第35話 最後の戦い<1>
最上階に到着する頃には、塔の窓から差し込む光は、夕暮れ時の色に変わっていた。
長い螺旋階段をひたすら登り続けた一行は、これから悪魔の王と対峙するというのに体力を消耗してしまっている。兵士たちの表情には若干の不安が滲んでいた。
「あれ? この血って……?」
ふとミラが、窓辺から回廊にかけてぽたぽたと残る黒い血痕を発見する。
「これは――」
間違いない。サキュイラのものだ。エネルモア遺跡で大怪我を負った夢魔は、血塗れの身体のまま、窓からこの塔に侵入したのだろう。
「サキュイラはここに来て、いったい何を……」
そう言いかけたリサだが、はっとしたように言葉を止めた。
数百年前の大戦で追い詰められ、遺跡で仮死状態になっていたサキュイラ。復活した奴が考えることは、おそらく一つだ。
「……魔神王の封印を解きに来たんだろうね」
ファロン博士の言葉に、兵士たちの表情がきゅっと引き締まる。
「急ぎましょう!」
王女の掛け声を合図に、武器を構えた一行は、回廊に続く血の跡を辿った。
◇ ◇ ◇
しばらくしないうちに、王女たちは広い部屋に辿り着いた。
何本もの柱が天井を支える、石造りの広間。その中央の祭壇のような場所に、巨大な氷が横たわっている。
「あの氷の中に、魔神王が……」
サキュイラが歩いた跡と思われる黒い血は、その氷の傍まで続いていた。
「おそらく夢魔は、あの氷を必死に破ろうとしたんだろうね」
ファロン博士の言う通り、リサたちのいる部屋一面には氷が溶けたあとの水が大量に広がり、石でできた床を黒く濡らしていた。
だが、魔神王を包む氷は完全には溶けきっていない。
かつての龍神王が命を懸けて生み出した封印だ。そう簡単に破られるはずがない。
「サキュイラは封印を解くのをいったん諦め、先に王家の山へ向かったんだ。『暁光の杖』を破壊するために」
夢魔はそこでリサたちと鉢合わせ、アルフに流れる「龍の血」を目覚めさせてしまったのだ。
「魔神王の封印を解き、この世界を支配する」――サキュイラの夢はあの神殿の中で潰えた。
しかしアルフたちはまだ、悪魔族の脅威を完全に退けたわけではない。目の前に眠る悪魔の王を、討ち滅ぼさない限り。
リサ王女はひとつ息を吸うと、黄金に輝く杖を両手に持ち、一歩前に出た。
「いったん氷を溶かします。みなさん、武器を構えていてください」
王女が炎の呪文を唱えると、杖の先端から地獄のような業火が噴き出す。リサの元々の魔力が高いのはもちろんだが、暁光の杖が彼女の魔法を更に強化していた。
熱く激しい炎に照らされ、みるみるうちに溶けていく氷。それにつれて、中で眠る魔神王の姿がだんだんと鮮明になってくる。
「えっ……!?」
薄くなった氷の中で、瞳を閉じる人物。その姿を認識し、リサは思わず、持っていた杖を取り落とした。
「おとう……さま……!?」
その場にいる誰もが、信じられない気持ちで目の前の光景を見つめる。
短く切り揃えられた銀の髪。豊かにたくわえられた口髭。
――氷の中に封じられていた人物は、亡き国王でありリサの父、エリック・ディールの姿をしていたのだ。
「お父さま!? お父さま……なの!?」
胸元をぎゅっと握りしめ、リサは身を乗り出してそう問いかける。混乱する王女を守ろうと、アルフとサウードは彼女の傍にさっと駆け寄った。
とはいえこの展開には、流石のアルフも動揺していた。魔神王が眠っているはずの場所にいたのは、アルフがこの世で一番尊敬するエリック王だったのだ。
信じられない光景に、頭がついていかない。「どんな結末が待っていても恐れない」と決意した心が、ひっくり返されそうなくらいには。
リサの呼びかけに呼応するかのように、エリック王と思わしき人物はゆっくりと口を開く。
「誰……だ……?」
その声を聞いただけで、アルフの全身にぞわりとした悪寒が駆け巡った。
