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帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


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東京へ

第八十七話


「東京へ」


 福岡高校音楽科の卒業式が終わった時、美香の進路はすでに決まっていた。


 東京の音大。


 受験は、卒業式より前に終わっていた。


 合格通知を手にした日のことを、美香は今でもはっきり覚えている。


 冬の朝だった。


 小倉家のリビングで、封筒を開ける手が震えていた。


 優馬が横で息を止めている。


 美鈴も、祈るように手を組んでいた。


 光子と優子は、なぜか正座していた。


「開けるよ……」


 美香が小さく言う。


 紙を広げる。


 そこにあった文字。


 合格。


 美香は、しばらく声が出なかった。


「……受かった」


 その瞬間、小倉家が爆発した。


「やったー!」


「美香おねーちゃん、東京たい!」


 優馬は泣き崩れ、美鈴は美香を抱きしめた。


「美香、よう頑張ったね」


 美香は涙を流しながら頷いた。


 那珂川の欄干に立っていた自分が、東京の音大へ行く。


 その事実が、信じられなかった。


 そして春。


 美香は、東京の音大の入学式に出席した。


 同席したのは、優馬と美鈴。


 光子と優子は、祖父母である黒崎正一と佳代の家で留守番だった。


 出発前、光子は真剣な顔で言った。


「美香おねーちゃん、東京で迷子にならんでね」


 優子も頷く。


「あと、ご飯ちゃんと食べるとよ」


 美香は笑った。


「二人とも、お母さんみたい」


 光子が胸を張る。


「妹だけど保護者!」


 優子が冷静に言う。


「それは役職が混乱しとる」


 入学式当日。


 東京の空は、福岡より少し硬く見えた。


 けれど、キャンパスの桜はやわらかく咲いていた。


 音大の講堂には、全国から集まった新入生たちがいた。


 楽器ケースを持った人。

 声楽科らしい姿勢の良い人。

 ピアノ科の学生。

 作曲を志す学生。


 美香は、その中に立っていた。


 小倉美香として。


 優馬が小声で言う。


「美香、本当にここまで来たんやな」


 美鈴は目元を押さえながら頷いた。


「うん……ほんとに」


 美香は二人を見た。


「お父さん、お母さん」


「ん?」


「連れてきてくれてありがとう」


 優馬は泣きそうになりながら笑った。


「こちらこそ、美香の入学式に来られて幸せたい」


 美鈴も言った。


「四年間、しっかり学んでおいで。でも、無理しすぎたらいかんよ」


「うん」


 美香は頷いた。


 美香は大学内にある学生寮で、これから四年間を過ごすことになる。


 初めての東京。


 初めての寮生活。


 初めて、家族と離れて暮らす日々。


 不安はあった。


 でも、それ以上に、胸の中には音が鳴っていた。


 もっと学びたい。


 もっと吹きたい。


 もっと作りたい。


 誰かに届く音を、もっと深く知りたい。


 入学式が終わったあと、三人は寮の前へ向かった。


 美香の部屋は、小さかった。


 ベッド。

 机。

 クローゼット。

 楽器を置くスペース。


 それだけの部屋。


 でも、美香にとっては大きな一歩だった。


「ここで四年……」


 美香が呟く。


 美鈴が部屋を見回す。


「必要なものは、また送るけんね」


 優馬が真剣に言う。


「困ったことあったら、夜中でも電話してよか」


 美香は笑った。


「うん」


 荷物を置き終え、別れの時間が近づく。


 優馬は、何度も何度も振り返った。


「ほんとに大丈夫か?」


「大丈夫」


「ご飯食べるんよ」


「食べる」


「変な人について行ったらいかんよ」


「行かん」


 美鈴が優馬の肩を叩く。


「優馬、そろそろ離れんと」


「いや、でも……」


 美香は笑いながら、少し泣きそうになった。


「お父さん」


 優馬が顔を上げる。


「うち、ちゃんと頑張るけん」


 優馬は、言葉を詰まらせた。


 美鈴が美香を抱きしめる。


「美香。あなたはもう、一人じゃなか。東京におっても、家族はずっと家族たい」


 美香は、強く頷いた。


「うん」


 優馬と美鈴が帰ったあと。


 美香は、寮の部屋に一人で立った。


 静かだった。


 でも、怖い静けさではなかった。


 窓の外には、東京の街の音。


 遠くで電車が走る音。


 寮の廊下を誰かが歩く音。


 新しい生活の音。


 美香はトロンボーンケースに手を置いた。


「ここからやね」


 小さく呟いた。


 小倉美香。


 東京の音大生。


 あの日、生きることを諦めかけた少女は、今、未来を学ぶ場所に立っていた。



次回予告


 東京の音大へ入学した美香。


 大学内の学生寮で始まる四年間。


 福岡を離れ、優馬と美鈴、光子と優子とも離れて暮らす日々。


 不安と期待の中、美香は新しい仲間たちと出会う。


 次回、第八十八話

 「学生寮の春」

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