第11話 繋いだ手と手
鼻腔をくすぐる磯の香りと、少ししょっぱい口の中。
そこら中から聞こえてくる、商人たちの客引きの声。
港には漁船がたくさん行き交い、空からは鴎の鳴き声がする。
朝を迎えた水上都市エネルモアは、ディールの城下街とはまた違った賑わいを見せていた。
「すごいわ、人がこんなに……!」
市場を行き交う人の波に、リサ・ディール王女がはしゃいだ声を上げる。無理もないだろう。
王女としてこの国に生まれ落ちて、16年。彼女が城を出たのは、この旅が初めてに等しいのだ。
青緑の瞳をきらきらさせ、辺りをきょろきょろ見回す王女に、アルフは「はぐれるなよ」と声をかける。
エネルモアは、ディール王国の南の玄関口だ。港には毎日、異国からたくさんの船がやってくる。そのため、市場にも自然と外国人や外国の物品が溢れかえる。
ディールと様々な外国の文化がごった煮になった、特異な大都市――それがエネルモアだ。
「アルフ、見て。踊り子さんがいるわ」
ふと通りかかった酒場の前で、リサが立ち止まる。つられてアルフも足を止めた。
そこに居たのは、異国から商売に来たであろう踊り子たちと、それを取り囲む大勢の男の観客だ。
踊り子たちは情熱的な音楽に合わせて体をくねらせ、扇情的な眼差しを振りまいている。彼女たちがきわどいポーズをとればとるほど、観客の男衆は鼻息を荒くして歓声を上げた。
おそらく彼らは一晩中ああしていて、時刻がすっかり朝になっていることに気づいていないのだ。
あまり品のいい光景とは言えないが、隣のリサは物珍しそうにその様子を見つめていた。
「これが、この街の『いつもの朝』なのね。わたし、もっと色々見て回りたいわ」
王女の声は軽やかに弾み、その表情は城に居たときとは大違いだ。よっぽど、城では自分自身を抑圧していたのだろう。
朝日を受けて煌めくリサの瞳を見ながら、アルフは「悪くない」と思った。
こうして一緒にいれば、彼の知らないリサを発見することができる。それだけで、アルフがこの旅に同行する理由になる気がした。
「ロバンとミラは、『昼ごろに到着する』と言っていたな。それまでなら――」
アルフがそう言いかけたとき、ふと、隣から「ぐぅぅ」という謎の音がする。いったい何の音だろうと怪訝に思うアルフだったが、少し顔を赤らめるリサを見て、すぐに悟った。
「……リサ。腹が減っているんだな」
「え、ええ……。はしたなくてごめんなさい」
単刀直入に指摘されて、王女は赤面したまま、お腹の辺りを押さえる。
「いや、気にするな。銀行で金をおろして、何か食いに行こう」
深夜に城を出てから色々あったせいで、空腹を感じているのはアルフも同じだ。
折角だからエネルモアの郷土料理でも試してみようか……などと考えつつ、彼は銀行の方角へ歩き出す。しかし、リサがついて来ないことに気づき、すぐに振り返った。
「リサ、どうしたんだ」
大通りの石畳の上で立ち止まったままのリサ。その表情は暗い。
何事かと訝しむアルフに、彼女はおずおずと口を開く。
「わたし、すぐにはお金、返せないわ……」
――なんだ、そんなことか。
アルフはやれやれと首を振った。
そんなことなんて気にせず、もっとこちらを頼ってほしい。アルフは自分のできる限りで、今のリサにできないことを支えたいと思っている。なぜならアルフは、リサを信じ、彼女の未来に期待しているからだ。
ついさっき茜色の空の下で交わした、あの約束。あれは生半可な気持ちで、冗談半分で交わした約束なんかじゃない。
「リサならきっと女王になれる」と。そう思ったから持ちかけた、口約束なのだ。
「リサならきっと、エリック王の遺志を継ぎ、王家の真実に辿り着くことができる」――そう思ったから、アルフは、この旅に同行しているのだ。
「リサが女王になったら、俺の給料を上げてくれればいい」
アルフはそれだけ言って前を向き直り、再び歩き出した。
「……ありがとう」
ややあって、こちらへ駆け寄ってきたリサが、アルフの左手をぎゅっと掴む。ちらりと横目で見下ろした彼女の瞳は、少しだけ潤んでいた。
リサにもきっと、伝わったのだろう。アルフがリサ・ディール王女にかけている、その思いが。
アルフは黙って、リサの右手をそっと握り返す。
――いつか二人の約束が果たされる、その日まで。
リサがはぐれてしまわぬよう、この手を絶対に離さないと心に誓った。




