって消化器官が変異した感染者では、セルロースを含む植物性物質を消化・吸収し、栄養源として利用できることが確認されている。
この能力によって、感染者は肉類などを摂取しなくても、草木や樹皮といった植物性資源だけで生存することが可能となる。
ただし、セルロースが体内で具体的にどのような仕組みによって分解されているのか、その詳細は現在も解明されていない。
3.新たな消化器官「発酵嚢」
感染者の体内では、消化器系の変異が進行するにつれて、胃の後方に通常の人間には存在しない特殊な器官が形成される。
この器官は「発酵嚢(Fermentation Sac)」と呼ばれている。
発酵嚢は胃組織に類似した構造を持ち、一般的な感染者では2~4個形成されることが確認されている。
ただし、その数や大きさには個体差が存在する。
通常の胃とは異なり、発酵嚢では強い胃酸が分泌されない。
その代わりに、摂取した植物性物質を長時間保持し、内部で微生物による発酵を行う機能を持つと考えられている。
この仕組みによって、通常の消化器官だけでは利用が難しい植物性物質からも、栄養を得られる可能性がある。
しかし、発酵嚢の具体的な働きや、植物性物質がどの程度分解されているのかについては、いまだ不明な部分が多い。
感染者の体内には、人間本来の消化能力を大きく超えた、新たな消化の仕組みが形成されているのである。
4.発酵嚢に存在する微生物の謎
発酵嚢の機能を解明するうえで、特に重要視されているのが、内部に存在すると考えられる微生物叢である。
微生物叢とは、特定の環境に生息する細菌などの微生物の集まりを指す。
発酵嚢では、こうした微生物が植物性物質の分解に関与している可能性が示唆されている。
しかし、ここには大きな謎が存在する。
通常の人間が持たない高度な植物性物質の分解能力を、感染者はどのようにして獲得したのか。
セルロースを分解する微生物は、そもそもどこから体内へ取り込まれたのか。
そして、それらの微生物は、発酵嚢の内部でどのように維持されているのか。
これらの疑問について、現在も明確な結論は得られていない。
FMウイルスによる生体変異が関係している可能性も考えられているが、詳細な仕組みは不明である。
発酵嚢は確認されている器官である一方、その機能を支える仕組みには、いまだ多くの謎が残されている。
5.土や腐植物を食べる理由
発症初期の感染者には、通常の人間では考えられない摂食行動が確認されている。
土壌、腐植物、樹皮などを口にする行動である。
これらは通常の人間にとって、食料として適したものではない。
しかし、感染者はこうした物質を自発的に摂取することがある。
この奇妙な行動については、発酵嚢の内部に微生物叢を形成するための、本能的な摂食行動である可能性が指摘されている。
土壌や腐植物には多様な微生物が存在しており、感染者がそれらを体内へ取り込もうとしているのではないか、という仮説である。
ただし、この説は現在も証明されていない。
実際に、こうした摂食行動が微生物叢の形成に役立っているのか、それとも別の生理的変化によって引き起こされているのかは不明である。
感染者自身が、なぜ土や腐植物を口にするのか。その行動原理もまた、FMウイルスが引き起こす不可解な現象の一つとなっている。
6.文明崩壊後の食料確保
人類の文明が崩壊した世界では、時間の経過とともに都市部の食料が失われていく。
感染者もまた、食料が不足すれば新たな栄養源を求める必要がある。
しかし、人間と異なり、感染者は食料として利用できる資源の範囲が極めて広い。
草木や樹皮などの植物性物質を摂取できるため、山林そのものが重要な食料供給源となる。
実際に、都市部の食料が枯渇すると、感染者が集団で山林へ移動する行動が確認されている。
こうした大規模な移動は、パンデミック発生から約1年後に始まると考えられている。
さらに、冬季には住宅の柱や梁をかじり、樹皮や木質部などを摂取する行動も確認されている。
ただし、感染者が食料不足の影響をまったく受けないわけではない。
筋肉量の増加によって高い基礎代謝を維持しているため、長期間にわたって十分な栄養を確保できない場合には、活動能力や活動範囲にも影響が現れる。
特に寒冷地では、長期的なエネルギー消費の増大が栄養不足につながる場合がある。
感染者は食料の選択肢こそ広いものの、栄養補給を必要としない存在ではないのである。
7.飢餓状態で発生する共食い
感染者は植物性資源だけでも生存可能であることが確認されている。
しかし、周辺環境の食料が極端に不足した場合には、通常とは異なる行動を示すことがある。
その一つが、感染者同士による共食いである。
食料不足が深刻化した環境では、他の感染者を食べる個体が確認されている。
この行動は、感染者が必ずしも同種を攻撃対象から除外しているわけではないことを示している。
一方で、通常の環境における共食いの発生頻度や、どのような条件で行動が変化するのかについては、明確な基準が確立されていない。
感染者の摂食行動は、周囲の食料環境によって大きく変化する可能性がある。
8.なぜ人間を襲うのか
感染者の食性を考えるうえで、最も不可解なのが人間や動物に対する攻撃行動である。
感染者は草木や樹皮などの植物性資源だけでも生存することができる。
つまり、生命を維持するために必ずしも人間や動物を襲う必要はない。
それにもかかわらず、感染者は非感染者や他の動物に対して強い攻撃行動を示す。
この矛盾については、FMウイルスによって引き起こされる攻撃衝動が大きく関係していると考えられている。
