第2話「枯れ木に宿る意味のない春」
荒野を歩き始めて二日目の夕暮れに僕は死にかけた。原因は実に単純。水が尽きたのだ。
アルスが渡してくれた三日分の食料と水。その計算は、おそらく正確だったのだろう。普通の人間が普通に歩いて、普通に次の街へ辿り着くまでの量として。しかしアルスは、ひとつだけ計算に入れていなかった。僕が追放された地点から最寄りの集落までの道が、もうまともに「道」として機能していないことを。街道の「距離」がおかしい。
歩いても歩いても景色が変わらない。いや、正確には変わっているのだが変わり方が不連続なのだ。さっきまで右手に見えていた岩山が、いつの間にか左後方に移動している。地平線が微妙に歪んで遠近感が狂っている。まるで、この一帯の地理情報が書きかけのまま放置されているような。これが、僕のせいなのかどうかはわからなかった。
でも、二日目の夕暮れ、空になった水袋を逆さに振っても一滴も落ちてこなかったとき、原因の考察は後回しにせざるを得なかった。喉が灼ける。唇がひび割れている。視界が白く霞む。
膝が折れたのはほとんど不意打ちだった。気づいたら地面に倒れていて、頬に触れる砂の粗さだけが妙に鮮明だった。砂粒の一つひとつが小さな文字のように見える。『乾燥』『摩擦係数:高』『温度:残熱』。もうやめてくれ、と思った。死にかけているときまで世界の「記述」が視界にちらつく。
目を閉じる。暗闇の中で思考だけが無駄に明瞭だった。ああ、ここで死ぬのか。追放されて二日で。勇者にも魔王にも出会わないまま。物語の主人公なら、せめてもう少しドラマチックな死に方をするものだと思ったけれど、現実の「記述」は、そこまで親切ではないらしい。僕は薄れゆく意識の端で、ひとつの疑問に引っかかった。
「渇き」とは何だ?
水分が不足しているから、喉が渇く。細胞が脱水状態になり、脳が危険信号を発する。それが「渇き」の生理学的な説明だ。
しかし、この世界において「渇き」とは属性だ。僕の身体に刻まれた記述の中に、今まさに『水分:欠乏』『状態:脱水』という文字列が書き込まれている。見えている。はっきりと。なら。その「欠乏」という記述を読み替えたら?
頭の奥で冷たい声がする。前回、聖剣の属性を崩壊させたときの、あの制御不能な連鎖反応。何が起きるかわからない。下手をすれば、自分の身体の属性そのものが壊れる。でも、このまま何もしなければ死ぬ。選択肢はなかった。僕は、自分の身体に刻まれた『水分:欠乏』という記述に意識を集中させた。
読め。正しく読むな。
『水分:欠乏』。この「欠乏」を、別の意味に読み替える。欠乏。ケツボウ。その音の響きを、頭の中で何度も転がす。意味を解体する。「欠」は「欠ける」。「乏」は「乏しい」。どちらも「足りない」という意味だ。なら、その「足りない」を「満ちている」と読んだら?
その瞬間、腹の底から冷たいものが這い上がってきた。水ではない。水の感触ですらない。ただ、「渇いている」という認識がぐにゃりと歪んで「満たされている」という認識に上書きされていく。喉の灼熱が引いていく。細胞が求めていた水分が、実際には一滴も入っていないのに「ある」ということになった。
身体が嘘を信じた。
僕はゆっくりと上体を起こした。視界が戻る。手足に力が入る。呼吸が楽になる。生理的には何も改善していないはずなのに、僕の身体は「もう大丈夫だ」と認識している。
成功した、と思ったその直後、足元の砂が変色した。僕が座り込んでいた半径一メートルほどの地面が、砂の黄土色から透き通った蒼に変わっていた。触れてみる。見た目は水のように透明な青なのに、指先に伝わるのは砂の感触だ。「渇き」を「潤い」に読み替えた余波が地面に染み出したのだ。
僕は、じっとその蒼い砂を見つめた。美しかった。夕日を受けて、まるで宝石を砕いて敷き詰めたように輝いている。同時に、どうしようもなく間違っていた。砂は蒼くない。乾いた荒野の砂が、水の色をしている道理がない。これはバグだ。僕が世界に刻んだ、小さな、しかし取り返しのつかない誤字。
「……ごめん」
誰に対してでもなく、僕は呟いた。世界に対してなのか、砂に対してなのか、自分でもよくわからなかった。
歩行を再開した。身体は動く。渇きは感じない。でも、それが「本当に大丈夫」なのか「大丈夫だと誤読しているだけ」なのか、僕には判断がつかなかった。どちらにしても、立ち止まっていれば飢えか魔物が先に来る。歩くしかない。
