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からくり競艇〜ホームレス、魂のフルスロットル〜  作者: 水前寺鯉太郎
第1部:学校編

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第7話:黄金の賞金、鉄の約束

第七話:黄金の賞金、鉄の約束


1993年、晩春。

日本全土を揺るがした狂乱の宴「バブル」が、死に際の断末魔のような円高と不況を撒き散らしていた頃。滋賀県・琵琶湖の畔に位置する「大宮機艇教習所」では、例年になく静かな、しかし密度に満ちた卒業式が執り行われていた。

「びわこルーキー記念」の激闘から一週間。

乾 健児は、新品の、だが生地の薄い安物のスーツに身を包んでいた。新宿・中央公園の仲間たちが、なけなしの小銭を出し合い、古着屋やディスカウントショップを駆けずり回ってかき集めてくれた「乾さんのための勝負服」だ。

右腕の痺れは、まだ取れていない。神経系に直接「きん」の魔力を流し込み、無理やり「ざん」を発動させた代償は、今も疼くような鈍痛として残っている。だが、乾は知っていた。一度ハンドルを握り、あのからくり端子を接続すれば、17,000のマブイが神経の代わりとなって血の通わぬ機械を己の肉体へと変えることを。

「……乾。これを持って行け。お前の『不渡り手形』の代わりだ」

今岡校長が、無造作に一通の茶封筒を差し出した。中には、偽造不可能な特殊ホログラムが施された「B級プロレーサー・ライセンス」と、初任給代わりの、わずかな現金が入っていた。

「お前の17,000は、プロの世界じゃ巨大な『標的ターゲット』だ。全速で逃げ切るか、あるいは追いつく端から全速で刺し貫くか。二つに一つだ。……中途半端な減速は、そのまま死に直結すると思え」

今岡は、いつものように安煙草の煙を乾の顔に吹きかけた。その煙は、なぜか最高級のシャンパンよりも深く、別れの酒のように鼻の奥を突いた。

ピットの外では、ハルが自分の荷物を小さなスポーツバッグ一つにまとめて待っていた。

「おじさん。僕、多摩川の支部に行くことになったよ。配属が決まったんだ」

「多摩川……。俺が泥水を啜り、地べたを這いずり回った、あのホームグラウンドか」

乾は自嘲気味に、しかしどこか懐かしそうに目を細めた。

「うん。おじさんが見てた景色、おじさんが絶望した場所。僕も見てみたいんだ。……それから、これ」

ハルが差し出したのは、決勝戦の激闘の末に粉砕された「鉄屑スクラップ・ニードル」のマブイ端子の破片だった。ハルが冷たい湖底から拾い上げ、夜通し磨き上げておいたものだ。

「僕たちの、約束の欠片。いつか、最高峰の舞台……SGスペシャルグレードの優勝戦で、また並ぼうね。その時まで、おじさんの熱を、忘れないでおくよ」


数日後。乾は、再び新宿・中央公園の土を踏んだ。

かつての不動産王として、高級車を乗り回し、高級ブランドの靴で土を汚していた頃の彼ではない。右腕に包帯を巻き、安物のスーツをヨレヨレにした、一人の「からくりレーサー」として。

「乾さんが……乾さんが帰ってきたぞ!!」

段ボール村に、地鳴りのような歓声が上がる。

六角の源さんをはじめとするホームレス仲間たちが、空き缶を集めて売った金や、日雇いの現場でかき集めた金で買った、発泡酒と大量のスルメで乾を出迎えた。

「乾さん、本当に勝ったんだな……! 西口の家電量販店のテレビで見たぜ。あの黒崎のガキを、水飛沫で見えなくなるくらいの速度でブチ抜いたところをよ!」

「ああ。だが、ボートは木っ端微塵だ。賞金の半分は機体の弁済と修理代で消えたよ」

乾は笑いながら、今岡から貰った現金の一部を、源さんのゴツゴツした手に握らせた。

「これは、あの時貸してくれた補強プレートの代金だ。利息は……俺が次のSGで勝って、あんたたちを高級料亭に招待するまで待ってくれ。必ず、返しに来る」

その夜、赤々と燃える焚き火を囲みながら、乾は仲間に「マブイ」の話をした。

人は誰しも、形は違えどマブイを持っている。それが金だろうが、土だろうが、あるいは泥にまみれていようが。燃やし方、研ぎ方一つで、絶望の底からだって、天を衝くほどの閃光になれるのだと。

