第32話 優しい嘘
アルフの血によって目覚めたリサは、自室で療養することになった。
ミラやロバン、そしてファロン博士には客室が与えられ、それぞれで夜を過ごしている。
研究室でエヴァンの整備を行っていたアルフは、ふと、入り口のドアがノックされる音を聞いた。
「やはりここにいたんですね。部屋にいないようだったので、まさかとは思いましたが……」
室内に入ってきた人物――サウードは、床に座ってエヴァンと向き合うアルフの姿を見るなり、露骨に嫌な顔をする。
「まだ万全の状態ではないのでしょう。ちゃんと部屋で休んでください」
「休んだほうがいいのは、どう考えてもお前の方だろ」
アルフは立ち上がり、疲れの滲むサウードの顔と向き合った。数日前に王家の山を登ってから、彼は働きづめだ。ちゃんと寝ているのだろうか。
「私は大丈夫です。――それより、あなたに伝言。王女様が、あなたにお話ししたいことがあるそうで」
「リサが?」
「ええ。お部屋にいらしてほしいとのことです」
アルフは驚き、急いで研究室を出る。改まって「話したいこと」とは、いったい何なのだろう。
「……王女様にあなたの生い立ちのこと、ある程度お話しさせていただきました」
並んでリサの部屋への道のりを歩きながら、サウードは静かにそう言った。
皆が寝静まった夜の城はしんとしていて、暗い。昼の賑わいがまるで嘘のようだ。
「そうか。……リサ、驚いていただろう?」
「ええ、もちろんです」
隣を歩くサウードがすかさず頷いたので、アルフはふっと笑う。
王女が驚くのも当然だ。彼女が深く信仰し祈りを捧げていた神の正体は、ずっと昔から一緒にいた幼馴染みだったのだから。
誰もいない廊下に、二人のコツコツという足音だけが響き渡る。
「リサ様が仰っていたのですが、あなたが空を飛ぶのに憧れてエヴァンを造ったのは、龍の本能によるものなのかもしれませんね」
思いもよらないことを言われ、アルフは琥珀の瞳を大きくした。
確かに自分は、小さいころから空を飛ぶことに憧れていたし、その夢をリサに語ったこともあった。もしかするとそれは、自分に流れる「龍の血」によるものだったのかもしれない。
「あなたは昔から、傷の治りが異常に早かったし、訓練せずとも剣の腕が良かった。今思えば、あなたが『龍の生まれ変わり』であるという伏線は、至るところに落ちていたのですね」
サウードの言う通りだ。
アルフとリサが旅立った日よりも、エリック王が娘に遺言をのこした日よりも――ずっと昔から。アルフの周囲には、無数の「点」が転がっていたのだ。
しかし彼は、それらに気づくことができなかった。
サキュイラの放った刃が、リサを貫いたあの瞬間になって初めて、すべての点と点が繋がったのだ。
「でも……あなたを待つ『結末』だけは、王女様にお伝えすることができませんでした」
廊下に響くサウードの声が震え、アルフはぎゅっと拳を握りしめる。
「いいんだ。お前が伝える必要はない」
――魔神王を倒すと、世界からアルフが消えてなくなる。
これからアルフが迎えるであろう「結末」を告げれば、王女の心はきっと苦しむだろう。
リサの部屋の前に到着したサウードは、声をひそめてアルフに問いかける。
「全てを、王女様に……お伝えするつもりですか?」
サウードに問われ、アルフはそっとピアスに手を触れた。
「……わからない」
そう呟き、何かを耐えるように目を閉じる。
この扉の向こうにいる人に告げるのは、辛く苦しい現実か、夢のように優しい偽りか。
アルフはまだ、決断できていない。
◇ ◇ ◇
アルフが室内に入ると、水色のローブに薄い外套を羽織ったリサは、部屋の奥にあるテラスで星を眺めていた。薄暗い夜闇の中で、彼女の白い肌がひときわ映えている。
「ごめんなさい、こんな夜中に呼び出して」
こちらに気づいた王女は夜風に髪を靡かせながら、柔らかく微笑んだ。黒い空を背景に揺れる銀の髪は、まるで天の川のようだ。
サウードは扉の向こうで警護にあたっている。リサと二人きりで話すのは、なんだか久々な気がした。
「別に構わない。それより、もう動いていいのか? まだ安静にしていないと……」
リサの隣に立ってそう問いかけると、王女はゆっくりと首を振る。
「平気よ。もうどこも痛くないの。……アルフが、わたしを治してくれたんでしょう?」
微笑みを浮かべたままこちらを見上げる王女の瞳と、視線がぶつかった。
