3-10 青空教室
サルラの町、東の行政区。
商業区だけでなく、ここにもちゃんと食事をする場所がある。
背の高い建物にはさまれた一本の通り。道に沿ってレストランが軒を連ね、様々なデザインのオーニング(日除けテント)が道に向かって腕を伸ばしている。すぐ近くの駐車スペースでは、馬車を改造した屋台が並んでいた。
通称レストラン通り。
そこでは様々な日常が繰り広げられていた。
スーツ姿の若い男性が、買出しを頼まれたのか、大量の弁当を抱えて通り過ぎる。羊のような角を生やした女性が、お日様のような笑顔を浮かべて、ベビーカーの子供に離乳食を与えている。鎧姿の男たちが、テーブルを囲んで何やら打ち合わせをしている。
猫の尻尾を生やした若いウェイトレスが、「63番のお客さまーどこー」涙目で人ごみの中を右往左往している。あっこけた!? あーあ。
屋台のひとつに目をやれば、見たこともない巨大な魚がこんがりとキツネ色に焼かれ、逆さ吊りされており、それをブラジル料理のシェラスコのように長いナイフで身をそぎ落とし、パンに挟んでソースをかけて売っている。店の前には長蛇の列。流行っているようだ。
このファンタジーと生活臭がごった煮になった雰囲気、たまらないねー。
いくら見ても見飽きることは無かった。
「こーらっ、よそ見しないのっ」
「ご、ごめんなさい」
対面に座るステラさんに指で頬を突かれ、僕は慌ててノートに向き直った。
あの後。
超特急で町に戻った僕は、このカフェテラスで、ステラさんと落ち合った。
時間はぎりぎりセーフ。ボナンザ超優秀。
先にテーブルについていたステラさんが、僕に気付いて立ち上がる。その、まるで映画のワンシーンを切り取ったような光景を前にして、思わずドキッと胸が高鳴った。
カフェに居る男たちはみな、食事する風を装って、チラチラと彼女を盗み見ている。そして僕の存在に気付き、一様に嫉妬の視線を向けてきた。イヒヒ。どーだ羨ましーだろー。僕はかるい優越感を覚えつつ、ステラさんに手を振った。
今日もステラさんは見目麗しかった。
ブラウンの髪を片耳にかけた、大人の女性といった雰囲気のヘアスタイル。
ひざ丈のスカートからは、黒のストッキングに包まれた脚線美がすらりと伸び、上品なハイヒールがその先を包んでいる。羽織った薄いカーディガンの下には、純白のノースリーブシャツ。襟にあしらわれた植物の模様がとてもオシャレだ。これは私服なのだろうか? いままでギルドの制服しか見たことが無かったので、とても新鮮だった。
そして、なによりも僕の心を惹き付けているのは――
「シンゴ君、こっちこっち」
手招きする度に、カーディガンの隙間から僅かに覗く『ワキの谷間』。それが妙に生々しいというか……なまめかしくて……僕はついドギマギしてしまう。ああどうかそんな所をイヤらしい目で見ていることがステラさんに気付かれませんようにでもあともう少しだけ見てたいですと神様に願いしつつテーブルについた。
こうしてたまにだけど、ステラさんと昼食の約束をしている。別に食事だけが目的なのではなく、食後に色々と教えてもらっているのだ。
クラウディアさんと初めて会ったあの日。
実はあの後、今後の活動を、ステラさんが色々サポートしてくれるという説明をされた。もちろん僕が地球人であることをステラさんは知っている。まぁそんなわけで、昼休みが長い曜日に限り、勉強を見てもらっているのだ。
まず文字の習得だ。
文字自体はアルファベットに似ているから、覚えやすくはある。
あるんだけど……。
「あっ、ここ、間違えてるわよ」
「えっ、あ、えーっと」
全く馴染みのない言葉をゼロから記憶していくのは、やっぱり大変だった。
眉根を寄せて苦戦していると、
「ここは、『r』じゃなくて『r。』 これだと意味が逆になっちゃうの」
「あ、そっか」
助け舟を得て、頭の中で絡んでいた糸がほぐれる。
書きなおしつつ、そこで気付いた事を口にした。
「たしか『火』と『水』とか、『月』と『太陽』もそうでしたよね」
「あら」ステラさんが優しい表情を浮かべる。「よく覚えてたわね」
「はい。このまえ教えてもらいましたから」
「でもちゃんと復習してるのね、偉いわ」
「い、いえ……その……」
「ウフフ」
褒めてもらえたことが妙に気恥ずかして、照れ隠しに頬をかく。
そんな僕を見てステラさんは目を細めた。
「たとえばホラ、こことかも」
向かいに座るステラさんが身を乗り出し、その長い指がノートの上を踊る。
グッと距離が縮んだことで、淡かった香水の香りが強くなる。その女性的で甘い芳香が、微風に乗って僕の頬を柔らかく撫で、思わずうっとりとしてしまった。勉強に集中しなきゃいけないのに、どうしても、すぐそこにある美貌に心がいってしまう。
エメラルドの涼やかな瞳。
