第8話:マグマの残滓、再起の火
第八話:マグマの残滓、再起の火
「びわこルーキー記念」の決勝戦。あの狂乱の旋回から数日が経過していた。
滋賀県内にある、政財界の重鎮やその縁者が利用する極秘の教習所付属病院。その最上階にある特別室に、黒崎 翼は横たわっていた。
窓の外には、琵琶湖の穏やかな水面が見える。しかし、今の翼にとって、その青さは自らのプライドを切り裂いた乾 健児の「斬」の残像にしか見えなかった。
薬物の過剰摂取による激しい副作用。そして何より、乾の17,000という異常なマブイに真っ向から叩き潰され、精神の核を直接削られたショック。かつて陶器のように滑らかだった翼の肌は、土気色に沈み、瞳の奥に宿っていた傲慢な輝きは、深い絶望の澱に飲み込まれていた。
「……翼。情けない姿だな。我が一族の歴史に、これほど無様な汚点を残すとは」
重厚な電子ロックの音と共にドアが開き、父・龍平が入ってきた。検察の取り調べを巨額の保釈金と政界への回状で一時的に揉み消し、平然とシャープなスーツを着こなす父の姿は、翼にとって救いではなく、死神の宣告に近い。
「乾 健児はプロデビューを果たし、早くも多摩川の初戦で勝利を挙げたそうだ。かつてゴミ捨て場に放り出した男に、最新鋭の機体と英才教育を与えたお前が遅れを取る。黒崎の名を汚した罪、どう贖うつもりだ?」
父の言葉は、物理的な暴力よりも鋭く翼の胸を抉る。
「……パパ。あたしは……負けたのよ。あいつの、あの男の『目』に。失うものが何一つない男が放つ、あの研ぎ澄まされた一点の光に……あたしの築き上げた完璧な世界が、音を立てて崩れたの」
オネエ言葉の中に、隠しきれない震えが混じる。翼は初めて、父が作り上げた「完璧」という名の檻が、いかに脆いものだったかを知ってしまった。
「黙れ! 精神論など反吐が出る。道具が足りなかったのなら、より強い『暴力』を与えてやる。次こそは、あのホームレスを琵琶湖の底、いや、地獄の底まで叩き沈めろ」
龍平がベッドのサイドテーブルに叩きつけたのは、闇市場でさえ禁忌とされる、最高純度の**「血マブイ石」**の目録だった。
それは、使用者の寿命を強制的にマブイへと変換し、物理限界を超えた出力を引き出す呪われた結晶体。父にとって、息子はもはや一族の誉れではなく、乾 健児という「不始末」を消去するための、使い捨ての兵器に過ぎなかった。
数週間後。東京都、多摩川競艇場のピット。
プロデビュー節の最終日を終えた乾 健児は、西日に照らされながら、機艇の心臓部をバラしていた。
プロの世界は甘くない。初戦こそ勝利を飾ったものの、続くレースでは老獪なプロたちの洗礼を受け、機体はあちこちガタが来ている。
「おい、乾。客だぞ。お前の知り合いだって言ってるが……なんだか不気味な奴だ」
整備士の声に顔を上げると、そこには杖を突き、ボロボロのフード付きコートを深く被った人影が立っていた。多摩川の吹き抜ける風に、その影は今にも消えてしまいそうに揺れている。
「……翼か」
「……健児。勘違いしないでちょうだい。あんたの顔を見に来ただけよ。励ましに来たなんて、口が裂けても言わないわ」
翼はゆっくりとフードを脱いだ。その顔の右半分には、薬物の侵食と「マグマ」属性への強制的変質の痕跡である、黒い血管のような紋様が不気味に浮かび上がっていた。
乾はスパナを置き、油と金属粉のついたタオルを首にかけた。
「そのマブイ……ボロボロだな。親父から与えられた薬に魂を売った代償か。そんな状態で、何をしに来た」
「あんたに何がわかるのよ! 常にトップで、常に美しく、完璧でいなければならない重圧。一度の敗北が、存在そのものの否定に繋がる恐怖! 泥水を啜り、地べたを這いずっていたあんたには……失うものがないあんたには、あたしの苦しみなんて、一生わからないわ……!」
