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第1話「英雄の終焉」

 剣が世界を裂いた。少なくともそう見えた。

 勇者アルスが聖剣ルクスフェリアを振り下ろした瞬間、空間そのものが白い裂傷を刻まれたように割れ、その奥から黄金の光が溢れ出す。光は大気を焦がし、地面を抉り、そして、目の前で咆哮する大型魔獣グラウザーの鱗に正面から突き刺さった。

 轟音。衝撃波が砂塵を巻き上げ、後衛に位置していた僕の外套をばたばたと煽る。


「はは、見たかエリス! これがオレの力だ!」


 アルスが振り返る。汗に濡れた金髪が風になびき、陽光を受けて後光のように輝いている。笑顔は自信に満ちていて、白い歯が眩しくて、要するに完璧だった。見事なまでに、一分の隙もなく「勇者」だった。僕はそれを見て少しだけ息を吐いた。


「……うん。すごいね、アルス」


 嘘ではないのだけれど、僕の視界にはアルスの英雄的な一撃とは別の、もっと根本的なものが映っていた。


 *


 僕の名前はエリス。職業は鑑定士。

 勇者パーティにおける鑑定士の仕事は、端的に言えば「見ること」だ。魔物の弱点、ダンジョンの構造、魔法陣の欠陥。それらを観察し、分析し、パーティに報告する。地味な仕事だ。剣も振れない、魔法も撃てない、盾にもなれない僕にできるのは、ただ「正確に読み取る」ことだけだった。


 少なくともつい最近まではそう思っていた。変わったのは三週間前だ。

 聖騎士ベアトリスが魔物の一撃を盾で受け止めたとき、僕の目に、ほんの一瞬だけおかしなものが見えた。盾の表面に刻まれた防御の魔法陣——その術式の羅列が、まるで「文章」のように読めたのだ。


 正確に言えば、もともと術式とは一種の言語体系だ。だが、あのとき僕に見えたのは術式という「人間が書いたルール」ではなかった。もっと深い層——盾そのものが「硬い」と定義されている、その定義文そのものだった。鉄が硬いのは鉄だからではない。「硬い」と書かれているからだ。そう認識した瞬間、世界の見え方が決定的に変わった。


 *


「エリス、鑑定はどうだ?」


 ベアトリスの声が飛んでくる。

 僕の視線の先には、アルスの渾身の一撃を受けてなお健在なグラウザーがいた。全長八メートルを超える甲殻の魔獣。背中を覆う赤黒い鱗は、この地域で最も硬い鉱石と同等の硬度を持つとされている。アルスの聖剣が放った光刃は、その鱗を砕くには至っていなかった。僕は目を細める。


 見える。

 グラウザーの甲殻を構成する「属性」の記述が、淡い文字列のように浮かび上がる。『硬度:極大』『質量:重厚』『耐熱:高』——そこまでは、まあいい。通常の鑑定範囲だ。問題は、その奥にあった。鱗の内側、筋繊維に刻まれた記述。『攻撃力:甲殻種最上位』と書かれている。しかし、その記述の「参照先」がおかしい。本来参照されるべき基礎パラメータが空欄で、代わりに、まったく別の体系から値を引っ張ってきている。たとえて言うなら身長欄に体重の数値が書き込まれている、というような、そういう根本的な「記述ミス」がそこにはあった。


「…………」


 気づいてしまった。この魔獣の「攻撃力」は正しく定義されていない。本来あるべき値ではなく、どこかから迷い込んだ数値がそのまま「攻撃力」として採用されてしまっている。世界という書物に刻まれた、たった一文字の致命的な誤植。僕の口が勝手に開いた。


「アルス、待って。その魔物の攻撃力——」

「おう! 弱点が見えたか?」

「いや、弱点じゃなくて——そこ、間違ってる」


 沈黙が落ちた。

 アルスだけではない。ベアトリスも、後方で回復魔法の詠唱を続けていた僧侶のフィーネも、全員が僕を見た。僕は自分でも何を言っているのか半分わかっていなかったが、口は止まらなかった。


「あの甲殻の『攻撃力』は、正しく記述されていない。参照元が間違っている。だから」


 だから、それは「攻撃力」ではない。そう認識した瞬間、世界が軋んだ。


 *


 音ではなかった。振動でもなかった。ただ、空間の「意味」が一瞬だけ揺らいだ。誰にも聞こえなかっただろうし、誰にも見えなかっただろう。でも、僕にははっきりと感じ取れた。

 グラウザーが、異変に気づいたように身を捩る。魔獣の甲殻——あの、聖剣すら弾き返した赤黒い鱗が、突然、色を失った。灰色になったのではない。色という概念そのものが抜け落ちたかのように、鱗の表面がのっぺりとした「無」に変わったのだ。


