第9話:大渦の審判、黄金の刺客
からくり競艇の世界において、**「江戸川」**は他の競艇場とは一線を画す。それは、ここが「川」であると同時に、東京湾の「海」と直結しているからだ。レーサーたちが最も恐れ、同時に実力が剥き出しになる「潮」のメカニズムについて触れておこう。
潮の種類とレースへの影響
* 上げ潮(満潮に向かう流れ):
海から川上へと海水が逆流する状態。江戸川では、ボートが進む方向に対して「向かい風」ならぬ「向かい潮」となることが多い。水面が盛り上がり、独特の「うねり」が発生する。機艇の舳先が跳ねやすく、高いマブイ出力で押さえ込まなければ、ターンマークで外へ大きく膨らんでしまう。
* 下げ潮(干潮に向かう流れ):
川の水が海へと引き抜かれる状態。追い潮となり、直線スピードは飛躍的に上がるが、ブレーキが効きにくくなる。第一マークでの旋回時に「止まらない」恐怖と戦うことになり、高度な物理演算(ハルの得意領域)が要求される。
* 潮止まり:
上げと下げが入れ替わる一瞬の静寂。最も走りやすいとされるが、からくり競艇においては「属性の干渉」が最もダイレクトに伝わる危険な時間帯でもある。
第九話:大渦の審判、黄金の刺客
東京都、江戸川競艇場。
「大渦特別競走」の予選最終日、水面は最悪のコンディションを迎えていた。強い南風が海から吹き込み、下げ潮の川の流れと真っ向から衝突。水面には不規則な三角波が立ち、まるで巨大な洗濯機の中のような、予測不能な「大渦」が点在していた。
乾 健児は、ピットで自分の右腕を摩っていた。
「……潮がぶつかっていやがる。マブイが波に食われるな」
江戸川の潮は、レーサーの精神を物理的に削る。波の衝撃が船体を伝い、直接コアマブイ器官を揺さぶるのだ。
そんな乾の隣で、黒崎 翼が自身の機艇「漆黒号」の最終調整を終えたところだった。かつての派手な装飾を剥ぎ取り、重厚な土属性を安定させるための「重り」を追加したその姿には、エリートの虚飾を捨てたプロの凄みが宿っていた。
「健児、気をつけなさい。今日の相手はあたしたちだけじゃないわ」
翼が視線を向けた先、1号艇のピットには、銀色のライディングスーツに身を包んだ見慣れぬ男が立っていた。
**「黄金の死神」**の異名を持つA1レーサー、獅子王 凱。
彼は黒崎 翼の父・龍平が、乾を確実に抹殺するために呼び寄せた「飼い犬」の筆頭だった。
「……君が、乾 健児か。黒崎様から聞いているよ。17,000という『野良マブイ』を持っているそうだが、所詮は制御不能の暴れ馬だ」
獅子王が乾の前に立ち塞がる。彼から漏れ出るマブイは、乾と同じ「金」属性。しかし、その質は決定的に違っていた。
乾の「金」が鋭利な刃物だとすれば、獅子王のそれは、巨大なプレス機のような、圧倒的な「質量の金」だった。
「私の属性は**『金』の変質――『剛』**だ。斬る必要などない。私の前を通る者は、その存在の重さに耐えかねて自滅する」
獅子王のマブイ出力は、安定して16,000を記録している。乾の17,000(最大値)には及ばないものの、プロとして洗練された「無駄のない出力」は、江戸川の荒波さえも力でねじ伏せる。
「全艇、起動!!」
号笛と共に、江戸川の濁流が属性の光で爆ぜた。
1号艇・獅子王、3号艇・翼、5号艇・ハル、そして6号艇に乾。
スタート直後、獅子王の「剛」が発動した。
「ひれ伏せ、有象無象ども!!」
獅子王の機艇から放たれた金色の波動が、江戸川の「下げ潮」と共鳴し、後続艇の周囲に超重力圏を形成する。