荒野の景色は相変わらず殺風景だった。赤茶けた岩と、痩せた灌木と、遠くに霞む山脈。ただ、僕の「目」には、それ以上のものが見えている。岩の「硬度」を示す記述。灌木の「生存状態」を示す記述。空気中の「湿度」を示す記述。すべてが、薄い文字の層となって現実の表面に重なっている。
世界はテキストだ。アルスの剣が「鋭い」のも、ベアトリスの盾が「硬い」のも、フィーネの祈りが「癒す」のも、全部そう書かれているからそうなっている。僕が見ているのはその「原稿」だ。そして僕はその原稿を「誤読」できる。それが祝福なのか呪いなのか。たぶん両方だ。
*
三日目の朝、僕は一本の木を見つけた。枯れ木だった。荒野のただ中にそれは立っていた。幹は灰色で樹皮はささくれ立ち、枝という枝がすべて空に向かって骨のように突き出している。葉は一枚もない。根元の地面はひび割れて水気の痕跡すらなかった。鑑定の目で見れば、この木の記述は明瞭だった。
『状態:枯死』『水分:零』『生命活動:停止』
完璧に正確に一分の曖昧さもなく死んでいる。僕はその木の幹に手を触れた。乾いた樹皮の感触。指先に伝わるかすかな脆さ。力を入れれば崩れそうな、死にきった繊維の手触り。
この木は、「枯れている」と書かれているから枯れている。
その認識が頭の中で静かに反転した。なら「枯れている」という記述を「枯れていない」と読んだら?いや、もっと踏み込める。「枯れている」をまったく別の意味に誤読したら?「枯れ」という文字を見つめる。分解する。「枯」の字は木偏に古い。古い木。ならば「古い」を「若い」に、読み替えたら?
指先に力を込めた。物理的な力ではない。認識の力だ。この木の「枯死」という属性を、僕の目が——僕の脳が——「誤って」読む。「枯死」ではなく「生長」。「水分:零」ではなく「水分:溢出」。「停止」ではなく「爆発的活性」。
世界の記述が、僕の手のひらの下で、書き換わっていく。
最初は何も起こらなかった。次の瞬間、指先が温かくなった。いや、温かいのではない。木の幹が脈打っていた。灰色の樹皮に色が戻る。下から上へ。根元から幹へ。幹から枝へ。灰色が褐色に変わり、褐色が深い茶に変わり、そして枝の先端から、緑が噴き出した。芽ではない。
それは、あまりにも速すぎた。枝の先からいきなり、手のひらほどの葉が数十枚、同時に展開した。深緑の葉が風もないのにさわさわと揺れ、木漏れ日ならぬ「木漏れ空」が足元に影を落とす。幹は太く、枝はしなやかに、一本の枯れ木が数秒で、盛夏の大樹に変貌した。
「は」
僕は二歩後ずさった。目の前に立っているのは、荒野にあるべきではない巨木だった。根元には苔が生え、幹の途中にはキノコまで寄生している。どこからともなく虫の羽音が聞こえ、葉の隙間を蝶が舞っている。蝶の翅はよく見ると、色が一定しない。赤になったり青になったり、一拍ごとに変わっている。そして。木の周囲、半径三メートルほどの地面から「乾燥」という属性が抜け落ちていた。
さっきの「蒼い砂」と同じ現象だ。僕が木に「潤い」を読み込んだ余波で、周囲の地面から「乾き」が奪われている。地面は湿り、草が不自然な速度で伸び、小さな水溜りまでできていた。その水は透明だが、映り込む空の色が本物の空より一段階明るい。
記述が矛盾している。水面に映る空が、実際の空よりも明るいなんてことは物理的にありえない。でも、ここでは起きている。僕が書き換えた記述の余波で、因果律そのものが歪んでいるのだ。僕は、震える手で自分の顔に触れた。
「僕は……修復しているんじゃない」
声が掠れた。
「意味を書き換えているんだ」
枯れ木を蘇らせた。いや「蘇生」という言葉は正確ではない。あの木は蘇ったのではなく「枯れている」という意味を剥奪され、代わりに「生い茂っている」という意味を押し付けられたのだ。木自身の意志とは無関係に。季節とも天候とも無関係に。ただ僕が「そう読んだ」からそうなった。
これは回復魔法とは根本的に違う。回復魔法は、世界のルールに従って損傷した記述を「正しい状態」に戻す行為だ。折れた骨を繋ぎ、裂けた傷を塞ぎ、失われた血を補う。そこには「正しさ」がある。あるべき姿に戻すという、世界の文法に沿った手続きがある。
