第七章 鉄の軍団④
ヴァルクレウス王国軍は従前より勇猛かつ頑強で、周辺国からその強さを恐れられてきた。だが、大陸最強とまで謳われ、畏怖されるようになったのはここ十年ほどのことである。
その転機となったのが、十年前のアレクシス王子の総司令就任だった。
十六の成人と同時に、病で倒れた父王の代理として総司令職を拝命したが、誰もがただのお飾りだろうとその人事を軽く見ていた。本来、総司令職は伝統的に国王が名目として持つもので、実務上の最高位は現場の筆頭将軍なのである。
だが、この王子はなぜか現場に降りてきた。それどころか実家である王宮から独立して、他の兵たちとともに駐屯地で毎日寝起きするようになった。
「殿下……平時は離宮にお戻りいただいてもよろしいのですが」
十六になったばかりの少年王子に、当時はまだ第一軍団の中隊長だったバルナスは戸惑いながらそう口にした。だが、レックスは平然と返した。
「必要ない。今は平時ではないからな」
その言葉の意味をバルナスが知るのは、後に彼が平民出身で初めて第一軍団長――すなわち筆頭将軍に抜擢されてからのことである。
レックスが総司令に就任したのは、決してその才能を評価されたからではない。
彼が成人する前年に皇后位を創設したベルダにより、危地へと追いやられたのである。
国王が病臥して総司令位が空いているのは事実だが、何も成人したての王子を置く必要はない。それは、仮に失策があればそれを理由に王子の権限を奪える上、万が一にも戦地で斃れれば本望という計算による配置であった。
だが、レックスはその職位を逆手に取って、自身の権能を拡大させた。
総司令の権限でできうる最大限の軍制改革を行い、練兵と治安の維持に全力で努めた。その一つが平民出身のバルナス抜擢だったのである。
バルナスの人望と能力は当然申し分ないが、それだけでなく、平民でもここまで出世できるという事実は大勢の若者の希望になった。結果として王国軍に志願する者が殺到し、徴発せずとも兵力が自然と拡大していったのである。
さらには兵たちの教育、報酬、退役後の待遇まで手厚くすることで、兵たちの練度と忠義はさらに増していく。
こうして、いつしか王国軍は大陸最強を謳われ、「鉄の軍団」の二つ名で呼び称されるようになったのである。
――そして今、この「鉄の軍団」の支柱に綻びが生じようとしていた。
ダナオス川中流域付近の戦地までは精鋭騎馬隊のみの強行軍。馬車を連れていく余裕などないため、アウレリアはユリウスの、ミリアはイアスの馬に同乗し、部隊に遅れないよう全速力で駆け抜け、わずか五日で現地に到着した。
「援軍に殿下が!?」
王都から援軍が来るとは知っていても、まさか総司令自ら出陣するとは思っていなかった兵たちは大きくどよめいた。
すでに開戦から二週間近くが経過し、援軍到着時は交戦ではなく膠着したままのにらみ合いが続いており、レックスは前線より真っ先に負傷した宿将の安否を尋ねた。
「バルナスはどこだ?」
レックスに問われ、軍医が将軍用の天幕へ誘導しながら沈痛な面持ちで告げる。
「何度か瀉血は行いましたが、毒の種類がわからないためこれ以上は……」
案内された天幕に、バルナスは横たわっていた。
国の支柱を可視化したような鋼の肉体が、今は見る影もない。顔は黄みを帯びた土気色に変色し、浅い呼吸で胸元がかすかに上下している。
見ただけで安心感を与えるような頼もしさを感じていたバルナスの変貌ぶりに、アウレリアは思わず息を飲んだ。
すると、その隣で控えていたミリアが一歩進み出る。
「ちょっと診せて」
そう言ってバルナスのそばに近づこうとすると、軍医たちがいきり立った。
「貴様、何者だ!?」
「なぜ女が戦場に!?」
