第九章 神の変容⑥
私室で一人沈思するベルダの元に、不意の謁見者が現れた。
「皇后陛下にお伝えしたき儀がございます」
前触れもなく皇后私室を訪れたのは、聖騎士団長のヴァノだった。
ベルダとしては正直なところ、今は他人と会話を交わしたくもなかったが、さすがに子飼いの中でも最も物理的な力をもつ聖騎士団長を無下に扱うわけにもいかない。
苛立ちをできるだけ抑えつつ、彼女は御簾の内側でもヴェールをすぐに着けて応じた。
「わざわざ何用か」
「エピオナの生き残りの男はどうやら死んだとのこと」
それは北方蛮族に煽動と技術提供をして国境を侵させたあのエピオナ人捕虜のことであった。ベルダ側も独自の情報網を持っており、アレクシス陣営の内情を常に探らせていた。
「始末したのか」
「いえ……アレクシス王子の元に囚われていたようですが、自害したとのことで」
「余計な情報を吐いてはいないであろうな」
ベルダの声がさらに剣呑さを増す。本来ならばアレクシス側に捕捉される前にこちらで証拠を消すべきだったのだ。御簾とヴェール越しでもその苛立ちは充分に伝わり、ヴァノはいっそう深く頭を下げる。
「死体にはほとんど損傷がなく、自ら首を吊ったそうですので、恐らく拷問などは行われていなかったのではないかと」
トゥレンが厳重に監視させていたため、捕虜の尋問の内情まではベルダ側にも掴めなかった。代わりに、埋葬された死体を密かに確認することで、ある程度の予測を立てたのである。もし捕虜の死体を焼却していれば探ることも不可能だっただろうが、丁重に弔ったことがかえって敵に情報を与えたのであった。
「顔に似合わず、ずいぶんと甘い王子だこと」
ベルダは突き放すように嘲笑した。
せっかく重要な捕虜を得ても、拷問すらせずに自害させてしまう。何と手ぬるいことかと彼女は見下していた。
もしベルダがそのような捕虜を手に入れれば、何の迷いもなく責め立てて情報を搾り取っていただろう。そのような甘さがあの王子の欠点であり、だからこそ今も自分たちが権勢を振るえているのだと彼女は思っていたのである。
すると、それまで叩頭していたヴァノが不意に主人への問いを投げかけてきた。
「その……皇后陛下、エピオナ人を利用するおつもりでしたらなぜ焼き討ちをお命じになったのでしょうか。必要であれば先にいくらでも攫ってくることも可能でしたのに」
その疑問を抱くのは無理もなかった。エピオナ人を使ってアレクシス陣営を疲弊させるのが目的なら、何も街ごと焼き捨てる必要はなかった。知識人の多いあの都市ならば、他にも使い勝手の良い駒はいくらでもいたであろうに。その人材を丸ごと焼却する理由が彼にはわからなかったのである。
だが、ベルダはその問いすら許さなかった。
「おまえの知る必要はない」
「……出すぎた真似をいたしまして申し訳ございません」
夏だというのに背筋まで凍りつくほどの冷たい声音に、ヴァノは思わず震え上がった。この主人の不興を買えば、騎士団長の位などいつでも吹き飛ぶことを彼は痛いほど知っていたのである。
「ヴァノ。おまえはエピオナ人の行く末を気にするより、まずは騎士団を立て直すべきではないかの。エピオナで兵を減らしたそうではないか」
ベルダの指摘はエピオナ焼却の理由から目をそらすためだけでなく、差し迫った事実でもあった。
聖騎士団による焼き討ちは、本来ならば一方的な虐殺でしかないはずだった。相手は自衛軍すら持たぬ一般市民。それなのに、間抜けにも聖騎士団員たちの一部は自らもその炎で焼死してしまったのである。
負傷者も少なからず発生し、しかも中には業火の記憶にさいなまれて異動願いを出す者まで出てくる始末。アレクシス王子たちの動きが不穏な今、手持ちの最大戦力である聖騎士団の立て直しは急務であった。
「は……! それについては誠に申し開きのしようもございません! ただちに改めて編成を急がせますゆえ……!」
エピオナの焼き討ちからすでに半年近くも経過しているのに、いまだに編成もろくにできていなかったのかとベルダは苛立ちを抑えきれなかった。
それでも大声で罵倒するようなことはせず、何とか穏便にヴァノを退室させると、ベルダは再びヴェールを外し、御簾の内側で鏡に向かった。
――白金の髪、淡い琥珀色の瞳。
聖女のごときと称賛されたその容貌は、異国の血統がもたらしたものだった。
彼女はヴァルクレウスに滅ぼされた小国の貴族の娘。母国は交易の盛んな中継地で、ほとんどの臣民は混血が進んでいた。それゆえに、皮肉にもセルディア地域で尊ばれる形質が異国人に顕れたのである。
そして彼女の母方の血筋――それこそがエピオナだった。
「……エピオナの血は絶やさねばならぬ」
ベルダは鏡に向かってつぶやいた。
残すべき血は、己とその娘の系譜のみ。それすらもエピオナの名は冠しない。
(――なぜ焼き討ちをお命じになったのでしょうか)
ヴァノの素朴な疑問の真の答えがそれだった。
エピオナの血と知はこの世から抹消する。
今、彼女が操る香も薬物も人々の依存形成も、すべてはエピオナの末裔ゆえの知識が元になっている。
だが、それは逆に言えばエピオナの知を持つ者には看破される危険性を孕んでいた。
――ゆえに、焼いた。
自らの支配を固めるため、彼女は王国軍の大半が遠征に出た隙をついて聖騎士団にエピオナを焼き討ちさせたのである。
「エピオナは……消さねばならぬ」
あのエピオナ人の生き残りからアレクシスにどれだけ情報が漏れたか不明だが、それでもまともに拷問すらしていないのなら大して引き出せてはいないであろう。
アレクシスはその見た目から過剰に恐れられてはいるが、所詮は王位簒奪にも十年踏み切れぬ軟弱者と彼女は見なしていた。
それでも油断すべきでないのは、ここへ来て突然彼らの動きが活発になったことである。
――まさか、聖女を手に入れるとは。
成人から十年、まともに色恋の噂もなく、それどころか女を近づけずに兵営生活を貫いてきた王子が、まさかの豹変と言うべきであった。
――あの、黄金の娘。
目にもまばゆい黄金の髪。
誰もがひれ伏す皇后すらまっすぐ射貫く黄金の瞳。
あの姿を見た時、ベルダは全身の震えを止められなかった。
己も伝説の聖女のようと称えられてきたが、所詮紛い物だったと思い知らされたのだ。――あの曇りなき黄金の瞳の前では。
「……消さねばならぬ」
誰もいない室内で、決意したように彼女は再びつぶやいていた。
ベルダさん、レックスが突然禁欲をやめて聖女を求めたと勘違いしているようですね。
まあ、その反応が普通なんですが……
実情を知ったらカルチャーショックを受けるかもしれません。