「……乾さん。あんた、もうあの頃の『若き獅子(社長)』の顔じゃないな」

源さんが、焚き火の爆ぜる音と共にポツリと言った。

「ああ。今の俺は、ただの『乾 健児』だ。17,000のごうを背負い、ただ一走に命を懸ける、ただの勝負師さ」


一ヶ月後。

多摩川競艇場、乾 健児のプロデビュー戦。

乾の機艇は、再び「6号艇」だった。からくり競艇界の厳格な階級社会において、新人は最も不利な大外から走るのが、暗黙の、そして絶対の不文律だ。

対戦相手には、プロの荒波で数年飯を食っている、老獪な中堅レーサーたちが揃っている。彼らは乾の「17,000」という異例の数値を耳にしていたが、鼻で笑って一蹴していた。

「マブイがデカいだけの素人が、多摩川の複雑な『うねり』と『水圧変化』に耐えられるかよ。水面に叩きつけられて、マブイごと砕け散りな」

乾はヘルメットのシールドを下ろし、観覧スタンドの最前列を見つめた。

そこには、ボロボロの防寒着を着た源さんたちがいた。警備員の冷ややかな視線を浴びながらも、誰よりも大きな声で、喉が裂けんばかりに「乾! 行け!」と叫んでいる。

そして、ピットの対角線上。次レースに出走を控えた「マブイネービラ」のハルが、静かに、無機質な瞳で乾の背中を見守っていた。

「……行くぜ。俺の『借金』を、一滴残らず叩き返してやる」

乾が、自作の改良を施した端子を握る。

金属性の変質――「斬」。

魂圧プールで魂を削って磨き上げた、あの「針」のような感覚が、瞬時に全身を駆け巡る。

バブルの狂乱、家族の離散、新宿の凍える夜、そして琵琶湖の冷たい水。

それらすべてを、一本の細く、極限まで硬い「鋼の糸」に変えて、機艇のスクリューへと直結する。

――ピィィィィィィン!!

スタート展示。乾の放つマブイサインは、もはや巨大なオーラではない。

観客席からも、公式のレーダーからも見えないほどに細く、鋭く、透明。

だが、その「目に見えない針」が水面に触れた瞬間、多摩川の濁った水が、神話の十戒のように左右へ真っ二つに割れた。

「なっ……!? 6号艇、消えたか!? いや、加速が……物理限界を超えている!!」

場内実況が絶叫に近い声を上げる。

乾の機艇は、加速の際に生じるG(重力)すら、自らのマブイで「切断」していた。

第一ターンマーク。先行する5艇が、一丸となってインコースを塞ぐ。

乾は、その僅か数ミリの隙間に、迷わず自らのマブイを突き刺した。

「マブイ・ニードル……『無常むじょう』!!」

水しぶきすら上がらない。

ただ、鋭い銀色の閃光が水面を一文字に走り抜けた後、乾の6号艇だけが、物理法則を置き去りにして、遥か前方を独走していた。

それは、多摩川に現れた「銀の亡霊」そのものだった。


レース後、乾は一人、夕暮れの多摩川の堤防に立っていた。

手元には、プロ初勝利のささやかな賞金袋。かつての彼なら、この額を見て「シャンパン一本分にもならない」と切り捨てただろう。だが、今は違う。

「……腹、減ったな」

乾は自嘲気味に笑い、近くの屋台で150円の「モツ煮込み」を買った。

多摩川の泥水の味ではない。それは、自分のマブイを文字通り削り、命を燃やして、初めて正当に手に入れた、人生で最も濃く、重みのある味だった。

「おじさん。やっぱり、美味しいね。……ここのモツ煮」

いつの間にか、隣にハルが座っていた。彼の手にも、同じ150円のカップがある。

マブイを持たぬ「無」の風と、絶望を研ぎ澄ませた「斬」の鋼。

二人が次に交わる時、それは日本の、いや世界の「からくり競艇」の歴史が根底から塗り変わる時だろう。

「ハル。お前、いつか俺を刺しに来るんだろ」

「うん。おじさんの熱を、僕の『真空』で飲み込みたい。……でも、今はまだ、おじさんの後ろを走るのが、少しだけ温かくて好きだよ」

遠くで、次のレースを告げるファンファーレが鳴り響く。

バブルの亡霊はもういない。

そこにいるのは、ただ一走、一走にすべての命を懸ける、不屈の「からくりレーサー」乾 健児。

彼は最後の一口までモツ煮を飲み干すと、再び傷だらけのヘルメットを抱えて、黄金色に輝く水面へと歩き出した。

多摩川の泥水から始まった物語は、今、果てなき栄光と地獄が同居する、プロの荒海へと続いていく。

「借金は……まだ返し終わっちゃいねえからな」

銀の閃光が、夕闇を切り裂いて再び水面を走り抜けた。


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