通常のレーサーなら、この「重み」だけでスクリューが停止し、波に飲み込まれて転覆するだろう。
「……くっ、この重圧……パパが用意しただけのことはあるわね!」
3号艇の翼が、自らのマブイを水底へと突き刺した。
「でも、今のあたしは『泥』! 重ければ重いほど、深く潜り込んで、絡め取ってあげるわ! 属性変質――『底なしの深淵』!!」
翼は獅子王が作り出した重力を、逆に自らの「泥」の吸着力に変え、江戸川のうねりを「静止」させた。一瞬、獅子王の直後に「凪」の道が出来上がる。
「今だよ、おじさん!」
5号艇のハルが、その凪を逃さなかった。
マブイネービラのハルは、獅子王の「金属性の精神干渉」を一切受けない。彼は物理的な水の流れだけを読み、翼が作った泥の道を、**「風」の模倣**で超高速滑走する。
「ああ、見えたぜ……! 獅子王、お前の『剛』は確かに重いが、硬すぎるんだよ!」
大外から乾が動いた。
乾は右腕の痛みを無視し、17,000のマブイを針の先、一ミクロン以下の点にまで凝縮した。
「金属性・極――『マブイ・ニードル・貫』!!」
乾は獅子王が展開する黄金の重力障壁に対し、真っ向から突っ込んだ。
力で押し通すのではない。障壁を形成するマブイの粒子の「隙間」を、一万七千の熱量を持った針が、空間ごと縫い合わせるように刺し貫く。
「なっ……!? 私の『剛』を、一点の突破で無効化するだと!?」
獅子王の驚愕を置き去りにし、乾、ハル、翼の三艇が、第1ターンマークの「大渦」へと同時に飛び込んだ。
江戸川の第1マーク。下げ潮と南風が作り出した巨大な渦が、すべての属性を飲み込もうと口を開けていた。
獅子王は力で曲がろうとし、江戸川の渦に機体を叩かれ、バウンドする。
一方、乾たちは違った。
翼の「泥」が渦の勢いを殺し、
ハルの「風」が渦の回転を利用して加速し、
乾の「斬」が、渦の核にある「潮の結び目」を切り裂いた。
「これが……ホームレスと、落ちこぼれと、幽霊が見つけた、泥水の走りだぁぁ!!」
三艇は、獅子王をインコースから鮮やかに差し切り、黄金の死神を荒波の彼方へと追い遣った。
ゴールラインを抜けた時、掲示板に表示されたのは、同着に近い僅差での1位・乾、2位・ハル、3位・翼。
それは、黒崎龍平の「完璧な支配」が、江戸川の泥水によって完全に洗い流された瞬間だった。
レース後、夕暮れの江戸川のピット。
獅子王凱は、自らの敗北を認められず、震える手で龍平に電話をかけていた。だが、その電話が繋がることはなかった。龍平はすでに、失敗した「犬」を切り捨てていたのだ。
「……乾、翼。お前たちのマブイは、もはや私には理解不能だ」
獅子王は力なく去っていった。
乾は、泥で汚れたヘルメットを脱ぎ、江戸川の風に吹かれていた。
「……おじさん、次は平和島かな。それとも住之江?」
ハルが、いつものようにアイスを食べながら聞いてくる。
「どこだっていいさ。俺たちは、自分のマブイを燃やして走るだけだ」
翼が、少しだけ穏やかになった顔で、口紅を直しながら言った。
「そうね。あたしはもう、パパの顔色なんて見ない。この泥だらけのドレスが、今のあたしには一番似合っているもの」
バブルの亡霊たちは、もはや過去を追う者ではなくなっていた。
彼らは、それぞれが抱える「痛み」をマブイに変え、予測不能な未来という荒海へ、再び漕ぎ出していく。
江戸川の濁った水面には、三つの異なる、しかし力強い魂の光が、月明かりに照らされて美しく輝いていた。