まるで血管が透けてしまいそうなほどキメ細やかな肌。
サラサラの髪から伸びる長い耳。さりげなくつけられた上品なピアスが、顔の角度が変わるたびに清流を思わせる音を奏でる。すぐ傍で発せられる彼女の声が、まるで僕の耳を撫で摩るかのような心地よさを与えた。
気を抜くと、弛緩して椅子からズリ落ちてしまいそうになる。
美味しいパスタを食べて。
ぽかぽかした昼の陽射しが気持ちよくて。
すぐ傍にステラさんが居て。
ああ。
僕はいま、最高に幸せだ。
ノートにペンを走らせつつ、僕は幸福感を司るセラトニンという神経伝達物質が、壊れたスプリンクラーのように脳内で放出されているのを感じた。
すこし休憩を挟み、ステラさんと何気ない会話を楽しむ。
話題に上がるのは、ステラさんがベーコンを焦がした事だったり、ボナンザのちょっとした仕草だったり。本当に何て事のない話だ。でも僕たちのテーブルには、笑顔が絶えなかった。
そうしてひと心地ついて、さあ勉強を再開しようとした時だった。
なにやら騒がしい2人組みが、すぐ近くのテーブルに座った。
たぶん僕とそれほど歳は違わないだろう。
それなりに鍛えられた体に、ごっつい甲冑。腰には剣。傭兵か、もしくは冒険者。
それだけなら大して気にもならなかったのだが、
「でよー、ヒック、そいつが必死に後ろから腰を振ってると、女がこう言ったんだ」
「何て?」
「指はもう良いからそろそろ挿れてくれってよ」
「ギャハハハ!」
2人はかなり酔っており、ずっとこの調子で騒ぎ続けているのだ。
口から出る言葉に品性のかけらもなく、このお洒落なカフェテラスの雰囲気をぶち壊すには十分な威力を有していた。
周囲から迷惑そうな視線が向けられる。しかしそれを意にも介さず、まるでハンバーガーショップで騒ぐバカ大学生のように大声を発している。
さっきまで確かにあったはずの甘くてホワホワした空気が一気に霧散する。
ビキリ、と右手に血管が走った。
「……はぁ」
静かにノートを閉じる。
僕はこういうヤツが嫌いだ。
トトリ峠の時もそうだったが、他人の迷惑を顧みず、自分さえ良ければそれでいい、と考える人種が嫌いだ。僕の至福の時間を台無しにしやがって。こういうヤツにならいくらでも暴力を振るっても良いと思える。――あぁだめだ、今のは軽率だった。この前、失敗したばかりなのに。
一度深呼吸して、考えを改めた。
たしかに彼らは騒がしい。
でも、そこまで目くじらを立てるようなことじゃない。
イヤだったら僕が場所を変えれば良いだけの話だ。
「……」
一方、ステラさんはと言うと、さきほどから彫像のように微動だにせず、感情の窺えない目でじっと2人を見ていた。ごくりと息を飲む。うわぁ、すごい怒ってる。彼女の周囲にある空気が、ピキピキと音を立てて凍り始めたような幻覚を見た。
ヤバイと思い、急いで場所変えを提案しようとする。しかし――
「あの、ステラさ」
「オイ! さっさと注文取りに来いよ! いつまで待たせんだよ!」
ここを酒場か何かと勘違いした男が大声で喚き、僕の声は掻き消された。
「なんか文句でもあるのか」
視線に気付いた一人が、じろりと睨みを利かせた。周囲の人たちはサッと視線を逸らし、顔を俯ける。それを見て男は鼻を膨らませて笑った。
何人かが逃げるように店を出る。
次第に重たい空気がカフェ全体に充満しはじめた。
その時だった。
「そこのあなたたち」
いつの間にかステラさんが立ち上がっていた。
その横顔を見た瞬間、僕は水風呂に叩き込まれたような悪寒に襲われた。
あの時と同じ貌をしていたからだ。
「なんだあ、ヒック…………いい!?」
その目がステラさんを捉えた瞬間、電流でも浴びたように顔を強張らせた。
男たちは酒で赤らんでいた顔を一瞬で青ざめさせ、信号機のような反応を見せる。
「立ちなさい」
たった一言で、さきほどまで横柄だった男たちは、尻にバネでも生えたような勢いで立ち上がった。その雰囲気に当てられて、全く関係のない人まで立ち上がる。
それも仕方ない。
こうなってしまったステラさんは、本当に、本当に怖いのだ。
僕も反射的に腰を上げそうになったし。
薄くリップグロスが塗られた唇から、剃刀のような切れ味の声が発せられる。
「冒険者登録番号2-4766、ブラト・ウスチノフ。同じく、2-8915、マルク・ロトチェンコ。両名、相違ありませんね?」
「「そうでありますっ」」
直立不動で、斜め上に向かって叫ぶ。
まるでハートマン鬼軍曹を前にした新兵のような返答だった。
「貴方たちは自分に割り振られた番号の『意味』を、しっかりと理解しておく必要があるようですね……」
ステラさんの瞳に、絶対零度の凄みが宿る。
そして。
始まった。
「ギルドに登録された瞬間から、貴方たちの行動のひとつひとつが、冒険者の行動として世間に見られます――ブラト・ウスチノフ」
