教師と座敷童
それは一方的な戦いだった。
一方的に都己が飛び掛かり、一方的に蹴りを放ち、そして一方的にいなされて都古の反撃の拳を叩きつけられていた。
おおよそ十回目の邂逅も、最終的には都古に軍配が上がった。
怒涛のようなパンチとキックのラッシュが全て回避され、がら空きになった右の脇腹に都古のワンインチパンチが突き刺さり、たったそれだけで都己は呼吸を乱して大きく飛び退く。
「ぐっ……ぁ……」
何とか構えを取ろうとはするものの、そのダメージの蓄積は誰が見ても明らかなものだった。
逆に呼吸どころか詰襟ひとつ乱してない都古は、悠然と両手を広げて都己に笑みを送る。
「どうしたの、都己? 貴女はそんなものなの?」
「なにを……!」
声に出して威嚇しては見たが、都古との実力差は歴然だった。
パワーが違う。スピードが違う。テクニックが違う。
視野が違う。判断力が違う。反射神経が違う。
何から何まで。
誇張などではなく、ありとあらゆる能力において、都己が都古に勝っている要素が存在していなかった。
一卵性の双子だというのに。
まったく同じ容姿だというのに。
これまで共に生きてきたというのに。
「……でも」
そう、それでも。
そんなことは百も承知だった。
己と同じ顔で、己とは全く異なる笑顔を浮かべているこの姉に、神谷都己が勝てる道理などそもそも一ミリも存在していない。
そんなあたり前のことは、彼女の妹としてこの世に産まれたときから知り尽くしていた。
それでも、負けられないから自分はここに来たのだ。
それでも、負けたくないから自分はここまで来たのだ。
「こんなところで、いちいち躓いていられるかぁー!」
コンクリートジャングルが震えんばかりの声量で、都己は大きく叫びを挙げた。
同時に、今度は比喩ではなく本当に周囲の空間が捻じれて振動した。
都己の体が淡い光を発し、周囲に旋風が舞い上がり、それでは足りないと肩甲骨の辺りが弾けて制服の下から光の奔流が溢れ出す。
それは、翼と美化するにはあまりに小さく鋭利で、どちらかと言えば獲物を切り裂くための刃のように見えた。
都己は胸いっぱいに空気を吸い込むと、完全に表情を切り替え、強い決意を秘めた瞳で都古を見据えた。
都古も、そんな都己を見て誇らしげに目を細める。
「それが都己の手に入れた力、ですか」
「そうよ。あんたに一撃喰らわせてやるために、あたしが選んだ力」
だから。と、都己は左足を大きく踏み出して右ストレートの姿勢を作った。
それでは。と、都古は右足を大きく引いて招き入れるように左手を差し出す。
「それが本当に私に届くのか、試してみなさい、都己」
「言われなくてもぉー!」
背中の刃が爆発した。
飛び出す、というより吹き飛ばされるような形で都己の体が加速し、渾身の一撃が都古の顔面目掛けて放たれる。
都古は左手でそっと包み込むように拳を受け止めると、闘牛士のように華麗に体を回転させて衝撃を全て後方へ受け流した。
結果として、都己は都古の脇を通り抜けて、十メートルは過ぎ去ったところでようやくその勢いを止める。
「……」
拳を振り切った姿勢で固まっていた都己は、そっと腕の力を抜くと後ろを振り返る。
そこにはニコニコと笑みを浮かべたまま、左手を押さえて脂汗を垂らしている都古の姿があった。
都古の左手には、都己が放っているものと同様の光の粒子がまとわりついており、それがバチバチと放電するように小爆発を繰り返している。
「……なるほどね、これが『自身の存在をエネルギーに置換する外法』か。……ちゃんと調べてたつもりだったけど、ここまで強烈だとは思いもしなかったわ」