僕がやったのはそうじゃない。「枯れている」を「生い茂っている」に変えたのは、あるべき姿への回帰ではなく、まったく恣意的な「書き換え」だ。もし僕が「枯れている」を「燃えている」と読んでいたら、あの木は炎に包まれていただろう。「沈んでいる」と読んでいたら、地中に没していただろう。結果は僕の認識次第で、どうにでも変わる。
つまり、この力には正解がない。正しい使い方が存在しない。そのことが怖くて、同時にどうしようもなく心が昂った。
大樹の木陰で僕は一晩を過ごした。不思議なもので、この木が生まれた途端、周囲の気温まで変わっていた。荒野の夜は本来凍えるほど寒いはずなのに、木の周囲だけが春のように暖かい。「枯死」を「生長」に書き換えた余波が、気温の記述にまで波及したのだろう。バグの連鎖反応。心地よいが間違っている。
眠れなかった。正確に言えば眠る必要を感じなかった。「渇き」を書き換えたときと同じだ。僕の身体は疲労しているはずなのに「疲労している」という認識がどこかぼやけている。自分の状態を正確に把握できない。鑑定士としてこれほど不安なことはない。仰向けに寝転がって葉の隙間から星を見た。星の記述が見える。
『輝度:微弱』『距離:測定不能』『属性:——』
属性が空欄だった。星には属性が割り当てられていない。あるいは、僕の鑑定の射程が届かないほど遠いのか。どちらにしても、あの光の点々だけは僕の力が及ばない場所にある。それが少しだけ安心できた。まだ僕が壊せないものがこの世界にはある。
「……明日は、どっちに歩こう」
独り言が思ったより寂しく響いた。パーティにいた頃は、進む方向はいつもアルスが決めていた。ベアトリスが護衛の配置を決め、フィーネが休憩のタイミングを計り、僕はただ言われた方向を鑑定するだけだった。今、周囲三百六十度のどこを見ても、僕に行くべき場所を指し示す矢印はない。
ただひとつだけ。この木を中心に、地面の「バグ」がじわりと広がっている方角がある。北東。草が不自然に伸び、地面の色が微妙に変わり、空気の匂いが甘くなっている方角。僕の力の余波が風に乗るように流れていく先。
何があるのかはわからない。でも「何もない場所」にはバグは流れない。何かの記述がある場所に、何か意味のあるものが書かれている場所に向かって、僕の誤読が浸食しているのだ。ならそこに行こう。
理由はない。行く宛がないなら、せめて自分が壊したものの行き先くらいは追いかけるべきだ、というのはたぶん言い訳で。
本当は。この力で何ができるのかもっと知りたかった。僕が触れたものが、意味を変えて、色を変えて、形を変えていくのをもう一度見たかった。それがどれほど危険な欲求であるか、この時の僕はまだ本当には理解していなかった。
*
翌朝。四日目の朝。目を開けて最初に見たのは昨夜はなかった花だった。大樹の根元から一輪の花が咲いていた。白い見たことのない花だ。花弁は六枚で、中心に向かって淡く青みがかかっている。美しいが、鑑定の目で見るとこの花の記述は奇妙だった。
『種別:該当なし』
この花は、図鑑に載っていない。というより、この世界の「記述」にもともと存在しない花だ。僕が木を書き換えた結果、記述の空白を埋めるように、世界が自動的に「でっち上げた」存在。いわばバグが生んだ意味のない生命。
僕はその花に触れなかった。触れたらまた何かが変わってしまう気がした。この花は、僕の力の残響であると同時に世界が僕の「誤読」に対して返した最初の「応答」でもある。それを今の僕が読み取る能力はない。
立ち上がった。荷物をまとめ、外套の砂を払い、北東に向かって歩き始める。振り返ると、荒野のただ中に一本だけ、不自然なまでに青々とした巨木が立っている。その足元に白い花が一輪。
たぶん、あの木はずっとあそこに立ち続けるだろう。枯れることなく、季節に関係なく、永遠に「生い茂って」いる。僕がそう書き換えたから。世界がそれを訂正しない限り、いや訂正「できない」限り。
僕は前を向いた。荒野は広く乾いて何もない。でも、その「何もない」の中に記述の層がぎっしりと詰まっていることをもう知ってしまっている。一歩ごとに世界の原稿が足の裏で軋む感覚がある。
僕の旅はこうして始まった。目的地はない。使命もない。勇者に見捨てられたただの読み手が、世界という書物を自分勝手に読み散らかしていく。