彼らはここから最も近いヴィディア砦に常駐する医師たちである。当然のこと、ヴァルディス駐屯地でなぜか客分扱いされているエピオナ出身の医師、などという情報は持ち合わせていない。怪しげな女が割り込んできたと警戒するのも当然ではあった。ミリアも自身が怪しまれることは理解していても、実務を優先して名乗るより先に診療を開始する。
「毒矢を受けたのはいつ?」
「女の分際でバルナス将軍に触れるでない!」
問診しながらバルナスの脈を取ろうとしたミリアの手を、軍医の一人が払いのける。
ミリアは溜息をつき、アウレリアが思わず抗議の声を上げようとすると、それよりも先に冷たい声がその場を制した。
「いいから答えろ」
レックスの腹の底まで重く響くような命令に、軍医は震え上がった。
「は、はい! 失礼いたしました! 本日で七日目となります!」
軍医はミリアを無視して総司令に返答する。それでもミリアは気にせず、状況整理を始めた。
「七日目か……もう毒は体に回りきってる。それでも生きてるのは将軍の耐久力のお陰だね。抜いた後の矢はまだある?」
軍医はまた怪しい女に問われて不服そうではあったが、レックスの眼光に威圧され、天幕に保管してあった矢を差し出した。
「……この矢尻、ほんの少し毒の成分が残ってる。ほら、ちょっと黄色っぽいでしょ? 血や錆汚れの色じゃない」
矢を注意深く観察していたミリアは、懐から取り出した白布に矢尻をこすりつけ、その場の人間に見せる。
軍医だけでなく、レックスやアウレリアもその布をしげしげと覗き込む。言われなければわからない程度の微量だが、確かに布はうっすら黄色く色移りしているように見えた。
ミリアは彼らに見せ終わると、今度はその布を天幕内の灯火にかざして炙った。一同の不思議そうな顔をよそに、彼女は炙った箇所に鼻を近づけて臭いを嗅いだ。
「うん、かすかに硫黄の臭いがする。これは多分鉱物由来――石黄の可能性が高い。つまり、毒物は砒素系統ってことになる」
彼女の静かな判定に、軍医は再び声を荒げた。
「馬鹿な! 砒素など矢で受けたらとっくに死んでおるわ! しかもあれは色も臭いもないはずだぞ! 素人は黙っておれ!」
いまだミリアを医師だと気づかぬ軍医たちは、怪しい女を追い払おうとする。しかし彼女は冷たく事実を突きつける。
「セルディアで主に使われてるのは粉末の白砒でしょ。これは東方でよく使われる鉱物由来の薬の一種なんだよ」
砒素自体は古来よりセルディアでも広く知られた毒で、軍医たちも当然熟知している。だが、東方で使用される鉱物由来の砒素毒については疎かった。しかも両者は患者の症状も異なるため、軍医たちにとっては「未知の毒」としか思えなかったのである。
「貴様はいったい……」
「私は医者だよ」
短くそれだけ告げると、ミリアは軍医たちを追い払った。
「ほら、どいたどいた。患者を早く治療しないとね。いくら丈夫な将軍でも、後遺症が残ったら困るでしょ」
状況がつかめぬ軍医たちは困惑し、抵抗しようとする。ちょうどその時、天幕の外が騒がしくなった。
兵たちの喊声と馬蹄の音が、彼らの元へも響いてくる。
「王子様も早く行った方がいいんじゃないんですか? そのための援軍なんでしょ?」
ミリアはレックスにそう促した。このままここにいても、彼にできることは何もない。それよりも本来の責務を果たすべきであった。
「……バルナスを頼む」
それだけ告げるとレックスは踵を返し、天幕を足早に出て行った。
その背を見送りながら、人を委縮させるようないつもの圧力が薄まっていることをアウレリアは感じ取っていた。
レックス、独立してから出て十年間、一度も実家(王宮)で寝泊まりしておりません。
とはいえ本人も、華美な空間はもともと性に合わなかったりもするのですが。