「今のは上手く中和したみたいだけど、次は外さないよ。今度こそあんたに直接“コレ”を叩き込んで、粉々に吹き飛ばしてやるから」
冷淡に言葉を返しながら、都己は胸の前で右手を握りしめた。
その甲に鷹を模したような光の紋章が浮かび上がる。
きっとそれは都己の力を凝縮したものであり、そしてフェイクなのだろうと都古は把握した。
紋章など関係ない。粉々どころか血肉も残さず蒸発するようなエネルギーは、他でもない神谷都己という存在そのものから放たれているのだから。
最強の矛であり、最強の盾であり、矛盾すら突き抜けて“敵”を撃ち滅ぼすためだけの力。
神谷都古を倒す。その一点を果たすためだけに培われた能力。
都古は誇らしげに顔を上げると、皮が溶け肉が剥き出しとなった左手を構わず己の前に突き出す。
「捕らぬ狸のなんとやら。こんな早くて重いだけの一撃で、ただガード不能技が使えるようになったと言うだけで、もう私に勝ったつもりですか、都己?」
「勝ったつもりなんかじゃない。……これから勝つのよ!」
ドン!と、再び都己が加速した。そして己が発した爆発音すら突き破って、都己は都古の下へと肉薄する。
都古は何慌てることなく、先ほどと同じように左手をかざして半身を引いた。
左手を犠牲にして攻撃を流し、生み出した隙に防御フィールドごと都己の内臓を破壊する。いかに攻防一体の能力と言え、苦痛で意識が乱れれば常時発動はできないだろう。
グシャリ。
落ち着いて対処法を思考していた都古の耳に、そんな音が届く。
不審に思って意識を現実に戻すと、都己の拳を流すはずだった左手が、まるで枯れ枝のようにへし折れて自分の腹部に押し付けられていた。
視線をズラすと、憮然と拳を突き出している都己と目が合う。
「……ありゃりゃ」
都古が困ったように苦笑した直後、鷹の紋章が光を発して大爆発を起こした。
避けるも受けるもなく爆風に吹き飛ばされた都古は一直線に宙を舞い、遥か彼方にそびえるビルの三階外壁に叩き付けられて、ようやく動きを止める。
体がコンクリートに半分以上めり込んだ状態で、都古は初めて苦痛に表情を歪め、必死になってまぶたを開いた。
遠く下界では、自分の足元に紋章を生み出した都己が、爆発に乗って飛び出してくるところで。
肉体を守るために犠牲になった左腕は、肘から先が存在していなかった。都古は唯一自由な右手を横に伸ばすと、ほどよく手が届くところに存在した窓のガラスを叩き割り、ベキベキと外枠ごとフレームを壁から引きはがす。
正しく砲弾と化した都己はもう目と鼻の先まで迫っていた。
都古は右手を振りかざし、手にしたフレームを円月輪代わりに都己目掛けて投げつける。
コース取りはばっちり。フレームは都己の体を袈裟斬りにする軌道を描いて突き進む。
次の瞬間、都己の腹部に小さな紋章が出現し、小爆発を起こした。
それに吹き飛ばされる形で、都己の体が上方向へと跳ね上がり、長い髪の先端をフレームがかすめて切断する。
「な、再点火っ?!」
今度こそ、都古は素の表情で驚きの声を上げた。
そして慌てて都己の姿を探して顔を空へ向け、同じく空中から都古を見つめている都己を発見する。
上下が逆さまになった都己は、まるで満月を足蹴にするように屈み込み、都古へ向かって照準を定めていた。
眩しげにそれを見上げた都古は、諦めたような、そして満足したような笑みを浮かべて目を閉じる。
「うらああぁぁぁっ!」
爆発音を伴って、都古の胸に都己の飛び蹴りが突き刺さった。
その衝撃だけで都古の体はコンクリートの中へと完全に埋まり、トドメの紋章の爆発で外壁ごとビルの奥深くへと吹き飛ばされる。
