第26話:尼崎の怪、共振する死線
尼崎G2・ボートレース甲子園、3日目。
予選も佳境に入った尼崎競艇場には、異様な湿気と、耳鳴りのような「低周波」が漂っていた。淡水特有の密度の高い水面が、レーサーたちが放つ高出力マブイを吸収しきれず、コンクリートの底を震わせているのだ。
「……おじさん、聞こえる? 水が『鳴いて』いるよ」
ハルが、機艇の底板に耳を当てて呟いた。
「17,000の白金と、尼崎の地場がぶつかって、特定の周波数で水面が跳ねようとしてる。これ以上出力を上げたら、旋回中にボートが空中分解するよ」
乾健児は、異常振動症の残る右腕を強く握りしめた。
多摩川の泥水とは違う、尼崎の澄んだ淡水。それは、マブイを増幅させる「レンズ」であり、同時に乗り手を弾き飛ばす「バネ」でもあった。
第12レース。乾の隣に並ぶのは、地元兵庫のベテランであり、「尼崎の指揮者」の異名を持つA1級、音無 響。
彼の属性は**「金の変質――『音響』」**。
物理的な破壊ではなく、マブイの周波数を操作し、相手の機艇を「共振」させて自滅に追い込む、尼崎で最も恐れられる戦術家だ。
「乾君。君の17,000は、この静かなプールには少々やかましすぎる。……尼崎の精霊たちと一緒に、静かに眠ってもらおうか」
音無が軽くスロットルを回すと、周囲の空気がキィィィィィィィンと高音で震え、水面に規則正しい幾何学模様(クラドニ図形)が浮かび上がった。
スタートの号笛。乾は「真・白金」を極限まで絞り、水面との摩擦を最小限に抑えて飛び出す。しかし、第1マーク手前。音無の3号艇が、乾の機艇に並びかけた瞬間だった。
「……っ!? なんだ、この振動は!」
乾の『銀鱗・泥龍』が、まるで生き物のように激しく上下に跳ね始めた。音無が放つ属性変質――『不協和音の罠』。
音無は乾の白金の周波数を瞬時に解析し、その逆位相の振動を水面に叩き込んだのだ。淡水の水面が、トランポリンのように乾の機艇を弾き飛ばそうとする。
「健児! 機体が浮いてるわ! ハンドルが効かない!!」
後方にいた翼の『紅蓮・アビス』も、共振の余波で進路を乱される。
「くそっ、これじゃあターンマークに近づけねえ……!」
「おじさん、抗っちゃダメだ!」
ハルの通信が、激しいノイズを割って届く。
「音無さんの振動に『乗る』んだ。跳ねるなら、もっと高く跳ねて! 空中で旋回する計算を送るよ!」
ハルは、自機の物理的な重量バランスを急激に移動させ、乾の機艇の「跳ね」をあえて助長させた。
乾は覚悟を決めた。白金の出力を抑えるのではなく、逆に音無の振動に完全に同期させた。
「……合わせるぜ、尼崎! 俺の心臓を、この水の音に!!」
乾の機艇が、水面から完全に離脱し、空中へ舞い上がった。
新奥義――『白金・跳龍旋』!!
共振によって生じた「見えない波」を足場にし、乾は空中で機体を反転。音無が水面で待ち構えていた「振動の罠」を、頭上から飛び越える形でショートカットした。
「馬鹿な……空中で旋回しただと!? 物理法則を無視する気か!」
驚愕する音無の視界を、乾の銀色の底板が掠めていく。
ゴールライン。
1位、乾。2位、ハル。3位、音無。
水面に降り立った乾の機艇は、激しい共振の代償で、カウルの一部がひび割れていた。しかし、乾の瞳はかつてないほど澄んでいた。
「……はぁ、はぁ。空の上は、意外と静かだったぜ、音無さん」
ピットに戻った音無は、自分のタクト(ハンドル)を見つめ、苦笑した。
「……完敗だ。私の『音』を、君は『歌』に変えてしまった。乾健児……君の17,000は、もうただの出力じゃない。調和だ」
尼崎の空に、カエルたちの鳴き声が響き渡る。
共振の罠を打ち破った乾の前に、次なる試練――「甲子園」の頂点へと続く、より過酷な予選最終日が迫っていた。




