第32話:万物の孤独、泥水の記憶
平和島SGダービー3日目の夜。
昼間のビル風が嘘のように止み、平和島には冷たい冬の雨が降り注いでいた。乾健児は、激しい「ウィング・ターン」の負荷で熱を持った右腕を冷やすため、かつて自分が段ボールを敷いていた場所に近い、場外のガード下へ足を運んでいた。
「……そこにいたのか、泥水の王」
暗闇から現れたのは、不動凱だった。SGの絶対王者であるはずの彼が、高級車でも護衛でもなく、たった一人で濡れたアスファルトに立っていた。
「……不動さん。あんた、どうしてここに?」
乾が問いかけると、不動は古びた高架下の柱を指差した。そこには、今はもう判別もつかないほど掠れた、幼い子供が書いたような「勝ちたい」という落書きがあった。
「30年前、俺もここで泥を啜っていた。この平和島の冷たい風と、誰にも顧みられない絶望……。それが俺の最初の記憶だ」
不動凱の過去。それは乾健児の鏡写しのような人生だった。身寄りもなく、空腹と寒さに震えていた少年時代の不動。彼を変えたのは、ある雨の日に平和島の水面に落ちた、一欠片の「廃棄されたマブイ石」だったという。
「俺はそれを飲み込んだ。内臓を焼かれるような苦しみの中で、俺は『万物』と繋がった。……持たざる者が、すべてを持つ者に勝つ唯一の方法は、世界そのものを支配することだと悟ったのだ」
不動の語る過去は、乾の歩んできた道よりも遥かに孤独で、非情なものだった。
彼は「仲間」を作らなかった。仲間を作れば、その分だけマブイが分散し、弱くなると信じていたからだ。彼は一人で平和島のビル風を浴び続け、一人で数万回の旋回を繰り返し、ついに世界の理を操る**属性:『万物』**に到達した。
「乾。お前はハルや翼という『重荷』を背負っている。その優しさが、お前の『白金』を曇らせる。……お前が俺に勝てない理由は、出力ではない。孤独の深さが足りないのだ」
不動の周囲の雨粒が、彼の意志に呼応するように空中で静止した。それはマブイの出力によるものではなく、世界が彼という存在に跪いているかのような、圧倒的な静寂だった。
乾は、自分の震える右腕を見つめた。
確かに、不動の言う通りかもしれない。一人で戦えば、迷いはない。誰かを守る必要もなければ、自分を削ることに躊躇もしないだろう。
「……不動さん。あんたの孤独は、確かに凄まじいよ。俺じゃ逆立ちしても勝てねえかもしれねえ」
乾は、雨の中に傘も差さずに走ってくる二つの影を見た。
ハルと翼だ。彼らは乾の身を案じ、冷えた体にかけようと毛布と温かい缶コーヒーを持って、息を切らしてこちらへ向かってきている。
「でもな。……この泥水の冷たさを、一緒に分かち合える奴がいる。俺にとっては、それが『万物』を支配するよりも、ずっと強くなれる理由なんだ」
乾の言葉に、不動の瞳が微かに揺れた。それは30年間、一度も揺らぐことのなかった「王の孤独」に、初めて小さな亀裂が入った瞬間だった。
「……フン。泥水の絆か。ならば、その絆ごと俺の万物で握りつぶしてやろう。……準優勝戦で待っているぞ」
不動は闇の中へと消えていった。
後に残された乾のもとに、ハルと翼が駆け寄る。
「おじさん! こんなところで何してるの! 腕、冷えちゃってるよ!」
「もう、心配させないでよ健児。明日はいよいよ準優勝戦なんだから!」
二人の温もりに触れながら、乾は平和島の雨空を見上げた。
不動凱。かつて自分と同じ泥水を啜った男。
彼が選んだ「支配」と、乾が選んだ「絆」。
平和島SGダービー、準優勝戦。
それは、二人の「持たざる者」が、自らの人生の正しさを証明するための、究極の聖戦となる。




