全ては、ここから。
神様、お願いします。
もし、願いを叶えてくれるなら、どうぞ、どうぞ。
あの人と別れられますように―。
―――貴方様に、絶対の愛と忠誠を―――
朝7時45分。
玄関先では、我が家の毎日の恒例行事がある。
それは、母の持ち物チェックだ。
「ハンカチ持った?」
「うん」
「ティッシュは?」
「持った」
「携帯は?」
「入れた」
「あ、そうだ」
母は何かを思い出したのか、その表情が変わっていく。
それは、そう、小言を言う時見せる眉間のしわが、母の感情を教えてくれる。
「昨日、携帯電話の明細が来ていたけど、ちょっと今月、使いすぎじゃない?」
「いくらだった?」
「1万円」
「朋子もそれぐらいって、言ってたよ」
母の顔は、ますます怒りの表情へと変わっていく。
「人の家は人の家。電話代とか、凄く高くてびっくりしたわ。どうにかしないと駄目よ」
母も私も、携帯の料金の仕組みが分かっていない。
日本に帰ってきて、2年目だというのに、日本の携帯の料金制度は難しすぎる。
「今度1万円だったら、自分で払ってね」
「えー!?」
「言ったでしょ?お父さんはあと30年ローンを払っていかなければならない身だし、
あなたも高校生になったのだから、アルバイトして、自分のお小遣いを自分で稼いだら?」
我が家の権力者の発言に、抵抗できるだけの力は、私にはまだない。
「・・・はいはい。じゃあ、行ってきます」
私は母の小言から逃れるように、そのまま門を開け、学校への道を走った。
夏の朝は好きだ。
暑いけど、どこか清々しくて。
真っ青な空に浮かぶ白い雲のコントラストが絶妙で、
今日1日頑張ろう、という気にさせてくれる。
「りん!おはよ」
「あ、おはよ!」
背後から親友の朋子の声がした。
「今日の宿題やった?」
「うん、一応ね」
「お願い、後で写させて~」
ここ私立風涼高校で、私は最初の夏を迎えようとしていた。
朋子は私の親友で、小学校から一緒の、いわゆる幼馴染だ。
明るくてちょっとお節介だけど、気の置けない、私の大切な友人である。
「もう。ちゃんと自分でやらなきゃ駄目だよ」
しかし、勉強はあまり好きではないようで、テスト前以外に勉強する姿を見たことは無い。
もっとも、要領は良いようで、だからこそ、風涼高校に一緒に入学できたのだろうけど。
「そうそう。夏休み、バイトをやろうかと思っているんだよね」
「私も今、お母さんにバイトしろって言われているの」
「本当に?じゃあ、今度一緒に求人誌見てみよう」
朋子と喋っていると楽しい。
どんな事だって、面白いものに見えてくる。
「・・・あ、ちょっと、ちょっと、りん。見て」
朋子が指差す方には、女子生徒たちの群れができていた。
中には豪勢に飾りつけたうちわを持っている人もいる。
そこは学校の門の近く。
中にはうちの高校以外の女子生徒も混ざっているようだ。
「まぁ、今朝もリッチにベンツで送迎ですか。良い身分だこと」
朋子が皮肉交じりに呟いた相手。
「きゃー!!悠君よ!」
「おはようございます!!悠君!!あぁ、今日も変わらずに素敵・・・」
黄色い歓声やため息で包まれる中、一人の男子生徒が黒いベンツから出てきた。
歓声はその大きさを増し、興奮が一気に上昇していく。
「おはよう。みんな朝からわざわざ会いに来てくれてありがとう」
中心で爽やかな笑顔を振りまいている男子生徒。
名前は、確か、・・・櫻田悠と言ったはず。
風涼高校で、彼を知らない人間は恐らくいない。
あまり人の名前や顔を覚えられない私ですら、彼の事は一応知っている。
「ねぇ、この前ね、悠君のCDにサインしてもらったんだー」
「私なんてね、舞台公演のパンフレットにサインしてもらったんだから。しかも名前入り」
「ずるいー!1日でも良い、下僕でも良い、一緒に居られないかな~」
(下僕として?そんなの嫌じゃないかなぁ)
聞こえた話に疑問を覚えつつも、その場を通り過ぎていく。
通りすがる女の子たちも、櫻田悠の話ばかり。
そういえば、街中のポスターでも、彼に似た、いや、正確には彼本人のポスターをよく見かける。
「・・・朝からすげぇな」
テンション低めの声で後ろから声をかけられた。
どき、と心臓が一瞬だけ高鳴る。
毎朝、いつ彼の声が聞けるのか、それが楽しみでしかたない。
「あ、恭一君。おはよう」
振り向くとそこには、少し色黒の、背の高い男の子が一人。
「おはよ」
中学時代同じクラスメイトで、Cクラスにいる島田恭一君だった。
眠たそうな目だったが、どうやら女の子たちの歓声で目が覚めたのだろう。
あくびをしながらいつの間にか私たちの後ろに立って、大きな人だかりの方を見ていた。
「相変わらずご苦労なことだな、櫻田も朝から大変だろうに」
「そうでもないでしょう。あんなに嬉しそうに笑っちゃって」
朋子が皮肉を込めるように言う。
言われる通り、櫻田君の笑顔はすごい。
爽やかそのもので、見ているだけで女子のハートを鷲掴みにする・・・らしい。
