二人の音
第八十一話
「二人の音」
アキラは、みらいのたねで美香の話を聞いてから、ずっと考えていた。
音楽は、人を殴らない。
音楽は、人を否定しない。
美香がそう信じて、トロンボーンを吹いていること。
そして、その音が自分にも届いたこと。
聴くだけではなく、自分も鳴らしてみたい。
そんな思いが、少しずつ胸の中で大きくなっていった。
ある夕方。
赤嶺家の居間で、アキラは祖父の安三郎と祖母の静子に向かって座った。
「じいちゃん、ばあちゃん」
安三郎が湯呑みを置く。
「どうした、章」
アキラは少し緊張しながら言った。
「僕……楽器をやってみたい」
静子が目を細める。
「楽器ね。何ばやってみたかと?」
「トランペット」
アキラは、少しだけ声を強くした。
「それと、いつかサックスもやってみたい」
安三郎は驚いた顔をしたあと、ゆっくり笑った。
「ほう。美香ちゃんの影響かね」
アキラの顔が少し赤くなる。
「……うん。美香さんがトロンボーン吹いとるの見て、僕も聴くだけじゃなくて、演奏する側になりたいって思った」
静子は優しく頷いた。
「よかよ。やってみんしゃい」
アキラは顔を上げた。
「いいと?」
「もちろんたい。音楽は、心ば支えてくれるけんね」
数日後。
アキラの手元に、中古だがよく整備されたトランペットが届いた。
ケースを開けた瞬間、金色の楽器が光った。
アキラは息を呑んだ。
「……きれい」
安三郎が笑う。
「大事にせんね」
「うん」
その日から、アキラの練習が始まった。
放課後。
学校の音楽室で、音楽の先生が練習を見てくれることになった。
「まずは、音を出すところからやね」
「はい」
アキラはマウスピースに口を当てた。
息を入れる。
――スッ。
音は出なかった。
もう一度。
――プスッ。
かすれた音。
アキラは肩を落とした。
「全然出ません」
先生は笑った。
「最初はそんなもんよ。焦らんでよか。息の道を作る感じで」
アキラは何度も挑戦した。
唇が疲れる。
息が続かない。
顔が熱くなる。
それでも、やめなかった。
美香も、最初は音が出なかったと言っていた。
でも、今は全国の舞台で演奏している。
だったら自分も。
そう思って、また息を吹き込んだ。
――パァ……
小さく、震えた音が出た。
アキラは目を見開いた。
「出た……」
先生が拍手した。
「出たね。今のが最初の音たい」
アキラは、トランペットを見つめた。
自分の息が、音になった。
胸の奥が熱くなった。
それからアキラは、毎日練習した。
農場の手伝いをして、宿題をして、それから少しだけトランペットを吹く。
学校では音楽の先生に見てもらい、家では無理のない時間だけ練習する。
最初は、音が揺れた。
高い音は出ない。
長く伸ばすと途切れる。
でも、少しずつ変わっていった。
音がまっすぐになる。
息が続く。
同じ高さの音を、安定して出せるようになる。
先生が言った。
「アキラくん、かなり安定してきたね」
「本当ですか?」
「うん。最初の頃より、音に芯がある」
アキラは嬉しそうに笑った。
その夜、アキラはみらいのたねへ電話をした。
「美香さんに伝えてもらえますか」
スタッフが笑う。
「うん、何て?」
「トランペット、音が出るようになりましたって」
その知らせは、小倉家へ届いた。
美香は、スマホを見て、ぱっと顔を明るくした。
「アキラくん、音出るようになったって」
光子が跳ねる。
「すごか!」
優子も笑う。
「美香おねーちゃんと音楽仲間たい」
美香は少し照れた。
「うん……音楽仲間」
その言葉が、胸にあたたかく響いた。
自分がトロンボーン。
アキラがトランペット。
いつか一緒に演奏できるかもしれない。
そう思うと、美香の心は少し弾んだ。
美鈴が微笑む。
「美香、嬉しそうやね」
美香は顔を赤くした。
「そ、そう?」
優馬がにやっとする。
「これは大学芋の次は、合奏の約束かもしれんな」
光子が即座に言う。
「トマト再収穫!」
優子が冷静に頷く。
「完熟たい」
美香は真っ赤になった。
「もう、そのネタやめて!」
リビングに笑い声が広がる。
その笑いの中で、美香は思った。
音楽は、自分だけを救ったのではない。
アキラの心にも、小さな火を灯した。
そして、二人の間に、言葉とは違うものをつなぎ始めていた。
トロンボーンとトランペット。
まだ未熟な二つの音。
けれど、それは確かに、未来へ向かって鳴り始めていた。
次回予告
赤嶺家で交わした、大学芋の約束。
美香とアキラの距離は、少しずつ近づいていく。
だが、アキラの学校でのいじめ問題は、まだ終わっていない。
みらいのたね、学校、祖父母、そして小倉家。
大人たちは、アキラを守るために動き出す。
次回、第八十話
「アキラの教室」