「な……!」


 アルスが絶句する。同時に、グラウザーが振り上げた前脚がアルスの聖剣に触れた。

 硬質な金属同士がぶつかり合う音を僕は予想していた。しかし、聞こえてきたのは粘土を潰すような、鈍く湿った音だった。聖剣ルクスフェリアの刃がぐにゃりと曲がっていた。


「は?」


 アルスが目を見開く。剣は折れたのではない。刃は欠けたのでもない。聖なる光を宿すはずの白銀の刃が、まるで水飴のように「鋭さ」を失っていた。

 僕は、自分の手を見下ろした。手のひらが震えている。でもそれは恐怖からではなく、もっと生理的な何かだった。身体の奥底で、何かが「書き換わった」感覚。自分が何をしたのか、頭では理解が追いついていない。でも、僕の「鑑定の目」はもう答えを出していた。

 僕が「攻撃力の記述が間違っている」と認識した瞬間、その認識が現実に波及した。グラウザーの攻撃力の「誤記」が修正——いや、誤読されたのだ。僕の認識によって、攻撃力という属性が、まったく別の意味に「読み替えられた」。そしてその余波が、最も近くにあった属性——聖剣の「鋭さ」を巻き込み、崩壊させた。

 結果として。グラウザーの攻撃力は消失し、アルスの聖剣は鈍器になった。勝利でも敗北でもない。戦場の「意味」が壊れた。


 *


「エリス。おまえ、何をした」


 戦闘後、野営地に戻ったパーティの空気は凍りついていた。

 アルスが僕を見る目には怒りと恐怖があった。聖剣は元に戻らない。アルス自身が何度も柄を握り直し、ベアトリスが浄化の祈りを捧げ、フィーネが修復の魔法を試みたが、刃は水飴のように柔らかいままだった。「鋭い」という属性が根こそぎ消えている。


「僕は……ただ、記述の矛盾を指摘しただけだ」

「記述? 矛盾? 何を言っている、おまえは!」


 アルスの声が荒くなる。僕は説明しようとした。魔獣の攻撃力が正しく定義されていなかったこと、僕がそれを「認識」した瞬間に属性の崩壊が連鎖したこと。しかし、言葉にすればするほど、それは正気の人間の発言から遠ざかっていった。


「つまり、おまえのせいで、オレの剣が使い物にならなくなったってことだな」

「そういう、単純な話じゃ」

「単純だよ」


 アルスが立ち上がる。


「おまえはオレたちの戦力を削いだ。理由が何であれ、それだけは事実だ」


 ベアトリスが目を逸らした。フィーネが唇を噛んでいた。二人とも僕をかばう言葉を持っていなかった。いや、持っていたとしても口にはできなかっただろう。アルスの言っていることは事実だったから。


「エリス。おまえには明日の朝までに出て行ってもらう。装備と三日分の食料は渡す。それ以上は、パーティの総意として面倒を見る義務はない」


 追放。


 その言葉を頭の中で反芻する前に、僕はすでに立ち上がっていた。不思議と抵抗する気は起きなかった。怒りも悲しみもあるにはあったけれど、それよりももっと奇妙な感覚が胸の奥を占めていた。

 僕は最後に一度だけ、曲がったままの聖剣を見た。かつて世界を救うと謳われた刃がだらしなく垂れ下がっている。その姿は滑稽で哀れで、でもどこか正直だった。


「……鋭さなんて、最初からなかったのかもしれないね」


 僕は、誰にも聞こえないくらい小さな声でそう呟いた。


 *


 翌朝、僕は一人で荒野に立っていた。

 背中に背負った荷物は軽い。食料と水、使い古しの外套、それから鑑定用のレンズがひとつ。パーティから支給されたものの中で、唯一、僕の能力に関わる道具だった。

 朝日が地平線を焼いている。橙色の光が荒れた大地を照らし、遠くに見える山脈の稜線をくっきりと浮かび上がらせている。風は乾いていて微かに硫黄の匂いがした。

 美しいと思った。同時に、その美しさを構成している要素——光の「明るさ」、風の「乾燥」、硫黄の「匂い」——そのすべてが「記述」であることをもう知ってしまっていた。知ってしまった以上、僕はもうこの世界を「正しく」読むことはできない。

 一歩を踏み出す。足元の砂がほんの少しだけ不自然に柔らかかった。僕が通った跡には、靴の形よりもずっと深い凹みが残っていて、それはまるで世界というテキストに刻まれた最初の誤字のようだった。

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