翼の声が、ピットのコンクリートに虚しく響く。
乾は黙って翼に歩み寄り、その激しく震える細い肩に、油汚れのついた大きな手を置いた。
「……わかるさ。俺もかつて、数字とプライド、そして『完璧な自分』という幻想に縛られて、生きたまま死んでいた。……だがな、翼。一度死んで、すべてを失って泥に塗れたからこそ、見える景色があるんだ」
乾の17,000のマブイが、静かに「金」の輝きを放ち始めた。それは相手を切り裂く「斬」ではなく、荒れ狂う翼の属性を鎮めるような、慈悲深く温かい光だった。
「お前の『龍』は、まだ自分の重みで溺れているだけだ。父の期待という泥に足を取られ、自分自身の翼を忘れている。……そんな重圧、切り捨ててしまえ」
3
「……次は、江戸川の『大渦特別競走』だわ。あたしは……もう一度再試験を受けて、そこに出る。B級からの再スタートよ」
翼は乾の手を、拒絶するように振り払った。しかし、その瞳からは先ほどまでの怯えが消え、一点の冷徹な光が戻っていた。
「パパの与える『血マブイ石』は受け取らなかった。あんなもの、美しくないわ。あたしはあたしの『泥』で、もう一度貴様を捕まえてみせる。薬物で変質した偽物の『マグマ』ではない。本物の、底なしの、すべてを飲み込む漆黒の泥でね」
翼の言葉に、エリートとしての傲慢さはもうなかった。そこにあるのは、敗北の底で見つけた、一人のからくりレーサーとしての醜くも力強い執念だった。
「いいだろう。江戸川の水面は、琵琶湖よりさらに荒れるぞ。潮の満ち引き、川の流れ……お前の『泥』が本物かどうか、俺の『斬』で、今度こそ木っ端微塵に試してやる」
乾が不敵な笑みを浮かべ、再びレンチを握り直す。
その時、二人の背後から気配もなく、楽しげな声が割り込んできた。
「あはは。二人とも、いつの間にか仲良しだね。……僕も、江戸川、行くよ。登録、済ませてきた」
ハルだ。彼はいつの間にか二人の間に立ち、ソーダ味のアイスキャンディーを無造作に齧っていた。マブイネービラの彼は、相変わらずマブイの熱量を一切放っていないが、その存在感は以前よりも確かなものになっていた。
「江戸川の水、すごく面白い音がするんだ。怒ったり、笑ったり、泣いたりしてるみたいで。……『何も持っていない僕』を、あそこが呼んでる気がするんだよね」
数週間後。東京都、江戸川競艇場。
そこは日本屈指の「難水面」として知られる。荒川の河口近くに位置し、潮の満ち引きによる水位の変化と、川の複雑な流れが激突し、水面には常に予測不能な「うねり」が発生する。ベテランのA1レーサーですら転覆を恐れ、プロの誇りをズタズタにされる「魔の水面」だ。
そこに、三人の「亡霊」が再び集結した。
失った過去を断ち切り、未来を切り拓くために「斬」を研ぎ澄ます乾 健児。
虚無の風となり、水の隙間を自在に滑るマブイネービラのハル。
そして、父の影を振り払い、己の屈辱を「底なしの泥」へと昇華させた黒崎 翼。
ピットで見つめ合う三人の間には、もはや過去の遺恨も、社会的地位の差も存在しない。
あるのは、一隻のからくり機艇を操り、荒れ狂う水上の頂点を目指すという、剥き出しの、純粋な渇望だけだ。
「全艇、起動!!」
江戸川の激しい荒波が、三つの対照的なマブイ属性を飲み込もうと牙を剥く。
乾の「金」、ハルの「無」、そして翼が取り戻した真実の「土」。
それぞれの属性が火花を散らし、江戸川の濁った水面を七色の極光で染め上げる。
バブルの終焉と共に始まった彼らの戦いは、今、より深く、より激しく、より残酷な「プロの荒海」という名の本番へと突入していく。
観客たちの怒号と歓声が、江戸川の風に乗って空へ溶けていった。