反対に、都己は反作用を利用して大きく宙返り。ちょうど先ほど自分が立っていた場所へと、完璧な着地で舞い戻った。
目を向ければ、見事に陥没したビルからボロボロと欠片がこぼれ落ちている。
「……」
都己は一切表情を緩めなかった。いやむしろ、より険しい表情で穴の開いたビルを見据えている。
直後、ズシンと大地が震動した。
震源地は穴の開いたビル。そのビル全体が鳴動し、まるでハウリングを起こしたかのように奇妙な悲鳴を上げていた。
ビルのひび割れは見る見るうちに全体に広がり、関係ない場所のガラスも砕けて地面に落ちる。
刹那、全ての音が止まった。
時が止まったかのようにあらゆるものが静まり返り、そして次の一瞬で、蒸発する。
ワタアメが溶けるように、音もなく、熱もなく、余韻すら残らず。
あれだけ存在感を放っていた高層ビルが、一棟丸々儚い泡の如く闇夜に溶けて消滅した。
そうして生まれた空間に、悠然と浮かんでいたのは一人の少女。
両肩に黒いマントのような物質を侍らせた都古は、普段と何変わりなく慈愛の笑みを称えていた。
左腕もまるで何事もなかったかのように制服ごと再生しており、その両腕を、全てを受け入れるように大きく広げる。
「……ああ、やっとここまで。……やっと、私の領域まで来てくれましたね。都己」
「……やっとよ。……やっと、あんたの領域に喰い付けた」
都己は自然体に立つと、何をするでもなく、ただ見せ付けるように都古へ向けて右手を掲げた。
都古はクスクスと楽しそうに笑いながら、ゆっくりと降下して都己の数メートル前に着地する。
「それでこそ私の勇者様です。本当に、本当に本当に本当に。……ああ、本当に待ち遠しかったわ」
「そりゃどうも。それで、ようやく本気になってくれたあんたは、次にいったい何をするつもりなの?」
「そうですね……」
都古は「う~ん」とわざとらしく視線を彷徨わせた後、優雅な動きで右手を掲げた。
それに合わせて背中のマントが意思を持って蠢いたかと思うと、その一部がスライムのように千切れて都古の手に絡み付き、ドリルのような円錐を作り出す。
「必殺技対決、なんて言うのはいかがでしょうか?」
「ああ、それは、最高だね」
都己も不敵に笑いながら右足を引くと、全力でジャンケンをするかのように体を丸めて力を溜めた。
体の光が右脚に集まり、地面には鷹の紋章が大きく浮かび上がる。
「あたしも一回試して見たかったんだ。あんたの“ソレ”と、あたしの“コレ”。いったいどっちの方が威力があるんだろうって」
「あらあら、同感です。私も前々から証明したかったんですよね、私の方が絶対に強いんだって」
「……気が合うじゃん」
「……当然じゃないですか」
都己の紋章が弾けんばかりの光を放ち、都古のドリルが極限まで回転数を上げる。
二人の力は、まさに一触即発にまで高められていた。
「それじゃあ」「いきますか?」
光と闇が交錯した。
「ストレートジャスティス!」「カオスロジック!」
◇ ◇ ◇
ズシン。と根深い振動が地面を揺らしたように感じて、その少女は顔を挙げた。
赤い無地の着物を凡庸に着こなした小学校高学年くらいの少女。
長い黒髪を三つ編みに束ね、それを首に回して肩から胸へ垂らした少女は、目を開けて朱塗の瞳を見開くと、振り返りながら視線を障子の向こうへと向ける。
場所は広くも灯かりのない、薄暗い和室の中央。
二十畳はありそうなその部屋の中央で背筋正しく正座していたその少女は、スッと立ち上がり慎ましやかに足袋を擦って障子の方に近づく。
障子を開くと、鎧戸もない開け開かれた廊下から満月の光が差し込んだ。
明暗の差に軽く目を細めた少女は、あらためて空を見上げて満月を見やる。