「サウードから教えてもらったの。あなたのこと……」
リサの両手が、アルフの頬を包む。冷たい外気に反して、その手は温かく、柔らかい。
「龍神王さま――あなたに、お礼が言いたかったの。時を越えてわたしに逢いにきてくれて、ありがとう」
夜闇の中で輝く、吸い込まれそうなリサの瞳。アルフは昔、この瞳に見つめられるのがどうも苦手だった。
でも、今は違う。この透き通った水面のような瞳に、彼は誰よりも魅了されている。
「礼なんて言わないでくれ。むしろ、俺は非難されるべきだ。『リサ王女を守る』という使命を忘れ、君の身を危険に晒したのだから」
この数日間の旅のなかで、アルフはリサに守られてばかりだった。「あなたを守る」――旅立ちの日の夜、王女がそう宣言した通りに。
守るべき対象に守られ、導かれ、彼はようやく自分の使命を思い出せたのだ。なんと皮肉な運命なのだろうか。
アルフの言葉に、リサはううんと首を振る。
「そんなことない。……わたし、嬉しかった。あの日の夜、あなたがわたしの手を取ってくれて」
リサの白い指先が、アルフのそれに絡んでくる。旅立ちの日の夜、彼の研究室でしたのと全く同じように。
「わたしについてきてくれて……本当に、ありがとう」
緑柱石のような瞳に見つめられ、アルフの心は切なく震える。繋いだ手から寄せられる純な想いに、気づかないわけがなかった。
春の夜の風が、二人の髪を気まぐれに撫でていく。眠りに落ちる城下街も、夜空に浮かぶ星と月も。まるで旅の始まりに戻ったみたいだ。
――あの日。「わたしを誘拐して」とリサに抱きつかれ、差し出された手を取った自分の衝動を、アルフはずっと理解できていなかった。
でも、今なら分かる。痛いほどに胸を焦がす、この鮮烈な感情の名を。
「礼を言うのは俺の方だ。あの日の夜、リサが誘ってくれたおかげで、俺は両親と再会できたんだ」
硝子細工のような王女の瞳を見つめながら、アルフは繋いだ手に力をこめる。
世界で二人きりになってしまったのかと錯覚するくらいの、静寂。
「……ねぇ。二人でした『約束』、覚えてる?」
その静寂に、王女がぽつりと言葉をこぼした。
「……ああ」
忘れるはずがない。暁の空の下、二人で交わしたあの約束――「リサが女王になる姿を、いつかアルフに見せる」、と。
「きっと果たしてみせるから、それまでどうか、わたしのことを見ていてね」
その言葉を聞いた瞬間、泣いてしまいそうなほどの切なさが、波のようにアルフを襲った。
――その約束は、守れない。
なぜならアルフは、魔神王を倒したその先の世界で、生きることを許されていないからだ。
王女の瞳は星のように煌めき、未来に待つ希望を疑うことなく信じている。その無垢さがあまりに眩しく、アルフは思わず目を逸らしてしまいたくなった。
ごめん、と言いかけた口が、凍ったように動きを止める。
真実はあまりに残酷で、告げることなどできそうもない。リサを苦しめることも、哀しませることもしたくない。
「……ああ。ずっと、そばで見ている」
ならば自分は、この優しい嘘を、彼女の前で真実として貫き通そう。
春先の空気に溶けるように、二人はどちらからともなく抱き合った。リサの小さな背中に腕を回し、アルフはそっと瞳を閉じる。
雪のように降り積もる想いが、彼の指先を震わせた。
リサが救われ、彼女の目的が果たされるなら、この身がどうなろうと構わない。たとえ時空の因果を歪めようとも、"アルカナを宿す者"としての使命を果たしたい。――そう覚悟を決めていたはずなのに、鈍りそうになる。
どうして自分は、リサと同じ時代に生まれなかったのだろう。
どうして「永劫の輪廻」は、こんなにも残酷で非情なのだろう。
「リサ……」
もし、5歳の自分が、記憶を保った状態でリサに出会ったなら。こんな気持ちを抱かずに済んだのだろうか。
いや――違うな。
どの時代で、どんな姿で出会おうとも。きっと自分は、この少女を愛さずにはいられない。
だからこそ――苦しかった。二人で交わした茜色の約束を、破ってしまう結末が。
リサが夢を叶える頃、アルフはきっとこの世界にはいない。女王になったリサがどんな国をつくるのか、見届けることができないのだ。
「ずっとそばにいたい」――この狂おしいほどのアルフの願いは、きっと天上の星には届かない。
「……いしてるわ」
腕の中で震えるリサが、小さく何かを呟く。
アルフは涙を堪え、聞こえていないふりをした。