2年前に没した王の声を、彼が忘れるはずはない。この声はエリック王のものじゃない。
溶けゆく氷の中に立つ人物を見つめ、リサたちはごくりと唾を嚥下する。
「誰か、そこにいるのか……?」
閉じられていた瞳が、ゆっくりと開く。
「お父さま……じゃ、ない……?」
その色を見て、リサは一歩後ずさった。
ディールの海のような色をしていたはずの、エリック王の瞳。
しかし、いま目の前にいる"エリックの形をした何か"は、血のように紅い瞳をしていたのだ。
「リサ。これはきっと魔神王の罠だ。狼狽えれば奴の思うつぼだ……」
アルフは必死にそう諭すが、王女の身体は混乱と恐怖で小刻みに震えている。
「父? ……そなたには、私が父に見えるのか?」
「悪魔の王」という肩書きには似つかわしくないやけに甘い口調で、魔神王はリサに語りかける。
――その瞬間、リサははっと息を呑んだ。
赤かったはずの悪魔の瞳が、優しい青色に変化していたのだ。
「おいで、リサ。そんなところで何をしているんだい?」
低く不気味だった声が、温かく安らぐエリック王の声に変わる。
「これは、お父さま、だわ」
うわ言のように、リサは呟く。
亡き父の面影を前にして、16歳の少女の心は完全に冷静さを失っていた。
「お父さま」
目の前の人物を「父」だと認識するにつれて、リサの周囲は真っ白な霧に包まれていく。さっきまで一緒にいたはずの皆が、どんどん見えなくなっていく。
「お父さま。……わたし、貴方の遺言のとおり、王家の謎を解き明かしたの」
涙を浮かべるリサは、久しぶりに会えた大好きな父を見上げた。
「遺言? 王家の謎? ……いったい何の話をしているんだい?」
「えっ? ……だってお父さまは、2年前に病気で……亡くなってしまったでしょう?」
目の前に立つ父は、立派な髭をたくわえた口を豪快に開け「ははは!」と笑う。
「リサ、冗談はやめておくれよ。私はこの通り、元気に生きているじゃないか」
「えっ……? じゃあ、悪魔は? 杖は? 王家の山でリファさまとお会いしたのは……?」
戸惑うリサに、エリックの手がそっと伸びた。
「こっちへおいで、リサ。怖い夢でも見たんだろう」
……夢?
わたしの旅は、ぜんぶ夢だったの?
「そうさ、夢だったんだよ」
魔獣にされたノノも。
ミラとロバンと、博士に出会ったのも。
レオンさんが亡くなったのも。
「そっか……。ぜんぶ、夢だったのね」
真っ白な霧の中、リサは目の前に立つ父を見上げて微笑む。甘くてふわふわした心地がして、頭がうまく回らない。なんて幸せな現実なんだろう。
「……だからこっちへおいで。愛しい娘」
父の手に誘われ、リサは一歩ずつ歩き出した。
「わたし、これからはずっとお父さまと一緒にいられるのね」
「ああ、そうさ。お前はもう怖い夢を見ることもないよ」
大好きな父の手は、もうすぐそこにある。その手を掴もうと、リサは精一杯に腕を伸ばした。
――リサ!
そのとき、背後から誰かの声が聞こえて、リサはぴたりと手を止めた。
「誰かが、わたしを呼んでる……」
後ろを振り向き、声の主を探す。真っ白な世界では一寸先すらよく見えない。
――リサ、そちらへ行ってはいけない!
また、声がした。
優しくて胸がきゅっと切なくなる、リサにとって特別な声だ。
「まだ寝ぼけているんだ。気のせいだよ」
エリックがそう窘めるが、リサは胸のざわつきを止められなかった。
――こっちへ来るんだ! リサ!
こんなにも胸を焦がす切実な声を、どうして無視できようか。
「ううん。気のせいじゃないわ」
伸ばしていた手を引っ込めて、リサは臆することなく目の前の人物を見上げる。
「あなたは、お父さまじゃない」
王女がそう告げた瞬間、"エリックの形をした何か"は、忌々しげに顔を歪めた。
「わたし、そちらには行かない」
だって、約束したから。
――女王になる姿を、いつか彼に見せると。