闇空は何も答えず、ただあたり前のように柔らかな反射光を、少女の住まう山中の古ぼけた旧家に降り注いでいた。
「……結、どうかしたのかい?」
背後からか細い声を掛けられて、結と呼ばれた紅い少女は後ろを振り向く。
暗くて良く分からなかったが、先ほど少女が控えていた場所のすぐ隣には布団が敷いてあり。その布団に横たわっている老体と呼んでも不躾でないほど皺枯れた男は、薄っすらとまぶたを開けると少女に優しく微笑んだ。
少女は微かに眉を顰め、小さく首を振る。
「左様もございません。……申し訳ありませんでした、起こしてしまいましたか?」
「いいや、自然と目が覚めただけだよ。ああ、今は夜中なんだね」
「はい。月明かりの綺麗な、静かな夜にございます」
少女が障子を閉じようとすると、老人は視線でそれを引き留めた。
夜風の冷たさが気になったが、少女は障子から手を放して老人の隣へと戻る。そして使用人のような適度な距離感で正座に戻ると、凛とした表情で目を閉じ黒子のように老人の脇に控えた。
老人は「ふふふ」と力なく笑いながら、細く痩せこけた手を少女に向かって伸ばす。
「今は誰も見ていないんだ。もっとこっちに来なさい」
「……はい」
少し逡巡してから、少女は軽く膝を寄せ、老人が伸ばした手を握りしめた。
老人は少女の暖かさを感じた後、その手をさらに掲げて今度は少女の頬を撫でる。
「やっぱりだ。月が照らす君の顔は、僕の霞む目でもハッキリと美しく映るよ」
「……翁様」
「もっと、もっとこっちに来ておくれ。その優しい瞳がもっとよく見えるように」
老人に促されて、少女は膝立ちとなり、覗き込むように顔を近づけた。
老人は甘美的な吐息を吐きながら、親指を動かして少女の頬の柔らかさを感じる。
「ああ、君とはあと何回こうして言葉を交わせるのだろうか。もしかしたら、これが最後になるのかも知れないね」
「……そんな……悲しいことは……仰らないでください」
「でも事実なんだよ。……僕は君を置いて逝かなければならない」
疲れたように目を閉じたが、それでも少女を撫でる手は止めなかった。
「君は強い子だ、僕がいなくてもきっとやっていけるだろう。そのことに心残りはない。……でも一つだけ」
「はい、ご安心ください。貴方の学び舎は、貴方の子供たちは、この学園の座敷童である鷹狩結が、立派に育てて見せますから」
「そうだね。君がいてくれれば、君がいてくれるのなら、間違いなくご安心だ」
老人はもう一度「ふふふ」と笑うと、少女から手を離す。
正確には、手を掲げる体力もなくなっただけなのだろうが。
少女は老人の手にそっと自分の両手を重ねて、今にも泣いてしまいそうなほど赤い瞳に涙を溜めながら、それでも優しく微笑んで見せる。
「ほんの少しだけ待っていてください。異路同帰。全ての子供たちが学び舎を去った暁には、必ずや結も、貴方様のお傍に参りますので」
「“全ての子供たち”か。ふふふ、それはとても気の遠くなるような……待ち遠しい話だ」
「はい、きっと瞬刻の間です」
少女は満面の笑みでそう答えると、遂にこぼれた涙を隠すように老人の胸に自分の顔を埋めた。
老人はそれ以上何も話さず、少女の頭に優しく手を被せる。
ズシン。ズシン。と振動は続く。
何かトンデモなく末恐ろしい事件が現在進行形で行われているのだろうという確信。
そのことに、自分たちもあながち無関係ではないという直感。
しかし、そんなことはもうどうでもよかった。
少女は余計なことを考えないように目を閉じる。
……たとえ2秒後に世界が終わるのだとしても、とりあえず今はこの老人との蜜月を甘受しておきたかった。




