後編
飛行のまま扉から出て行こうとする私に、
「待って下さい!」
と切羽詰まった声がかけられた。
「待って下さい。不躾で申し訳ありませんが、どうしてもお願いがあるのです」
おそるおそる近づき私の顔色をうかがいつつ頭をさげるのは、最初に兄を糾弾した少年だった。その後ろには、父親らしき男性が女の子を抱いて立っていた。
私はピンときた。
「過去の映像を見たいのですね?」
何度も少年は頷く。
「妹に母の姿を一目見せてやりたいのです。過去を見るなんて魔法を誰も使えません。お願いします」
必死な様子の少年の顔色は悪い。
先ほどの映像を見た後なのだ。少年にとって私は、可哀想な被害者であると同時に容赦のない断罪者でもある。そして、奇跡のような魔法を使う絶対者でもあった。
私は彼を見た。
〈好きにするといい〉
強すぎる力は人に恐怖を与えることもある。得体のしれない、ボロボロの姿の私も不気味なことだろう。それでも少年は、妹のために私に頭を下げた。
ユリアーヌには与えられなかった、やさしい気持ち。
私はその欠片に触れたいと思った。
「数分でもいいかしら?自分以外の人の過去を見るのは難しいの」
少年の顔に喜色がひろがる。
私はパチンと指を鳴らした。
少年たちの前に1メートル四方の映像があらわれた。
横たわる女性と、今よりは幼い少年の姿と赤子を抱いた父親の姿が映る。
女性が途切れ途切れに言葉を綴る、やさしく綺麗な音楽のように。
夫の名前を、少年の名前を、赤子の名前を。
愛している、と繰り返す。
幸せになって、と繰り返す。
夜空いっぱいに星が煌めいているような愛情に満ちた黒い瞳が、夫を少年を生まれたばかりの赤子を見て閉じられる。
フッと映像が消えた。短い、たった数分間の母の姿。
泣いている3人のうち、父親に私はきいた。
「奥様の化粧台は残っていますか?」
父親は私の質問に怪訝そうに、泣いている顔を見られて恥ずかしそうにしていたが答えてくれた。
「妻の部屋は、そっくりそのままの状態で今もあるが…」
「奥様は手紙を残されています。引き出しが2重底になっています」
医療の進んでいないこの世界では、出産も命の天秤にのるものだった。そのため万一に備えて母親は手紙を書いたのだろう。
「ありがとう!」
父親は金貨の入った小袋を。少年は自分の服についている純金の飾りボタンを全部むしって。妹は宝石のついた髪飾りを。
私の手に押しつけ、幾度も感謝の言葉を重ねて帰っていった。
そして私も飛行で屋敷から飛んで出た。
「ありがとう、だって」
〈ユリアーヌに聞かせてやりたかったな〉
あの子が、聞いたことも言われたこともない言葉。
13年後。
私は女の子を産んだ。
生まれたばかりの娘を見て、私は涙を流した。
彼も嬉しげに泣いている。
「生まれる前から愛していたわ。あなたの本当の父と母になれるなんて、ありがとう生まれてきてくれてーーユリアーヌ」
産声よ、このなき声は、なんと尊く清らかなのだろう。
繰り返し響け、生まれた声よ。
繰り返し奏でよ、このなき声は幸福の調べ。
ごめんなさい、おなかすいた、痛い、苦しい、寂しい、だけが言葉ではないの。
冷たい目、蔑む目、なぶる目、だけが眼差しではないの。
世界には、やさしい言葉がたくさんあるの。美しいものもたくさんあるの。
花が百花を競うように咲きこぼれる麗らかな春月も。
風が暑い息となって流れ星のように光る溌剌とした夏月も。
水が清く染め上げられ冷たくなる物憂げな秋月も。
雪が全ての色をその身に埋めつくして輝く厳しい冬月も。
空も、海も、大地も、星降るように水が囁くように花がひとひらふたひら香るように、私も彼もあなたを愛している。
私と彼とあなたと、幸せに。
私は、あなたの幸せを願う。
お読みくださり、ありがとうございました。