広井夏樹(10)
「君にはガッカリしたよ、夏樹ちゃん。君は確かにこの勝負には勝った。しかし、何も変えられていない。『テンペスト』も『ユリア・シンドローム』も、私たちの計画すらね。まるでフレーム問題を起こしたロボットだ」
ゆりあさんの冷静な声が、鋭く胸を貫く。
(どのくらい、かかるものなの?)
関係ないことを考えて気を紛らわせようとするけど、頭が全然働かない。そんな私を見かねて、舞先生がそっと助け舟を出してくれる。
「夏樹さん、さっき言ってた世界のマスコミへのリークは?それが本当にできるなら、この人たちだって計画を止めるしかないはずでしょ?」
本当に、舞先生がここにいてくれてよかった。まるで、二日ぶりに息を吸えたような――そんな安心感があった。
「でも舞先生、それじゃ間に合わないの。たぶん、ゆりあさんは報道が動き出す前に『フェイズ3』へ進めちゃう。『フェイズ3』は……私にも止められない」
ゆりあさんはその言葉にうっとりと目を細めている。なら、今のうちに畳みかける。
「ゆりあさんの目的は、世界の常識を変えること。多分、おむつにまつわる恥や偏見を全部なくしたいんだよ。『ユリア・シンドローム』って、今じゃ『おむつを使ってる人=天才』って印象になってる。だから、確実に10年前より理想に近づいてる」「理想は50%以上だね。今のところ『ユリア・シンドローム』の患者が1000万人、乳幼児と高齢者を含めれば1500万人。全体の12%くらい」
ゆりあさんが補足する。なるほど、マリさんが言っていた『そっくり』ってこういうことか。自分が喋りすぎてしまう癖も、私と同じ。
そして私は、打たれ弱いのも自覚している。
「それにしても驚いたな。『スーパーセル』のハッキングすら陽動か。表向きは混乱の復旧で注目を集めつつ、裏で別の情報を盗む。まるで火事場泥棒だ」
皮肉交じりの口調にも、私は笑顔でかわすだけ。
「そんなことより――『フェイズ3』って何?」
舞先生が、私にもゆりあさんにも向けて問いかける。どちらが答えてもいいように。
「『シーズン3』は、ウイルスを使ったバイオテロ。そんなの、小学5年生に止められるわけないよ」「テロとは失礼ね。ただ、人の多い場所に感染性の高い保菌者を置いておくだけ」「それ、普通にテロだよ。そのウイルスに感染すると、神経性の排尿障害が起きるんでしょ?」
「なんでも知ってるのね、感心するわ。ちなみに夏樹ちゃんだったら、どこに置く?」
「うーん……EU、アメリカ、アジアで3カ所、それに南半球で1カ所かな。ヒースローかシャルル・ド・ゴール、JFKよりはニューヨークリバティー空港。あとは、上海か仁川あたり」
「ふふ、いいわね。そうしようかしら」
その時、舞先生が少し申し訳なさそうに会話へ割り込んできた。
「あの、仲良くおしゃべり中に悪いけど……そのウイルスがあるなら、最初からそれだけやればよかったんじゃない?」
「舞先生、それだと世界がパニックになっちゃうよ」
「……ううん、夏樹ちゃん、それじゃわからないって、『テンペスト』を使ってまず“前提”をつくっておかないと、いきなりパンデミックを起こしても、人は理解しない。コロナと同じになってしまうの」
ゆりあさんが説明している間に、私は『テンペスト』の画面に目を落とす。新しい通知が表示されている。
『支払いを確認。実行する』
翻訳ソフトの誤変換が少し気になるけど、大筋では合っている。
「いい? 夏樹ちゃん。君は『フェイズ』って言ったけど、私たちは『シーズン』って呼んでる。『シーズン3』の目的は、感染によっておむつ使用率を50%以上に引き上げること。それが当たり前になれば、これから子どもを産む親は、果たしてトイレトレーニングをするかしら?」
「……こんなに情報をばら撒いて大丈夫なの?」
思わず私が訊く。けれど、ゆりあさんは冷酷に、でもどこか嬉しそうに答えた。
「現段階で、君は小学5年生。私の力でどうにでもなる。さっきはちょっとミスったけど……住んでるアパートを買い取って退去させたり、新しい住まいの契約を裏で妨害したり。そうやって、君をすぐに動けなくすればいいだけ。もう、ここからは消化試合よ」
見た目は私とそう変わらないのに――なぜか、その笑顔には、同性の私ですら思わずドキッとするような、ぞっとするような色気があった。