まるでメドゥーサに囚われた者達の様に、周囲の女子たちは櫻田君の笑顔にくぎ付けになっている。
「あはは。でも、凄いよねぇ、あんなに人がたくさん来るなんて」
いつの間にか私の隣に立っていた恭一君は、櫻田君の方を眺めてあくびをしていた。
「・・・まぁ、アイドルだからな」
「私はああいうの、好きじゃない。アイドルってだけでちやほやされちゃって」
朋子がぷい、とそっぽを向いた。
――櫻田悠。
今、日本の芸能界でトップを走る人気アイドルらしい。
さらさらと流れるような黒髪、
白い肌、
ぱっちりした目、
長いまつげ、
少し彫が深いけど、甘いマスクをしている。
声は高すぎることもなく、低すぎることもなく、丁度良い音程で、とても柔らかく優しい。
クラスのファンの子が、休み時間にそう話してくれたことを思い出す。
CDデビューにドラマに映画に引っ張りだこ・・・だそう。
しかも噂によれば、授業もきちんと出席しているらしく、試験の成績も悪くないらしい。
更に、スポーツもできるらしく、
体育祭や球技大会ではいつもエースとして出場する。
要は、容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能。
それに加えてトップアイドル。
恐らくうちの学校の女子の8割が、彼のファンクラブのメンバーである。
「こんなものじゃないだろう。本来のあいつの人気なら。
あれでも相当撒いて学校に来ているらしいって本人が言っていたな」
「まぁ、りんはテレビ見ないからね、あまり知らないんでしょう?」
「え、まぁ、えへへ」
実は私ぐらいだった。
この高校に入るまで、彼を知らなかったのは。
「そういや、りんって帰国子女だったよな?」
「そうだよ。小学校の3年から中学2年の途中までアメリカにいたんだよ。前も言ってるでしょ」
朋子が恭一君に代弁してくれた。
そう、私はいわゆる帰国子女である。
父の仕事の関係で、アメリカで5年近くを過ごした。
インターネットが普及した現代でも、アメリカで暮らしていると、やはり日本の芸能情報には疎くなってしまう。
大きなニュースは、親が日本の新聞を持っていたり、
インターネットですぐ見たりできるから分かるけど、わざわざ芸能情報までは見ない。
アメリカにいれば、むしろアメリカの芸能情報の方に興味を持っていないと、友達についていけない。
「・・・ま、俺もあんまり興味ないけどねぇ」
「へぇ、その割には櫻田君と仲良いらしいじゃん?恭一」
朋子と恭一君は仲が良い。
中学校でずっと同じクラスだったらしく、
私が帰国した時、朋子と一緒に私を迎え入れてくれた一人だった。
いじめられたらどうしよう、と心配していたが、朋子と恭一君がいてくれたから、私はクラスに直ぐになじめることができた。
だから、2人は私にとって本当にかけがえのない存在で、
こうやって同じ高校に通えるのはすごく嬉しかった。
「あ?だって同じクラスだし、席も隣だし、そんなのは当たり前だろう?
それに、あいつ性格は悪くないし。普通に良い奴だよ」
ということは、容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能、おまけに性格も良い。
どうりで女の子たちが騒ぐ訳である。
「へぇ・・・。有名人の割には性格が悪くないって、珍しいんじゃない?」
「まぁな。忙しいはずなのに、毎日学校来て、ちゃんと宿題もやっていて、試験も成績は上位に食い込んでいるし。しかも周囲には気を配れるし。男だって嫉妬なんかできる余裕ないよ。どんだけ完璧なんだよって思うけど」
「ま、恭一とは雲泥の差よね」
朋子がにやり、と笑う。
「おい、お前、今の何だよ」
朋子が舌を出しているのに対して、恭一君が片手で殴るようなそぶりをする。
それは私にとって、2人がじゃれ合っているように見えた。
ずき、と胸の奥が痛い。
ずっと前からそうだったはずなのに。
どうしてだろう。
最近、何故か、そんな2人を見ていると、心がざわつく。
2人が仲よく話していたり、じゃれあっていたりするのを見ていると、
何となく胸がつかえるような感じを、私は覚えていた。
ずきずきずき、と痛みが止まらない。
仲良いのは昔からで当たり前なことなのに、
何だかそれが、どうしようもなく、面白くなく感じてしまっていた。
そういう風に思う自分が、これまた嫌で仕方ないのに。
「ね、りん」
「・・・え?あ、ごめん、何?」
「何ぼーっとしているのよ。今日のお昼も、恭一の教室で食べようって言ったの」
「あ、うん。そうしよう」
2人は既に私より少し前を歩いていて、朋子が私に向かって手招きをしていた。
私は急いで2人の後を追う。
「さてさて。裏門から参りますか」
櫻田悠が登校してくる時間は、決まって正門が異常に混雑する。
これを潜って校内に入ろうとするのは至難の技だろう。
私たちは少し遠回りして、裏門へと向かった。




