帰る場所、その先へ
最終話
「帰る場所、その先へ」
こうして、綾菜と慶太郎には、まだ本人たちの了承すらないまま「コンビ名を決めよう」という話まで持ち上がった。
当然、発案者は光子と優子だった。
「絶対かわいい名前がよか!」
「音楽もお笑いもできる感じで!」
美香は即座に止めた。
「まだまともに文章もしゃべれん子たちの芸名を決めんで!」
春介が笑う。
「でも、双春も似たようなもんやったよね」
春海も頷く。
「気がついたらコンビになっとった」
「だから歴史を繰り返さんでいいの!」
綾菜は、そんな大人たちの騒ぎなどお構いなしにピアノへ手を伸ばす。
ぽん。
慶太郎は、おもちゃのトランペットを口元へ。
「ぷー!」
音楽らしいものが始まった。
光子が手拍子。
優子もリズムを取る。
アキラが笑い、美香もピアノで二人に合わせる。
やがて綾菜が振り返った。
「ねえね!」
「はーい」
美香は満面の笑顔で返事をする。
続いて慶太郎。
「にいに!」
「はいはい」
アキラも嬉しそうに答える。
そして。
綾菜が光子を見る。
「おばーちゃん!」
慶太郎も優子を指差す。
「おばーちゃん!」
「だから違うって!」
「なんで美香お姉ちゃんがねえねで、うちらがおばあちゃんなん!」
光子と優子が同時にずっこける。
綾菜と慶太郎は、それを見て大喜び。
「うにゃだらぱ〜!」
「あじゃぱー!」
さらに二人揃って、
「うんばぁ〜!」
光子と優子、完全撃沈。
美香はピアノの前で腹を抱えた。
「もう無理……!」
アキラも笑いすぎて声が出ない。
春介も、穂乃果も。
春海も、水湊も。
みんな笑っていた。
家の中いっぱいに、笑い声が響いていた。
美香は、ふと演奏の手を止めた。
その光景を見つめる。
夫のアキラがいる。
息子の春介がいる。
娘の春海がいる。
その伴侶である穂乃果と水湊がいる。
そして――。
綾菜。
慶太郎。
二人の孫がいる。
美香は、いつの間にか祖母になっていた。
かつての自分には、想像することすらできなかった未来だった。
美香の記憶の奥に、一つの風景が浮かぶ。
那珂川。
橋。
冷たい欄干。
あの日。
一人の少女が、そこから身を乗り出していた。
家に帰りたくなかった。
明日なんて来なくていいと思った。
自分が生きている意味など、どこにもないと思っていた。
誰にも必要とされていない。
誰にも愛されていない。
そう思い込むほど、美香は傷ついていた。
もし。
あの日、すべてが終わっていたら。
アキラには出会わなかった。
音楽を続けることもなかった。
ファイブピーチ★の仲間たちと世界中のステージに立つこともなかった。
春介と春海を抱くこともなかった。
そして――。
今、目の前で笑っている綾菜と慶太郎にも会えなかった。
「ねえね?」
綾菜の声で、美香は我に返った。
「ん?」
綾菜が両手を伸ばしている。
「だっこ」
美香は微笑んだ。
「はいはい」
綾菜を抱き上げる。
小さな身体が、美香の胸に収まった。
温かい。
慶太郎まで近づいてくる。
「ねえね、だっこ」
「慶太郎も?」
「だっこ」
「二人いっぺんは重たいよ」
そう言いながら、美香は嬉しそうだった。
アキラが慶太郎を抱き上げる。
「じゃあ慶太郎は、にいにが抱っこしよう」
「にいに!」
光子がまた反応する。
「なんでアキラお兄ちゃんは、にいになん!」
優子。
「納得できん!」
美香。
「まだ言いよる」
再び笑いが起こった。
美香は綾菜を抱いたまま、その笑い声を聞いていた。
人間、笑っている時が一番幸せなのかもしれない。
悲しいことが消えるわけではない。
傷ついた過去を書き換えることもできない。
美香が受けた暴力も、恐怖も、孤独も、なかったことにはならない。
けれど。
過去に傷つけられたからといって、未来まで過去のものにする必要はない。
誰かと出会うことができる。
助けを求めることができる。
誰かを愛することができる。
家族を作ることもできる。
笑うこともできる。
そして、自分が受け取った優しさを、次の誰かへ渡すこともできる。
美香は、それを自分の人生で知った。
綾菜が、美香の頬に小さな手を当てる。
「ねえね」
「なあに?」
ぱちっ。
誘惑ウィンク。
「うわぁ……!」
美香、撃沈。
慶太郎も負けじとアキラへ、
「ちゅ〜!」
極上投げキッス。
アキラも撃沈。
春介が呆れる。
「この二人、将来どうなるんやろ」
春海が笑った。
「知らん。でも普通にはならん気がする」
光子。
「ファイブピーチ★次世代!」
優子。
「お笑いもいける!」
美香。
「だから今から進路決めんで!」
最後まで、にぎやかな家族だった。
美香は笑った。
声を上げて笑った。
かつて、笑うことすらできなかった少女が。
夫と。
子どもたちと。
孫たちと。
大切な家族に囲まれて。
音楽に包まれて。
笑っている。
それこそが、美香が長い人生をかけてたどり着いた答えだった。
帰る場所とは、建物のことではない。
住所でもない。
血のつながりだけで決まるものでもない。
自分が安心して、
「ただいま」
と言える場所。
泣いてもいい。
失敗してもいい。
弱くてもいい。
それでも、
「おかえり」
と迎えてくれる人がいる場所。
美香は、自分が手に入れたその場所を、春介と春海へ渡した。
そして今度は、春介と穂乃果が綾菜へ。
春海と水湊が慶太郎へ。
その温かさを渡していく。
命とともに。
笑いとともに。
音楽とともに。
美香は窓の向こうの空を見た。
そして心の中で、那珂川の橋に立っていたあの日の少女へ語りかける。
――あの日のうちへ。
――もう少しだけ、生きてみて。
――今は何も見えんかもしれん。
――でもね。
――いつか、あなたを「ねえね」と呼ぶ孫を抱いて、腹が痛くなるくらい笑う日が来るよ。
そんな未来を、あの日の美香が信じられたかどうかは分からない。
それでも、その未来は本当にやって来た。
「ねえね!」
綾菜が呼ぶ。
「はーい」
「うにゃだらぱ〜!」
「なんで最後それなん!」
「あじゃぱー!」
「慶太郎まで!」
光子と優子が大爆笑。
春介と春海も笑う。
アキラも笑う。
そして美香も、また笑った。
こうして。
あの日、那珂川の欄干から身を乗り出し、自ら命を手放そうとした一人の少女は――。
長い年月を生き抜き、
愛する人と出会い、
母になり、
音楽家になり、
仲間と世界を巡り、
自分の経験を誰かの希望へ変え、
そして祖母になった。
その腕には、新しい命がある。
その周りには、大切な家族がいる。
部屋には音楽が流れている。
そして何より、
笑い声が響いている。
美香の人生は、絶望の橋では終わらなかった。
あの日の先には、
こんなにも騒がしく、
こんなにも温かく、
こんなにも愛おしい未来が待っていた。
美香は綾菜を抱きながら、静かに笑った。
「うち、生きていてよかった」
その言葉の向こうで、ピアノの音が鳴った。
慶太郎のおもちゃのラッパが続いた。
そして家族の笑い声が重なった。
それは、美香が生涯をかけて作り上げた、
世界でたった一つの――
帰る場所。
『帰る場所 その先へ ― 綾菜と慶太郎 ―』
完




