第2章・第15話:底なしの海と、治外法権への鉄槌
第2章・第15話:底なしの海と、治外法権への鉄槌
リュウキア州の北部に位置する『ヘノーコ湾』。
そこは本来、希少な魔獣や数百種類の美しいサンゴが生息する、王国でも指折りの美しさを誇る海だった。しかし今、ヴィクトルとアレンの眼下に広がるのは、その瑠璃色の海域を無残に分断する巨大な土砂の山と、絶え間なく鳴り響く重機の駆動音だった。
王都の強行によって始まった、アーメリア軍の巨大な新基地建設の埋め立て現場である。
「……狂っているな。まさに税金の『底なし沼』だ」
海に次々と投げ込まれる土砂を見下ろしながら、ヴィクトルは手元の資料を叩いた。
「カイエン総督から極秘に提出させた、この新基地建設の予算書だ。当初、王都の国防派閥は『数年で完成し、費用も三千万金貨程度に収まる』と国民に説明していた。だが実態はどうだ?」
「どうなんだ?」
「このヘノーコ湾の海底は、マヨネーズのようにドロドロの『超軟弱地盤』だったのだ。いくら土砂を放り込んでも、自重で海底に沈み込んでいく。それを固めるための特殊な魔法工法が追加された結果、総工費はすでに当初の三倍……一億金貨近くにまで膨れ上がっている。しかも、現時点でその予算の七割近くを消費しておきながら、いまだに全体の地盤改良すら終わっていないのだぞ」
アレンは呆れたように口笛を吹いた。
「おいおい。じゃあ、完成まであと何年かかるんだよ?」
「『数十年掛かっても終わらない』と現場の魔導技師が悲鳴を上げている。予算のさらなる増額は絶対に免れない。……にもかかわらず、王都の連中は『同盟国との約束だから』という理由だけで計画を撤回せず、国民から絞り上げた血税を、この海に文字通り捨て続けているのだ」
自国民の声を無視し、他国のために無限の税金を海に投棄する。それが「思いやり」という名の、独立国家としての尊厳を完全に見失った王都の姿だった。
「経済を回すための積極財政ならともかく、こんな不毛な事業に国富を注ぎ込むなど、経済への冒涜だ。一刻も早くこの狂った茶番を終わらせなければならない」
ヴィクトルの言葉に、アレンもまた冷たい怒りを瞳に宿して頷いた。
* * *
視察を終え、二人が州都の中心街へ戻ってきた時のことだった。
酒場が立ち並ぶ大通りの一角で、人だかりができ、悲鳴が上がっている。
「や、やめて! 離してください!」
リュウキアの伝統的な織物を着た若い娘が、大柄なアーメリア兵三人に壁際へ追いつめられ、腕を掴まれていた。周囲には現地の島民たちや、リュウキアの警備隊員までいるというのに、誰も助けに入ろうとしない。いや、警備隊員たちは武器を下ろしたまま、悔しそうに歯を食いしばり、震えているだけだった。
「いいじゃねえか! 俺たちアーメリア軍がこの島を守ってやってるんだ、ちょっとくらい遊ばせろよ!」
「おいそこの警備隊! 引っ込んでろ! 俺たちには『同盟国地位協定』があるんだ! 現地のネズミ共の分際で、同盟軍の兵士を拘束してみろ。王都が黙っちゃいねえぞ!」
酒の臭いを撒き散らす兵士が、警備隊員に向かって傲慢に唾を吐き捨てた。
治外法権。王国の法では彼らを裁けないという絶対的な盾が、兵士たちを傲慢な化け物に変えていた。娘の着物が乱暴に引き裂かれそうになった、その時。
「……王国の法が裁けねえなら、俺の『物理法則』で裁いてやるよ」
冷ややかな声と共に、風が吹き抜けた。
「あ?」
アーメリア兵が振り返るよりも早く。
ドンッ!! という鈍い破裂音が響き、娘を掴んでいた大男の顔面が、ゴム毬のようにひしゃげて壁にめり込んだ。
「ごぶッ!?」
白目を剥いて崩れ落ちる巨漢。残りの二人が何が起きたか理解する前に、アレンの姿がブレた。『生体力学の躍動』によって最適化された筋繊維が、常識外れの速度と質量を生み出す。
「て、てめぇ! 我々をアーメリア軍と知って——」
ガッ!