感染者の脳機能は精神変容の進行に伴って変化し、理性的な判断能力が低下する一方で、攻撃性は著しく増加する。
そのため、人間や動物を襲う行動は、単純な空腹や栄養補給だけでは説明できない。
実際の捕食行動には、栄養摂取の目的と、FMウイルスによる強い攻撃衝動の両方が関与していると考えられている。
ただし、なぜ非感染者や他の動物が優先的な攻撃対象となるのか、その詳細な行動原理については現在も解明されていない。
感染者は、生きるためだけに人間を襲っているわけではないのである。
◇感染者の食性が示すもの
FMウイルスによる消化器官の変異は、感染者の生存能力を大きく変化させている。
通常の人間では消化できない植物性物質を利用し、発酵嚢という特殊な器官まで形成することで、感染者は文明崩壊後の環境にも適応している。
その一方で、発酵嚢の微生物叢がどのように形成されるのか、なぜ土壌や腐植物を摂取するのか、そしてなぜ栄養補給とは無関係に人間を襲うのかなど、未解明の問題も数多く残されている。
感染者は、食料を摂取せずに活動できる不死の存在ではない。
食物を消化し、栄養を吸収し、生命活動を維持する必要がある。
しかし、その生理機能は、すでに通常の人間とは大きく異なるものへと変化している。
彼らは死者ではない。FMウイルスによって生きたまま身体を変異させられた、新たな生態を持つ人間なのである。
■あとがきコーナー
今回は、感染者が草や樹皮まで食べられるようになった理由と、その消化器官である「発酵嚢」を考えたときの裏話を紹介したいと思います。
実は、この発酵嚢という設定も、最初はボディビルダーから着想を得ています(笑)。
感染者の筋肉の発達について調べていたとき、男性ホルモンだけでなく、ヒト成長ホルモンも筋肉の成長に関わっていることを知りました。
そして、成長ホルモンは筋肉だけでなく、骨や内臓などの組織の成長にも関係していることが分かりました。
実際に、成長ホルモンが過剰に分泌される病気では、内臓が肥大することもあります。
また、ボディビルダーの世界には、筋肉が発達しているにもかかわらず、腹部が大きく膨らんだように見える「バブルガット」と呼ばれる現象があります。
バブルガットにはさまざまな要因が関係すると考えられていますが、これを知ったとき、ふと思いつきました。
「筋肉だけじゃなくて、腸まで異常に肥大したらどうなるんだろう?」
そして、ここからさらに発想が飛躍しました。
「せっかく腸が大きくなるなら、草まで消化できるようにしたら面白いんじゃないか?」
そこで参考にしたのが、牛などの草食動物の消化器官です。
牛などの反芻動物は、人間には消化できない植物の繊維質を、消化管内に生息する微生物の力を借りて分解し、栄養として利用しています。
人間は草を食べること自体はできますが、草に含まれるセルロースを効率よく分解し、栄養源として利用することはできません。
しかし、もし感染者にも草食動物のような消化能力が備わっていたらどうなるでしょうか?
人間の食べ物がなくなった世界でも、草や木の葉、樹皮などを食べて生き延びることができます。
そこで考えたのが、感染者の体内に形成される特殊な消化器官「発酵嚢(Fermentation Sac)」です。
FMウイルスによるホルモン分泌の異常によって胃や腸が肥大し、さらに腸管の一部が胃組織に類似した構造へと変化する。
その結果、胃の後方には通常の人間には存在しない、2~4個の発酵嚢が形成されるという設定です。
発酵嚢では、取り込んだ植物を長時間保持し、内部に生息する微生物の働きによって発酵させることで、人間には利用できない植物の繊維質まで栄養源として利用できるようになります。
これなら、文明が崩壊して食料の供給が止まってしまっても、感染者は山や森へ移動することで生き延びられます。
ところが、この設定を考えているうちに、またひとつ疑問が浮かびました。
「そもそも、植物を分解する微生物はどこからやって来るんだろう?」
感染者の体内に突然発酵嚢が形成されたとしても、そこに必要な微生物まで最初から存在しているとは限りません。
そこで思いついたのが、感染者が土や腐植物を食べるという設定です。
土壌や腐植物には多種多様な微生物が存在しています。
感染者が本能的にそうしたものを食べることで、発酵嚢の内部に必要な微生物を取り込んでいるのではないか。
そんな仮説を、作中の研究者たちが考えているという設定にしました。
もちろん、これは作中でもまだ解明されていない謎のひとつです。
こうして、単純に「感染者は草を食べられる」という設定から、消化器官の変異、発酵嚢の形成、微生物の獲得、そして文明崩壊後の食料確保に至るまで、次々と設定が広がっていきました。
もともとは、ボディビルダーの筋肉やお腹について調べていただけなのに、気がつけば草食動物の消化器官や土壌微生物にまで話が発展してしまいました(笑)。
ですが、こうした設定を考えていくうちに、感染者はただ人間を襲うだけの怪物ではなくなっていきました。
彼らもまた、食物を摂取し、栄養を吸収し、生命活動を維持しなければ生きていけません。
そして、人類の文明が崩壊した世界でも、自分たちの身体に備わった特殊な能力を利用して生存し続けているのです。
こうして考えると、感染者もまた、過酷な環境に適応したひとつの生命体として見ることができるのではないでしょうか。
『Still Alive』の感染者は、そんなことを考えながら作り上げた存在です。
それでは、今回のあとがきはこの辺で!