「は、はいっ!」
名を呼ばれた男は、髪をクレーンで吊り上げられたかのように限界まで背筋を伸ばす。
「さきほどの貴方の振る舞いは、冒険者として相応しいものであったと言えますか?」
「そ、それは、その」
「はっきりと答えなさい」
「ひぃっ!?」
口ごもる男の胸を、氷柱となった声がドスッと重く貫く。
「どうなのですか?」
「ふ、不適切でありました!」
「その通りです。そういった貴方たちの身勝手な行動が、何の関係もないすべての冒険者、そしてギルドの『信用』を落とすことになるのです。そして一度失った信用は、生半な事では取り戻すことは出来ません――マルク・ロトチェンコ」
「はいっ!」
「貴方にその自覚はありましたか?」
「申し訳ありませんでした!」
「……」
「……え、あの」
「……」
「あの、ウィリアムス様?」
無言の反応に、男は狼狽える。
ステラさんは閉じていた口を再び開けた。
「私は……自覚があるか……ないかを……聞いているのです」
「あああありませんでででしたぁぁぁ」
深海から押し寄せてくるような迫力を前に、男は全身を震え上がらせた。
ステラさんは大きくため息をつき、そして言葉を続けた。
「この話は登録時、また更新の折に何度もしているはずです。いえ、たとえこのような話を聞かずとも、正常な道徳観念があれば『何をして良いか悪いか』など自分で判断がつくはずです。貴方がたは誰かに言われないと、その判別がつかないのですか?」
「……」「……」
「ギルドは貴方たちの素行を常にチェックしています。市民からの苦情は個人の調書にしっかりと記録し、こちらで独自に調査を行った上で、必要に応じて評価の引き下げ、及び罰則を科します。あまりに悪質な場合はギルド長のご判断で即『除名』という事も」
「ええっ!」「そ、そんな!?」
除名という言葉に泡を食う2人。
その反応に、ステラさんはぎろりと目を光らせた。
二人は下から顎を殴りつけられたように閉口した。
「当然の処置です。社会的モラルが欠如した者に、冒険者を名乗る資格はありません。一度除名が決定されれば再登録されるのは、ほぼ不可能といっていいでしょう。冒険者にとって市民の信用を失うということは、それほど重大な事なのです」
「日頃の振る舞いが、どれだけ重要であるかを、肝に銘じておきなさいっ!!」
特大の雷が2人の頭上に振り落ろされた。
「……」「……」
2人は返事さえすることができず、ただ俯き、立ち尽くしていた。
奥歯をかむその表情は、自分を恥じ入っているものに他ならなかった。
水を打ったような静けさがカフェを包む。
「しかし」
ふたたびステラさんが言葉をつむぐ。
「私は何も酒を飲むな、騒ぐなと言っているわけではありません。日頃のストレスを発散するために、仲間とともに楽しく飲酒することは大いに結構です。それが親睦となり、親睦がチームワークを育む。そして明日への活力ともなる。素晴らしいことです」
まるで雪が溶け、春が訪れるように。
それまで液体窒素が充満していた周囲の空気が、徐々に和らいでいく。
「しかし酒場などでなく、こういった公共の場で、しかも昼間に泥酔して騒ぐことは、人々の迷惑に他なりません。この度の貴方たちの行いは、除名と言うほどでないにしろ、評価にマイナスがつくことは確実です。今後こういったことが重なれば、たとえ貴方たちに実力があったとしても、任務につくことが難しくなってくるやもしれません。それは貴方たちの望むべき未来ではないはずです。ですので――」
ステラさんの横顔から、鋭さが抜け。
いつものカウンターに座るときの表情で、こう締めくくった。
「時と場所を考え、冒険者として相応しくあれ。ということです。わかりましたか?」
もうそこには、先ほどの鬼気迫る雰囲気は存在していなかった。
そして2人の男はと言うと、
「……ウィリアムス様」「……ありがとうございます」
まるでマリア像を前にしたキリスト教徒のように、膝をついて指を組んでいた。そして、その顔は涙で濡れそぼっていた。
その後、すっかり反省した2人は、すべてのテーブルに謝罪してまわり、ステラさんに何度も礼を言い、せめてものお詫びにと全員分の会計をしてから去っていった。
なんだか、ちょっとした人間ドラマを見たような気分だった。
ステラさんはやっぱり凄い。
厳しくて、そしてとても情に深い。
他人にあそこまで親身になって怒れる人はそうはいない。そしてその思いは、きちんとあの2人にも伝わったことだろう。
僕は尊敬をこめた眼差しで彼女の横顔を見ていた。
こんな凄い人と知りあいだなんて。
やっぱり僕は幸せだ。
その後。
快刀乱麻の活躍をしたステラさんは……なぜかしばらく落ち込んでいた。