アレンの蹴りが、言葉を紡ごうとした兵士の顎を正確にカチ上げた。顎骨が砕ける不快な音と共に、兵士の体が宙を舞い、気絶したまま地面に叩きつけられる。
わずか二秒。三人の屈強なアーメリア兵が、一人の青年の素手によってゴミくずのように転がされた。
「ひっ……!」
周囲の島民と警備隊員たちが、息を呑んで後ずさる。
そこへ、騒ぎを聞きつけたアーメリア軍の憲兵(MP)の小隊が、十数人で駆けつけてきた。
「何事だ! 貴様、同盟国の兵士に向かって何という真似を! 協定違反で直ちに死刑にしてやる! 武器を捨ててひざまずけ!」
憲兵の隊長が抜刀し、アレンを取り囲む。
しかし、アレンは顔色一つ変えず、懐から愛用のリボルバー式拳銃を抜き放つと、迷うことなく憲兵隊長の足元の石畳に向けて引き金を引いた。
ダァァァンッ!!
「ひぃッ!?」
弾け飛んだ石の破片が憲兵の頬をかすめ、血が滲む。魔法の詠唱すらない理不尽な破裂音に、憲兵たちが一斉に足を止めた。
「協定違反? 死刑? 笑わせるな」
そこへ、ヴィクトルが静かな足音を立てて歩み寄り、冷徹な視線で憲兵たちを見下ろした。
「王都の腰抜け共が結んだ不平等条約など、我々には一切関係ない。我々は王都から独立した完全自治領『ヴォルフスブルク』の領主であり、この男は我が私兵団の団長だ」
「ヴォルフスブルクだと……!? あの、ゼムリャ軍を全滅させたという……」
憲兵たちの顔に、明らかな動揺が走った。軍人であれば、東の国境で起きた異常な殺戮劇の噂は耳にしている。
「よく聞け、アーメリアの寄生虫ども。本日、我々ヴォルフスブルクは、このリュウキア州が抱える莫大な負債を『領地債』にてすべて肩代わりし、この島を我々の経済的な保護下におく手続きを完了させた」
ヴィクトルは、カイエン総督の印が押された書類をバサリと広げた。
「すなわち、この島の住人はすべて私の保護民だ。私の民に指一本でも触れる者は、いかなる国の軍隊であろうと、我が軍の『近代兵器』によって物理的に排除する。文句があるなら……お前たちの自慢の飛竜部隊を全滅させてから聞いてやろう」
圧倒的な自信。経済的な支配宣言と、圧倒的な暴力の裏付け。
王都の顔色を窺い、法を盾にふんぞり返っていた憲兵たちは、自分たちがもはや「安全な絶対強者」ではないことを本能で悟り、顔を青ざめさせた。
「お、覚えておけ! この件は必ず、我が国の上層部に報告するからな!」
憲兵たちは気絶した兵士たちを引きずり、逃げるように基地の方角へと走り去っていった。
それを見送ったアレンが、拳銃をクルリと回してホルスターに収める。
「ふぅ。とりあえず、現場の連中には俺たちの『ルール』を分からせてやったぜ。あとは、基地の奥にふんぞり返ってる親玉をどうやって引きずり出すかだな」
「時間の問題だ。彼らの誇る軍事的優位性が崩れたと知れば、必ず向こうから牙を剥いてくる」
ヴィクトルは、恐怖から解放されて涙を流す島民たちを見渡しながら、静かに笑った。
「来い、アーメリア。お前たちが搾取してきたこの島で、本当の『力』というものを教えてやろう」
数十年続いた絶望の島に、ついに反逆の狼煙が上がった。
治外法権という見えない鎖は、二人の男がもたらした強烈な鉄槌によって、今、音を立てて砕け散り始めていた。




